二〇二三年三月二日 その3
彼方春は愛知県某所の役場に勤めていた。役場は常に開かれた場所である。だから大樹達は堂々と正面玄関を通って中へ入ることができた。
ユキの示したフロアの中で春はすぐに見つかった。何故ならば春は、丁度高圧的な態度の男に絡まれている真っ最中だった。大樹にとってもそれは、非常に不幸な出来事だった。
「だから、俺の言う通りにしろって言ってんだよ」
「ご不快にさせた事は謝罪します。ですがこれは規則ですので」
「規則、規則ってそればっかりだな。いいか、俺は電話やネットでわざわざ予約なんて取りたくないんだ。これまで通り予約制なんかにせず、この場で受付をしろって言ってるんだよ。耳聞こえてるか?」
「何度おっしゃられましても要望にはお応えしかねます。皆さんに同じ条件でお願いしていますから」
「一人くらい別にいいだろうが。お前頭がかったいなあ!」
「なんだあいつ」
数メートル離れた場所からもはっきりと男の声は聞き取れた。唾をまき散らし、だらしなく横に広がった肉体を広げて女性に突っかかる姿は、例え相手が春でなくとも度し難い光景だった。
「何様だ、あの野郎。春さ……お姉さんにしつこく絡みやがって。お前こそちゃんと耳ついてんのかっつー話だよ!」
『典型的なクレーマーですね。自己中心的過ぎる態度の人間はいつの時代も目に余ります』
春は怯むことなく淡々と簡潔に男の言い分を退けていたが、男もしつこかった。まるで自分の望む答え以外は頑として聞き入れないと言わんばかりの横暴っぷりだ。
椅子の倒れる音がいやに大きく響き渡る。フロア中の音が男の声に完全に飲まれていた。
「いいか? 俺にはお高くとまったお前らも何にもできない暴走族の知り合いがわんさかいるんだ。痛い目を見たくなかったら大人しく俺の言う通りにすることだな!」
『なんと非論理的で見苦しい。机まで叩いて威圧行為にも及んでいますね。……マスター? どこへ』
「あいつ、潰す……!」
『危険です。マスター。冷静に!』
「おいお前、いい加減にしろよ!」
「ああ?」
『マスター!』
大樹は一直線に男の元へ駆け抜けていった。血の昇った頭は春と春を害する男しか捉えておらず、純粋な正義感が盛んに薪をくべていく。
男は一瞬、大樹の登場に気取られた様子だったが、すぐに不快感を露わに大樹の方へと振り返った。
「誰に口きいてんだ。すっこんでろ。ガキが出る幕はねえんだよ」
「聞いてて恥ずかしいんだよ、おっさん。グダグダ文句言ってる暇があるなら言われてる通り電話でもネットでも使えば簡単に終わる話だろうが。そんなこともわかんねえの? すっげえ馬鹿じゃん」
「なんで俺がこんな女の言う通り面倒ごとに従わなきゃならないんだ。俺は納税者だぞ。税金は国民のためにあるものだろうが。俺がこいつの給料払ってやってるんだから、俺の小さい要望くらい聞き入れて当然だろう。金も払ってないガキが訳もわからずしゃしゃるんじゃねえ」
「本気で言ってるのか?」
大樹は瞼を釣り上げた。
「そんな理屈めちゃくちゃだってガキの俺にだってわかるぞ。おっさん一人で日本の税収賄ってんの? あ、もしかして予約の取り方もわかんないから予約せずに済むようにしてるとか? くそだっせえ」
「ちょっ、君」
痛恨の一撃に声をあげたのは春だった。その声を聴いて一瞬冷静になった大樹は、春の目を汚していることに胸を痛めた。
こんな馬鹿に絡まれるなんてあんまりにも可哀そうだと怒りより悲しみが上回る。
「はっ、若い女はいいよなあ。ちょっとしおらしくしてるだけでガキに庇ってもらえるんだから楽なもんだ。俺が泣く泣く仕事を休んで必死に訴えてる今この瞬間にも給料はもらえてるんだろう? 楽な人生送ってるやつにはそりゃあ俺の気持ちはわからねえよな」
「お前、どこまでクズなんだよ」
「やめてください!」
春は一際大きく声を張り上げ、再び怒りが燃え上がった大樹と男の間に割って入った。
「どうかお二人とも落ち着いてください。他のお客様も怯えていらっしゃいます」
「けど!」
「何度も申し上げておりますが、私どもはあなた様のご要望にお応えすることはできません。そのような規則になっているからです。貴重なお時間を割いて頂いたところ申し訳ございませんが、どうかお引き取りください」
男は毅然と頭を下げる春を見下ろしてネジが外れたようにニタニタと笑っていた。
そういえば周りは皆マスクをしているのにこの男だけは顔を覆っていないことに、大樹はふと気が付いた。
「そこまで言うんなら、もっと誠意を見せろ。そしたら許してやるよ」
「誠意、ですか?」
「ああ。土下座しろ」
「……そのような形式の謝罪は致しかねます」
「ほらなあ! お前らは結局口だけで出まかせ言って何も悪いと思ってないんだ。どうせ俺を面倒なクレーマーだと思ってるんだろう!?」
「それ以外にないだろ」
「女に庇われた途端に大人しくなる坊ちゃんは黙ってろ」
「はあ? 誰がそんな事」
「いいか、俺は好きでこんな事しているわけじゃねえ。迷惑だってかけたいわけじゃない。俺をこんなにするこいつが悪いんだ。このクソ女がな! そのくせこっちが望んだ謝罪の一つもできねえっていうのか!!」
