第0話
「おはよ、詩友くん!」
教室に入ってきた榊詩友の背中に向かって声をかけると、彼は少しだけ振り返って、いつも通りの真顔で手を上げた。
「樋口か。早いな」
その“樋口”という呼び方が、なぜだか少しだけ距離を感じさせる。
でも、それ以上を望むのは、今の私にはまだ早い。
詩友くんは、恋愛に興味がない。
それは、この学校で彼と少しでも話したことのある人なら、誰でも知っている事実だった。
剣道部。
県内でも名の知れた強豪校で、その中でも彼は主力。
放課後の時間も、休日も、彼の頭の中にあるのは剣道のことばかり。
――それでも。
「おはよー! 相変わらず朝から仲いいなぁ、お二人さん!」
教室の後ろから聞こえた、やたらと元気な声。
垣端賢正だ。バスケ部のエースで、成績は壊滅的。だけど人当たりだけは誰よりもいい。
「朝から絡むなよ」
詩友くんがそう言いながらも、少しだけ口元を緩めるのを、私は見逃さない。
「はいはい。で、瑞姫ちゃん、今日の剣道部の予定は?」
「えっと……今日は通常練習です。人数も揃ってるので、メニューは少し多めで……」
私はそう答えながら、手帳を確認する。
高校に入学してすぐ、詩友くんを追いかけて剣道部のマネージャーになって、もう2ヶ月以上が経つ。
最初は覚えることだらけで大変だったけれど、今はこの役割が、少しだけ誇らしい。
「さっすが学年一位。完璧だな」
賢正くんが大げさに拍手をする。
「そんなこと……」
反射的に否定しかけて、言葉を止めた。
完璧。
その言葉は、私にとって便利で、少しだけ怖い。
「樋口、無理すんなよ」
ふいに、詩友くんがこちらを見て言った。
「え?」
「最近、朝早いだろ。マネージャーの仕事も増えてるし」
一瞬、心臓が跳ねる。
どうして分かるんだろう、なんて考える前に、私はいつもの言葉を口にしていた。
「大丈夫だよ。全然平気」
その言葉を言うたびに、胸の奥が少しだけ締め付けられるのに。
「ならいいけど」
詩友くんはそれ以上何も言わず、前を向いた。
その横顔を見て、私は少しだけ息を整える。
――大丈夫。
私は、ちゃんと笑えてる。
昼休み、薗田佳苗が私の隣の席に腰を下ろした。
「ねえ瑞姫。さっきの、また“大丈夫”って言ってたでしょ」
低い声で、でも優しく言われて、私は肩をすくめる。
「癖みたいなものだよ」
「……ふうん」
佳苗はそれ以上追及しなかった。ただ、その視線が少しだけ鋭かった。
彼女は、賢正くんの彼女で、美術部。
クールに見えて、意外とよく周りを見ている。
「詩友くん、気づいてないよね」
「……うん」
気づかなくていい。
今は、それでいい。
放課後。
剣道場に響く竹刀の音を聞きながら、私は端でノートを開く。
真剣な顔で剣を振る詩友くんは、いつもより少しだけ遠く見える。
でも、あの日――誰も見ていなかったあの瞬間、私に手を差し伸べてくれたのは、確かにこの人だった。
「……届け」
小さく呟いた声は、竹刀の音にかき消される。
今はまだ、言葉にはならない。
でもいつか、この想いを。
私を救った君に、人生最大のアプローチを。




