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フェーズ1:朝の五つ半

京、禁裏きんりの北、二条関白邸。08:00AM。

八月十八日の政変以来、帝の信任も厚い関白・二条斉敬にじょう なりゆきは、途方に暮れていた。

「みな、勝手なことを言いおって。麿まろは尾張(慶勝)と会津(容保)の板挟みじゃ。めんどくさいのう」

二条関白は、相談と称して屋敷に呼びつけた議奏の正親町三条実愛おおぎまちさんじょう さねなる愚痴ぐちを漏らす。

「心中お察しいたします」

「こういう面倒ごとは、無頼派ぶらいはの中川宮に押し付けるに限るわい。アレに、明朝出仕するよう伝えよ」

――中川宮朝彦親王なかがわのみやあさひこしんのう

長州を都から追い出すために中心的な役割を果たした公家で、

庶子しょし(側室の子)という出自を越え、今や二条関白にも並ぶ影響力を持つに至った、宮中に巣食う怪物である。

「朝議でございますか」

「諸侯を召集して会議を開くべきか、朝議にてみかどのご意向を伺う…かどうかを決める評議や!」

「…え?はあ?」

「とにかく!帝は首に縄をかけてでも家茂をここへ連れておじゃれと仰せじゃ!ぜっ・たい・に!」

正親町三条おおぎまちさんじょうは首をひねった。

「そやけど帝はほんまにそのようなこと仰らはったんどすか?」

二条関白は極まりが悪そうに視線を逸らす。

「さあのう…少なくともそれが禁裏の総意じゃ…」


ここで視点を変えたい。


同じ頃、会津藩邸と京都守護職きょうとしゅごしょくの庁舎を兼ねる、金戒光明寺こんかいこうみょうじ。08:40AM。

会津藩公用人、野村左兵衛は、一橋慶喜ひとつばしよしのぶ正親町三条実愛おおぎまちさんじょう さねなるに対し、容保の東下とうげと雄藩の召集しょうしゅう猶予ゆうよを必死に働きかけていた。


かたわらで控える部下の広沢富次郎が、困惑したように首を傾げた。

「だけんじょ、大樹公様(将軍)の上京のことにしちゃあ、在京の連中の意見ぁ揃っておるはずだし、なしてそんなに……」

「はご(バカモノ)!大樹公はな、諸侯に引きずり出されるような真似をしてはならんのだ。ご自分の意思で京へお運びになる――その体裁こそが肝要だべ!」

広沢にはこれが単なる尾張と会津のパワーゲームにしか見えなかったが、野村の剣幕にされて異論を飲み込んだ。

「…ん、んだな」

「今日中に一ツ橋公を捕まえて、殿の東下あずまくだりを認めさせねば、尾張に先を越されてしまっぺ!うう…胃が痛いわ」

「だけんじょ、野村様。慶喜公ぁ昨日は尾張に合わせでいだんじゃねえんですか?」

「……あのお方が昨日口にしたことなど、屁ほどの重みもねぇわ。まだ間に合う!」

「『二心殿にしんどの』なんつって揶揄やゆされてっからなあ」

なぜかその一言が、野村のゴシップ好きの性分を刺激したらしく、話はここから妙な方向に逸れ始める。

「んだ。聞いたか?京だけでも、お芳殿にお信殿、お幸殿と三人も囲って。気が多すぎて堪んねえわ」

「ほお! お幸っつうのは初耳だ。また増えだのですか?」

「そうとも。お信殿もお幸殿もうら若き美女だそうな」



話が下の方に脱線し始めたので、ここでさらに別の視点を加えてみたい。



その会津藩が京で雇い入れた治安部隊、新選組。

有名な近藤勇が率いる剣客集団である。

彼らは都の外れにある壬生村に屯所とんしょを構えている。

時刻は09:20AM。

実はここでも、得体の知れない不穏な空気が渦巻いていた。


隊士の岸嶋芳太郎が、廊下を歩いていた幹部の原田左之助の肩を叩く。

「原田さん、見ました?」

「なにが?」

原田が振り返ると、岸嶋は屯所とんしょの表門の方を指差した。

「門の前。朝からずっとまげを解いた三十路みそじくらいの女が立ってんすよ。いや、気づいたのが朝なんで、もっと前からかもしんない」

気味悪きみわりいな。なんで?」

「分かりません。なんも言わず、ただ突っ立ってるだけで」

「…ただって。お前行って何の用か聞いて来いよ」

「ヤですよ」

「はあ?子供か、おまえは!」

岸嶋はさらに声を潜め、原田の耳元で震えながら付け加えた。

「だって…相手は一糸纏いっしまとわぬ姿で、なんか虚ろな目をしてるんですよ?」

「こわっ! 最初にそれを言えや!」

「ど、どうします?」

そこへ、ふところに書類を差し込み、せわしなく通りかかったのは、これも新入り隊士の山崎丞である。

「あ、いいところに。山崎、お前さあ…」

山崎は歩みを止めず、軽く片手をあげた。

「ああ、ごめんなさい。今はちょっと!土方さんのお使いで出掛けなきゃならんので」

優秀な監察としての嗅覚が危険を察知したのか、視線を合わせることもなく、早足で裏口へ消えていく。

「話くらい聞けよ!」



…どうも本筋とはあまり関係がないようなので、さらに視点を移すことにしよう。



江戸、赤坂本氷川坂下。10:00AM

薩摩藩江戸留守居添役さつまはんえどるすいそえやく、柴山良助は前の軍艦奉行ぐんかんぶぎょう勝海舟の屋敷を訪ねていた。


昨年、大坂において薩摩の実力者・西郷隆盛と勝が初めて相まみえた折、その橋渡しをしたのが柴山である。

それからわずか一年。

柴山は薩摩藩邸に詰める江戸留守居添役えどるすい そえやくとなり、一方の勝は失脚し、表舞台から引き剥がされて自宅謹慎の身となっていた。

幕臣たちが手のひらを返して勝を避ける中、柴山だけは、薩摩藩邸から届いたばかりの芋焼酎いもじょうちゅうを抱えて、勝邸の敷居をまたぎ続けている。


縁側に向かい合い、杯が置かれる。

「京からの知らせじゃっど。一橋公は召しにゃ応じもはんで、老中の松前も、若年寄の立花も、逆に丸め込まれて戻って来たちゅ話でごわす」

「はは、さもありなん。慶喜にその機智きちがあればこそ、江戸城の年寄どもは肝を冷やしてるんだろうよ。京にいる慶喜が、勝手に横浜の港を閉じるなんて空手形からてがたを切りかねねえ、ってな」

「今度ぁ、本庄さあと阿部さあが、歩兵を引き連れて京へ上っちゅちょいじゃっど」

「ふん…まあ、見ものだな」

勝は、喉を焼くような焼酎を一気にあおった。


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