男の足を鳴らす野太い音がフロア全体に響き渡る。フロア中の人間が目を逸らして様子見を決め込む中、大樹は静かに切れていた。
よし、古代の糞の化石として額縁に飾ってやろう。
しかし、少年が決意して振り上げた拳は、彼の相棒と権力に阻まれた。
『マスター、遅れたことを謝罪します』
ユキは大樹の両腕をびたりと背中につけ、耳元で深く頭を垂れた。ユキ最大の謝意であることに大樹はすぐ気が付いたが、止まる気はなかった。
「離せ」
『離せません。マスターが手を下す必要はありません。きっと彼方春も、この瞬間まで耐え忍んでいました』
「どういう意味だ」
「な、なんだ、お前ら!」
情けない男の声のする方に顔を動かすと、物々しい雰囲気を纏った複数人の男達が立っていた。最後に奥から現れたスーツの男は仰々しく厚紙を広げ、淡々と読み上げる。
「林雅之。貴殿の行いは職員に対する不当な威圧行為及び業務妨害に該当する。よって貴殿にはこの退去状をもって即刻の庁舎からの退去を命ずる。速やかに履行するように」
「そんな大勢でよってたかっていたいけな国民を虐めるのかよ!? これだから役人は嫌なんだ! 身内ばっか可愛がりやがって!!」
「立ちなさい」
厳しい顔つきで男の両脇に警備員が手を伸ばすと、男は急に勢いを失って、代わりにぎろりと大樹と春を睨んだ。
大樹は突然の急展開に呆けていたが、すぐに拳を握りしめて同じくらい強く睨み返してやった。
じわじわとユキの言葉を理解する。理解した。だがしかし、男がまだ喧嘩を売ってくるのなら話は別である。大樹の腹は未だ据えかねていた。ここで一発や二発食らわせたとて許されるはずだ。
と、不穏な気配を察知したのだろうか。男を囲む人垣の反対側から何故か大樹の傍にも中年の背広の職員がやって来た。
「君はこちらに来てください」
「何でですか?」
「どうしてもです」
要領の得ない物言いに大樹は首を横に振る。この状況で春に物理的な危害を加える事はできまいが、精神は別物だ。春が言われるがまま、庇いたてもせず隠れていた職員の言う事など聞きたくはなかった。
少なくとも、今はまだ駄目だ。
しかし、その春は静かに首を振り、大樹に中年の職員の言う通りにするように言った。
「これ以上、巻き込むわけにはいけませんから」
「そんな事言わないでください。全部めちゃくちゃな論理を振りかざす馬鹿のせいじゃないですか」
「聞こえてるぞ、クソガキ!」
「本当のことだからな。なんで陰でこそこそ言う必要があるんだよ。何度でも言ってやるさ。お前は最悪だ」
「ああ!?」
「落ち着きなさい!」
男が割入って襲い掛かるのを大樹は受けてたとうとしたが、あえなく警備員が引きずるように拘束したためかなわなかった。背広の職員はきつく眉根を寄せて大樹の正面に立った。
「あまり煽るようなことを言わないでくれないか」
「俺は本当のことを言っているだけです。それの何がいけないんですか」
「君にとってはそうだとしても、だ。ここには様々な立場の人達がやって来る。……抑えてくれ。我々も君に退去を望むことになるのは不本意だ」
「つまり何? 全然わかんないんだけど」
「先ほどの男と同列に君を扱わざるを得なくなってしまうということだ」
『法律上、意図的に人の身体に対する有形力の行使をした場合には暴行罪が科されます。心情はともかく、警察が正面に居るという状況的に、マスターは今非常に危険な立ち位置に居る。彼はそう言いたいようです』
それこそ頭蓋を後ろから殴られたような気分だった。
同じ。この場の誰もそのように大樹を見下げる者はなかったが、同一とならないよう願っているのも明らかだった。
春は瞳を歪ませて大樹を見ていた。ガラガラと無意識にあった理想が崩れ行く音がする。
「よく言うよ! そんなにたくさん味方のふりしてる奴はたくさんいるのに、皆して脅されているお姉さんを庇いもしなかったくせに!!」
大樹はそれだけを言い捨てて、庁舎の中を飛び出した。あっさりと、言い訳もせず割れる人垣の安堵の気配に吐き気がした。
気が付くと川沿いのベンチに寝そべっていた。
三月の風は冷たく、通りすがる人々が見てはいけないものを見るような目ですぐに顔を背けていく。だが大樹にはそんなものはどうでもよかった。
いつも主を非難するばかりの音声が従順なロボットのふりをして大樹を慰めた。大樹にはそれこそがとても非情なもののように感ぜられて、ユキには下がるよう命じた。
それから短くない時が過ぎたが、到底起き上がれそうにない。
パーカーのフードの上に両腕を置いて重石をすると叫び出したい気持ちになり、そのあまりに無様な絵面を想像して寸前でため息に置き換える。
かじかんだ指先が感覚を失って身体の芯まで凍えてしまいそうだった。
大樹は春のことを思う。心優しい彼女が今日の騒動を経てどのように感じているのか。やはりあの背広の職員のように大樹も迷惑な客だと思ったのか、それとも呆れたのか。
だけども、あそこで見て見ぬふりなんてできない。例え誰が相手でも。自分があそこで立ち上がれなくなった時は、それこそ彼方春のファンなどと名乗れないし、個人的な矜持に関わる。
正しいことをしたはずなのに、どうしてこんな思いをしなければならないのか。
その答えはどうしても見つからなかった。大樹はただ我を忘れぬよう、縮こまるばかりであった。