二〇二三年三月一日 その5
彼方春は一人、若草色の肌に色とりどりの小花を散りばめたティーポットに手を触れ、紅茶の濃さを確かめているようだった。
実際に確かめていたのは、自身の脳味噌の正常度合いだろうとユキは判別している。
突如現れた大樹とユキの存在は、到底時空力学に無知な過去の人間に理解できるものではない。
しかし、ゆったりと来客の準備をしながら現実と折り合いをつける彼女の奮闘は、大樹には一切伝わっていなかった。
「本当に手伝いとかいいんですか?」
大樹は、招かれた邸宅(マンションの一室)に興奮しきりであった。そも異性の部屋に招かれること自体が初めての事である。渾身の土下座が推しの暮らす部屋への招待に繋がるなど、生涯に一度あるかないかの幸運が連続で舞い込んでいるようなものだった。
「いいよ。私が招いたんだし。それに初対面の子に勝手にキッチンを触られる方が嫌だから」
「ご、ごめんなさい」
「落ち込まないの。んー、じゃ、このお盆をリビングに運んでくれる? 私のお気に入りの食器ばかりだからね。責任重大よ」
「春さんのお、お気に入りっ」
『マスター、落ち着いてください。振動で中身が零れそうです』
「あ、悪い。助かった。……よし、運べたな!」
『何故胸を張って報告できるのです? 危ないところでしたよ』
「紅茶も、その隣のクッキーも、食器も全部無事だからだ」
『そうですね。私の補佐により、万事問題ありませんでした』
「拗ねるなよ。お前のおかげだってのはわかってるから。なんかアタリ強くない?」
「言い争うのはそれくらいにして。冷めないうちに飲んだら?」
「喜んで!」
ピン! しゅーん。ピピンっ! ぴょん!
感情と連動する動物の耳があればかような擬音のように動いていたのではないだろうか。素直に喜哀を滲ませる少年の姿に、つい和んでしまった様子で春は大樹に紅茶を勧めた。
大樹は声を掛けられた嬉しさに勢いよくカップに口をつける。
アールグレイの、少し渋みの強く出た紅茶は一部食道を飛び出し気管を下って大樹の目を白黒させた。
ティーカップを音もなく着地させたのは愛故であるが、息苦しさにぜはぜはと胸元を叩き、ユキから現れたストローで介助される様はあまり褒められたものではなかった。
「騒がしい子ね」
「ごめんなさい…」
「まあ、私はそういうの嫌いじゃない方だけど」
「ふえっ!?」
意味深な言葉に更に大騒ぎの大樹を余所に、春は品のある佇まいでカップを口元に運んだ。大樹が猫から人間に変化した(ように見えた)時の動揺は表面上、一切見受けられない。
「ここがやはり楽園か?」
「……ねえ君」
「はい! 何でしょうか!? あっ、この紅茶めっちゃ美味しいです! 春さん手づから淹れてくださったのも相まって今にも天に昇ってしまいそうな気分になります!」
「子猫の次は天使になるつもりなの? 未来って意外とファンタジーね」
「まさか。天使は貴女です」
「へえ、私ってもう空の上にいるんだ?」
「た、確かに春さんの存在する場所は天国と言っても差支えがないですし、実際に俺の時代には本当の天国にいらっしゃいますが、そういった意味ではなくてですね」
『マスター。弄ばれています』
「あら、バレた」
『隠すつもりはなかったでしょう』
「春さんならそれでもいいっ」
「本当に素直ね、あなた達」
一つ、笑みが零れる。
好きな人に笑いかけられた。もう死ぬのかもしれない。
冷静なつもりで、大樹は春の笑顔を脳内に永久保存しようと食い入るように見つめる。
「それで君は結局、人間って事でいいのよね」
「その通りです。溝口大樹、十七歳。二二二三年の極々普通の高校生です。苗字でも下の名前でもあだなでも、お好きなように」
『人類は身体そのものを変化させる術を持ちません。彼方春。未来もさほどその点に置いては変わりがないのです』
息を合わせて宣言しても胡散臭さは拭えない。けれど春は否定せず、続けて質問を重ねてくれた。
「何故この時代に? 厄災を止めに来たのならもう手遅れだと思うけど」
「いえ、そんな大層な理由はありません。これはただの実験なんです」
「実験?」
「未来では今、色々な国が時空科学の特許を巡って競争しているんです。日本は技術大国の威信にかけ、タイムトラベルの研究に力を入れています。そしてようやく、人体実験に漕ぎつけたという訳です」
「政府が主導して子供を危険な目に合わせているの?」
「俺の心配をしてくれるんですか!?」
『マスター、違います。それに一部不適切な表現がありますね。正確には、時空間航行の安全性を立証するための実証実験です。既に研究員による人体実験は終了しております。副次的に、異なる時間軸で行われた行為が未来にいかなる影響を及ぼすのかというデータ収集も兼ねているようですよ。
よって我々が貴女に未来人として情報を開示する事は何ら問題ありません。そもそも歴史の書き換えによって未来が変わるというよりは異なる世界線に分岐するという説が有力でして……』
