二〇二三年三月二日 その1
燦燦と降り注ぐ陽光が柔らかに差し込んでいる。例え雲が青空のほとんどを覆い隠していても、窓の一角を鋭角に突き進む陽光は人の身には眩しいものだ。
特に寝過ごした日の朝は一等心地よく、まぶしく感じられる。大樹も例にもれず、それはそれは和やかに瞼を開いて起き上がり、覚醒と共に青ざめた。
大樹は自分がやって来た日を時刻まではっきりと把握していた。
二〇二三年三月一日水曜日の午後十六時五十七分。
その翌日は勿論三月二日木曜日。平日である。
「ユキ! ユキ! 今何時だ!?」
『午前九時五十一分です』
「寝坊した! 久々にやらかした! は、お姉さんはどこだ!? 俺のせいで遅刻なんて、いったいぜんたいなんてお詫びしたらいいのか……!!」
『落ち着いてください、マスター。問題ありません』
「問題しかねえよ! 学生と社会人は違うんだって先生がいっつも偉そうに言ってるじゃん! 別に俺達だって真面目にサボらず頑張ってるのにこれだから学生は、って。そんな事言ってるから老化が進行するんだぜ、きっと」
『話が折れ曲がっています。寝間着で演説調にならないでください』
「でもさ、ともかくさ」
『マスター』
「ぎゃっ」
微弱な電流が腰に流れ、大樹の意識が一瞬途切れた。言葉を失った大樹の前にすかさずユキは進み出てきっかりと音声を発する。
『まずは、おはようございます。彼方春はとうの昔に出勤しましたので、ご安心ください』
「……はよ、それは何よりだ」
『朝食の準備ができています。昨晩同様洗面所の類は自由に使ってよいそうですので支度なさってください。彼方春の手製ですよ』
「すぐにやる!」
大樹は丁寧に一晩世話になった寝具を整え、五分で洗面と着替えを済ませてリビングへと舞い戻った。
テーブルの上には白米、厚揚げと大根の味噌汁、塩鮭に豆腐とワカメのサラダが並べて置いてあった。ユキがカップに温かいお茶を注いでいる。
「なんて手の込んだ、家庭的な素晴らしい朝ごはんなんだ……。尊い、尊すぎる。っ、これを俺の口に入れ、胃袋で一つになることを思うと、とても勿体なくて食べられない。
どうして起こしてくれなかったんだよ。泊まらせてもらった上にこんな立派な食事まで用意してもらって俺は寝過ごしていたなんて!」
『作り置きを並べて、魚を焼いただけだから気にするな、とのことです』
「見越したような気遣い! お姉さんが食べる予定で丹精込めて作り上げた料理の時間を奪っているのには変わらないのに!!」
『家主が良い、と仰せなのですから家主に従うべきです。彼方春の動向が気になっているのでしょう。早く栄養分を摂取してください。どうせ彼女の手料理の前ではろくに話が通じないのですから』
「今永久保存して神棚に飾れないかと真面目に考えてるところだ」
『食器は返却が必要ですし、妄想で留めてくださいね』
「……わかってる。ここは中間択で写真を撮って我慢するさ」
『そう言うだろうと思って、既に撮影は済ませています』
そう言ってユキが即座に展開したのは、春が朝食の準備をしている光景の画像ファイルだった。
大樹が眠っているためか、食事中でもないのにその顔には何の覆いもなく、綺麗な顔が惜しみなくさらされている。
髪の毛は後頭部に一つに結わえられているので、白いうなじが襟元から無防備に見え、大樹はすぐさま合掌した。
『研究資料としてですが、当人の許可を得て撮影しております』
「やっぱりお前は最高の相棒だな、ユキ。お前のいる時代に生まれ落ちたことを今日ほど感謝したことはないぜ」
『それは結構ですが、この場面に発せられたと考えますと喜び難いですね』
