第1話②
放課後の剣道場は、独特の匂いがする。
汗と木と、少しの緊張。床を踏みしめる音に混じって、竹刀がぶつかる乾いた音が響く。
「面!」
鋭い声と同時に、榊詩友が一歩踏み込む。
相手の動きを読んだ、無駄のない一太刀だった。
「面あり!」
顧問の声が上がり、場の空気が一段、引き締まる。
私は壁際でメモを取りながら、その背中を見ていた。
真っ直ぐで、迷いがない。
授業中とは違う、剣道場での詩友くんは、少しだけ近寄りがたい。
「樋口、時間」
副部長に声をかけられて、私は時計を見る。
「はい。次で区切りです」
そう伝えると、練習はラストスパートに入った。
息の上がる音、床を擦る足音。
全員が集中している中で、詩友くんは最後まで動きが落ちない。
やがて、片付けの号令がかかり、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
「お疲れさまでした!」
部員たちの声が揃う。
「お疲れ」
詩友くんはそう言って、竹刀を丁寧に拭いた。
その手つきが、いつもと同じで、少しだけ安心する。
「詩友くん」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「どうだった?」
「今日は動き、かなり良かったよ。最後の面、特に」
事実をそのまま伝えると、詩友くんは「そっか」と短く答えた。
「無理してない?」
私がそう言うと、彼は一瞬だけ考えるような顔をしてから首を振る。
「問題ない」
「……なら、よかった」
私はペットボトルを差し出す。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
受け取る指先が触れて、すぐに離れる。
それだけのことなのに、なぜか心拍が少しだけ早くなる。
着替えを終えて外に出ると、夕方の風が思ったより冷たかった。
「おーい!」
校門の方から、やたらと元気な声が聞こえる。
「遅いぞ、詩友、瑞姫ちゃん!」
垣端くんが手を振っていた。その隣には、腕を組んだ佳苗。
「待たせた」
詩友くんが言うと、垣端くんは肩をすくめる。
「まあまあ。で、行くよな?」
「……どこに」
「コンビニ」
即答だった。
「部活終わりのコンビニは、青春の義務だからな!」
「意味分からない」
佳苗が冷静に突っ込む。
「賢、うるさい」
「ひどっ」
そんなやり取りをしながら、四人で歩き出す。
コンビニの明かりは、夕暮れの中でやけに明るかった。
店内に入ると、冷房の風が一気に身体を冷やす。
「俺、肉まん」
「まだ暑くない?」
「気分だよ、気分」
垣端くんはそう言いながら、迷いなくレジへ向かう。
「瑞姫は?」
佳苗に聞かれて、私は飲み物の棚を見る。
「スポーツドリンクにしようかな」
「剣道部のマネージャーっぽい」
「……そう?」
「うん、らしい」
その言い方が、少しだけ優しかった。
会計を終えて外に出ると、空はもうだいぶ暗くなっていた。
「うまっ」
垣端くんが肉まんを頬張る。
「賢、歩きながら食べない」
「はいはい、かーちゃん」
「だからその呼び方やめて」
詩友くんは、少し離れたところを歩きながら、黙って飲み物を口にしている。
「榊」
佳苗が呼ぶ。
「今日の練習、どうだった?」
「悪くない」
それだけの答え。でも、佳苗はそれで納得したように頷いた。
家の近くの分かれ道で、自然と足が止まる。
「じゃ、ここで」
垣端くんが言うと、佳苗も軽く手を上げた。
「また明日」
「うん、また」
二人が先に帰っていく。
残ったのは、私と詩友くんだけ。
「……じゃあ」
そう言って別れようとしたとき、
「樋口」
呼び止められた。
「今日は助かった。練習、回しやすかった」
「……そう言ってもらえるなら、よかった。」
それだけで、十分だった。
詩友くんは軽く手を上げて、帰っていく。
私はその背中を見送ってから、家の方向へ歩き出した。
夜風が、少しだけ冷たい。
でも、不思議と足取りは軽かった。