「ともかく、ちゃんと安全は保障されているってことです。期間も一か月って短めに設定されていて、自動で期日になったらタイムマシンが起動して元の時代に返してくれるんですよ。過去の過ごし方は自由だし、結構美味しい話だなって俺は思ってます」
『実験中の不慮の事故についての誓約書は書かされますが』
「バンジージャンプだって同じだろ」
「なるほどね」
頭を抑える春を見て、大樹は慌てた。
「っ、体調悪いんですか?」
「大丈夫。それで、君は私に近づこうとしていたけれど、その実験と私に何の関係があるの?」
「春さん。俺たちの話を信じてくれるんですか!?」
「彼方春って君達は私を呼ぶでしょう。それは、まだ誰にも明かした事のない私のペンネームだから」
「流石です!」
「普通よ」
どんどん詰められる距離に少し硬さを帯びた声が返ったが、大樹の憧れと尊敬を若者特有の思い込みで煮詰めたような熱い視線は留まるところを知らなかった。
『望まれぬ賛辞よりも先に質問に答えるべきでは?』
「そうだな! 推しの願いはかなえるものだ。えっと春さんとタイムトラベルの関係は、さっきユキが言ってたようにありません。俺の過去での行動は何の制限もないので」
だから、と照れながらも大樹はまっすぐに春の瞳を見据えた。
「俺がここに来たのは、憧れの小説家である彼方春に、どうしても会いたかったからです」
その瞬間、一気に春の纏う空気が張り詰めた。まるで隠し持つ宝箱を無理やり他人に暴かれたような、強烈な拒絶感。生身で対峙するからこそ雄弁に感じる緊張に、大樹は冬の海に突き飛ばされたような痛みを覚えた。
「君、かなりの馬鹿だって言われない?」
子供の馬鹿な妄言を謗ると言うには、それはあまりにも唐突だった。
「それは、」
「……ああ、ごめんなさい。やっぱりまだ飲み込めない事も多くて、混乱が残っているみたい」
言葉が浮き上がっている。冷気はすぐに消え去り、蜃気楼のように大樹を錯覚させるが、その存在感ははっきりと大樹の心には刻まれていた。
いっそ時を切り取ったと言われても信じられる程に、春は先刻までと何ら変わらぬ様子で大樹の紅茶にミルクを勧めた。
それからの事を大樹はあまり覚えていない。しかし、ユキの記録によると、当たり障りのないやり取りの後、二〇二三年に到着したばかりで寝る場所のない大樹を不憫に思った春より、寝床と夕食を提供されるに至ったという。そして大樹の寝床を確保した後はきっちりと扉を閉め、すぐに就寝した様子だった。
春の就寝を確認した後、ユキは部屋の隅で丸まる大樹の頭上でふわりと漂い、流石に同情するように主の心に寄り添った。
『マスター、そうがっかりなさらないでください。彼女の言い分は至極まっとうですよ。むしろあの短時間でマスターに好意的な返答をするような思考回路をしている人物だったとしたら身震いします』
「わかってる……」
『まあ、でもよかったじゃありませんか。少なくともあなたの憧れた人物は、お見込みの通りお優しくて良識を持ち合わせた女性ですよ。マスターが野宿する羽目になる事を案じて寝所を提供してくださるのに加えて、夕食まで。中々できることじゃありません」
「ああ。笑顔で手を出したら知り合いの刑事に突き出すって言われたけどな」
『その辺りは覚えておられたようで何よりです。自衛の手段を持ち合わせないと、女性の一人暮らしは大変でしょうからね。優しさだけじゃ世の中渡っていけません』
「そんな賢くてかっこいいところも素敵だ……」
『落ち込んでいるふりをして、意外と元気ですね』
「お前は俺が春さんに振られた事で落ち込んでいると思ってるのか」
『はい』
それ以外に何があるのか、と言いたげなユキに大樹は悲しげに言った。
「春さん、俺の言ったことは何でもちゃんと聞いてくれたのに、俺が春さんに会いに来たってことだけは否定したんだ」
『普通の人間は会ったこともない人間のために時は超えませんからね』
「そうじゃなくってさ」
『では何です?』
「そうじゃなくて、まるで、春さんは」
続きの言葉は声にならなかった。大樹は二〇二三年の彼方春について語れる程、彼女の事を知らない。
「明日になったら春さん、俺を追い出して、もう会ってくれないかな」
『さて、その考察を行うにはまだ彼方春の人柄に関するデータが足りません。マスターの努力次第なのでは』
大樹は首肯し、丸めた身体を伸ばすと立ち上がった。
『どうするのです?』
「寝る! 明日のことは明日考えることにした」
『左様ですか』
「左様だ。そもそも俺は考え込むと悪い方にしかいかないしな。考えるより行動、夜更けにするのは睡眠だ。そんで明日になったら、春さ……お姉さんに聞いてみる、色々」
『マスターがそのように決められたのならそれがよろしいでしょう。また振られても今度は慰めませんよ』
「うるせえ」
休むと決めた途端に歓喜した睡魔が大樹の身体に襲い掛かる。元々時を超えてから緊張の連続でとっくに限界を超えていたのだろう。
大樹は春の用意した寝具に倒れこむように横になると、そのまま数秒も経たずに夢の世界に飛び立った。