「今日も最高の一日がやって来るに違いないぞ! なぜなら朝から向こう十年は幸福でいられるゴッド・アイテムを手にしたからだ! 彼方春万歳! 相棒万歳! 彼方春万歳!!」
『……これでも過剰供給でしたか。流石です、マスター』
少々壊れた主の痴態も、ユキは冷徹に記録に残した。
最高の食事を最高の状態で食さないことは礼儀に欠けると思い至った大樹がようやく歓喜の朝食を終えて自我を取り戻した頃、ユキは改めて春の出勤と、行き先が定まったら出て行くようにという言伝を伝えた。
「なんて器が大きい人なんだ……。得体のしれない未来からやって来た俺のことをそこまで気遣ってくれるなんて」
『そうですね。施錠に関しては数分で自壊する電工式キーの使用許可を得ましたので、ご安心ください』
「そこまで!? ユキ、お前いつのまにお姉さんと仲良くなったんだ?」
『マスターが夢の中にいる間に色々とお話をさせていただきました。私はロボットです。欲がありませんから、話しやすかったのでしょう』
「人並みに感情豊かなくせによく言うぜ」
『お褒めの言葉をいただき、光栄です。マスター』
大樹の嫌味をユキは素知らぬふりで通した。そういうところだぞ、と大樹はユキのレンズを人差し指でぐりぐりと押す。
『それで、マスター。後二十九日間はこの時代に留まらなければなりませんが、どのように過ごすおつもりですか? 彼方春と会うというマスター最大の目的は既に達成されました。その後のことはあまり考えが及んでおられなかったように見受けられます』
「それなんだよな。色々とやりたい事はあるし、もし会えたらお願いしたいことは色々あったんだけど、実際目の前にすると頭が真っ白になっちまうし」
『会うだけでなく、更に彼方春に望むことがおありですか』
「俺は欲深いんだ。知ってるだろ」
『具体的にはいかような』
「……まずは早急にここを出て行かないといけない」
大樹は悲壮感を漂わせて決意を口にした。昨夜は当人と会話をしているという事実に舞い上がった後に深く沈み、また先刻まではもっと衝撃的なものに気を取られていたことが功を奏し理性を保てていた(大樹の主観では)が、彼方春の居室は大樹に様々な覚悟を問うてくる魔境だった。
他人の部屋というのは完全なプライベート空間であり、機会があればつい誰のものであれ見渡してしまうのが人間の性というものだ。特に友人や恋人、憧れの存在のものとなれば言うまでもない。
大樹はリビングの壁の大部分を埋め尽くす魅惑の本棚(勿論中身は全て紙類だ)に触れたくてたまらなかったし、玄関にひっそりと置かれた小物の売り場を特定して同じものを買い揃えたいという画策がむくむくと頭を持ち上げ始めていた。
とかく大樹が目を奪われるのは自身の泊まった部屋の隅にぽつんと座るパソコンと角の折れたファイルやノートで積み上がった古びた紙の山だ。気が付いてしまったことを讃えるべきか後悔すべきか悩ましい。
大樹は無防備に横たわる宝の山を目の前にして、自身の欲と良心の大乱闘の真っ只中であった。
愚かと言うなかれ。最も貴い存在からの信頼は若き青少年には猛毒である。
次々と浮かぶめくるめくロマンスと欲望を心に浮かべることさえ春に対する裏切りのように感ぜられ、またその禁断の果実は大変に甘く、かぐわしいのだ。
『マスターは思春期ですからね』
「うるさい。俺が罪を犯したらどうするつもりだ」
『その前に必ずお止めします』
「お前はそういう奴だよ。ったく、そういうところが大好きだぞ!」
『まさか興奮しきった状態の方が安泰だなんておかしな生態をしていらっしゃいますね、マスターは。ひとまず、身の安全の為にここを立つ、ということですか』
「近くのインターネットカフェを調べてくれ。これ以上俺が邪な事を考える前にな」