第3話⑦
頭の中が追いつかないまま、視界が滲んだ。
「……え」
声が出たのかも、わからない。
ただ、詩友くんの言葉が胸に落ちてきて、勝手に溢れてきた。
涙。
理由はよくわからない。
安心したのか、救われたのか、それとも――嬉しかったのか。
「ちょ、ちょっと……」
詩友くんの声が、明らかに慌てている。
「え、泣くな、いや、違、そういうつもりじゃ……」
視界の端で、詩友くんがポケットを探るのが見えた。
「あ、これ」
差し出されたのは、少し折り目のついたハンカチ。
「……使え」
「……ありがとう」
受け取って、そっと目元を押さえる。
布越しでも、まだ胸がどきどきしているのがわかる。
「ごめん、急に……」
「いや……」
詩友くんはそれ以上言わず、少し距離を取った。
涙が落ち着いた頃、私は小さく息を吸った。
「……ねえ」
「ん」
「もう一回、練習……付き合ってくれる?」
「当然だろ」
即答だった。
それだけで、胸の奥がもう一度あったかくなる。
再び黒板の前に立つ。
「――開会を、宣言します」
「樋口」
呼び方が戻っている。
「視線、もう少し前」
「あ、うん」
「声、今のはいい」
「ほんと?」
「次、いける」
相変わらず指摘は多い。
でも、不思議とさっきほど苦しくなかった。
……あ。
ふと、気づいてしまう。
「……ねえ」
「なんだ」
勇気を、ぎゅっと握りしめる。
「もう、名前では呼んでくれないの……?」
言った瞬間、後悔しかけた。
詩友くんは、ぴたりと動きを止める。
「……」
耳まで赤くなってるのが、はっきりわかった。
「……呼んだろ」
「でも……さっきだけじゃん」
沈黙。
それから、ぼそっと。
「……瑞姫」
心臓が跳ねた。
「……もう一回」
「瑞姫」
お互い、顔を見ない。
見たら、たぶんだめだった。
先に、私が笑ってしまった。
「……なにそれ」
「笑うな」
そう言いながら、詩友くんも小さく笑っている。
時計を見ると、もう下校時刻ぎりぎりだった。
「やば」
「帰るか」
「うん」
並んで校門を出る。
夕方の空気が、少し涼しい。
「また明日も練習な」
「うん」
一歩前に出て、振り返りながら、
「み・ず・き」
区切るみたいに言って、詩友くんはそのまま帰っていった。
その背中を見送りながら、私は気づく。
今日の詩友くん、
いつもより声が明るくて、歩くのも少し軽かった。
「……なに、それ」
小さく呟いて、私は胸の奥をぎゅっと抱えたまま、帰り道を歩き出した。




