第1話
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音、机を叩く音、どこかで笑い声。
私はノートを閉じながら、そっと前の席を見た。
榊詩友――じゃなくて、詩友くんは、椅子に座ったまま軽く肩を回している。
ちなみに、中学時代の私は、ひねくれてた。少なくとも、同級生たちをフルネームで呼ぶくらいには。その時の癖で、中学から同じ人のことは時々フルネームで呼びそうになる。
さっきの授業、体育理論だったからだろうか。剣道部の彼にとっては、少し退屈だったのかもしれない。
「なあ詩友」
後ろから声をかけたのは垣端くんだった。
机に肘をついて、いつもの調子で身を乗り出してくる。
「今日の昼、購買行く?」
「行かない。弁当」
即答。
それを聞いた垣端くんは大げさに肩を落とした。
「うわ、つれな。せっかく瑞姫ちゃんと――」
「垣端くん」
私が名前を呼ぶと、彼はにやっと笑った。
「なに?」
「変な言い方しないで」
「はいはい。瑞姫ちゃんは真面目だなあ」
そう言いながらも、からかうのをやめないのが垣端くんだ。
「賢、うるさい」
横から冷静な声が飛んできた。
佳苗が、机に頬杖をついたままこちらを見ている。
「なにさ、かーちゃん」
「誰がかーちゃんよ」
即座に返されて、垣端くんは楽しそうに笑った。
「でもさ、榊」
佳苗は視線を詩友くんに移す。
「たまには購買付き合ってあげたら? あんただって、最近糖分足りてないでしょ」
「余計なお世話だ」
詩友くんはそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。
――この距離感。
四人でいるときの、この自然なやり取りが、私は好きだった。
「瑞姫」
佳苗が私を呼ぶ。
「今日の数学、どうだった?」
「えっと……ちょっとだけ難しかったかな。でも、例題は分かりやすかった」
「さすが不動の一位」
垣端くんがまた大げさに言う。
「瑞姫ちゃん、今度俺に勉強教えてよ」
「……垣端くん、本当にやる気ある?」
「あるある。テスト前だけ」
佳苗がため息をつく。
「それを“ない”って言うの」
詩友くんはそのやり取りを聞きながら、黙って教科書を閉じた。
「樋口」
突然名前を呼ばれて、私は少しだけ背筋を伸ばす。
「はい?」
「今日の剣道部、俺は少し早めに行く。準備、無理しなくていい」
一瞬、言葉に詰まった。
「……大丈夫だよ、詩友くん」
そう言いかけて、ほんの一瞬だけ、間が空いた。
「……ちゃんとやるから」
「そうか」
詩友くんはそれ以上何も言わなかった。
でも、その一言が、胸の奥に静かに残る。
「ねえ瑞姫」
佳苗が小さな声で言う。
「榊、ああいうとこあるよね」
「……うん」
説明しないのに、伝わる。
佳苗の言う詩友くんのぶっきらぼうなイメージには同意しつつも、
それが少しだけ、救いだった。
昼休みが近づいて、教室はさらに騒がしくなる。
「よし、じゃあ俺は購買行ってくるわ!」
垣端くんが立ち上がる。
「佳苗も行こうぜ、かーちゃん」
「行かない。混むし」
「冷たい!」
騒ぎながら教室を出ていく垣端くんを見送って、私は小さく笑った。
こうして笑っている時間は、確かに楽しい。
教室のざわめきの中で、詩友くんはもう前を向いていた。
私はその背中を、少しだけ長く見つめてから、ノートを閉じた。




