第3話⑨
朝のグラウンドは、いつもと違う音で満ちていた。
スピーカーのテスト音、走り回る係の生徒、色とりどりのクラスTシャツ。
胸の奥が、きゅっと締まる。
……今日だ。
これまで何度も、放課後に詩友くんと練習した。
立ち位置。
声の出し方。
噛んだときの立て直し方。
全部、思い出せる。
「ひぐ……」
後ろから、聞き慣れた声。
「……瑞姫」
呼び直されて、思わず振り返る。
詩友くんは、少しだけ気まずそうに視線を逸らしながら、
「時間だ」
「うん」
それだけなのに、不思議と落ち着いた。
「緊張してる?」
玲奈先輩が横から声をかけてくる。
「……ちょっとだけ」
「大丈夫。噛んでも、止まらなければOK」
そう言って、にっと笑った。
朝礼台のほうへ向かおうとしたとき。
「ねえ、詩友」
玲奈先輩が、わざとらしく詩友くんに近づく。
「名前呼びになったんだー?」
「……っ」
詩友くんが、明らかに動揺した。
「ち、違……」
「へえ」
楽しそうに目を細める玲奈先輩。
「まあ、いいタイミングだね」
私は何も言えず、顔が熱くなるのを感じながら、朝礼台に上がった。
マイクの前に立つと、視界いっぱいに生徒たちが広がる。
一瞬、言葉が遠くなりそうになる。
でも。
詩友くんが、下からこっちを見ていた。
――大丈夫。
そう言われた気がして、息を吸う。
「……これより、体育祭の開会を宣言します」
一度だけ、噛んだ。
でも、止まらなかった。
最後まで、ちゃんと声を出して、言い切った。
拍手が起こる。
朝礼台を降りた瞬間、膝が少しだけ震えた。
「よかった」
すぐ横で、詩友くんが言う。
「ちゃんとできてた」
「……ほんと?」
「ああ」
短いけど、はっきりした声。
それだけで、全部報われた気がした。
体育祭自体は、あっという間だった。
競技があって、応援があって、笑って、疲れて。
気づいたら、夕方。
「おつかれー!」
ファミレスの席に座った瞬間、垣端くんが大きく伸びをした。
「まじで疲れた」
「でも楽しかったね」
佳苗がドリンクバーのコップを置きながら言う。
「瑞姫、開会の言葉よかったよ」
「ありがとう……」
「噛んだのも含めてな」
「それ言わないで!」
思わず突っ込むと、みんな笑った。
詩友くんも、珍しく肩を揺らしている。
ドリンクで乾杯して、他愛ない話をして。
今日の失敗とか、面白かった競技とか。
いつも通りなのに、どこか特別な夜。
私はストローをくるくる回しながら、ふと思う。
今日は、ちゃんと前に立てた。
逃げなかった。
それだけで、十分だ。
テーブルの向こうで、詩友くんが何か言いかけて、やめる。
でも、その表情は、いつもより少し明るかった。
楽しい時間は、あっという間で。
それでも、胸の奥には、確かな余韻が残っていた。




