二〇二三年三月一日 その4
かような逃走劇を繰り広げながらも、目的の人物に辿り着けてしまうとは、人間の意志の力とは不可思議なものだ。
ちなみに、彼方春が大樹が化けた子猫に近づいてきた瞬間、この一瞬の出来事についての大樹のレポートは一万字を優に超えている。興味のある者は別添資料にデータを添付しておくため、そちらで確認して欲しい。
青少年の激情と、心の揺れ動きを生々しく感じられる貴重な文献の一つとして何かしらの参考になるかもしれない。
「ああ、春さんがこんなに近くに……! 心も外見もなんて美しい人なんだ」
『マスター、声が大きいです。彼方春が怯みます』
「だって、だって本物だぞ?」
大樹は、憧れの人であり、一目惚れをした女性の姿を直視して興奮を抑えてはおれなかった。
彼方春は胸元までの長さの黒髪をハーフアップにして纏め、銀の髪飾りで結い上げていた。白いジャケットに桜色のセーターが映え、その名の通り春の化身のように神々しく大樹には感ぜられる。
両膝をついて大樹を見下ろす顔はコロナ禍故にマスクに覆われていたが、僅かに見える肌は寒さのためかリンゴのように赤らみ、炉端に捨てられた哀れな子猫に心痛める様は天使のように清らかに映った。
「……このまま見捨てられないよね」
「ああ、春さんっ!」
春の手は大樹に伸ばされた。自転車の籠に、大樹の入った段ボール箱は入りきらないという判断だったのだろう。ユキはすぐさま段ボールから透明化し、春の手が届く寸前に大樹を持ち上げ、重量で正体が露見しないように配慮する。
『マスター、しっかり足を曲げていてください。彼方春の腰にぶつかります』
「わかった」
春を傷つけまいと全力で背を反り、靴の裏が尻につくまで身体を縮めた。
身体を収縮させる動きで息が詰まり、ほんのりと熱に浮かされた脳味噌が一瞬冷める。
しみじみとこれまでの苦労を振り返り、めくるめく春との薔薇色の未来に思いを馳せていた大樹は、そこではたと、大事な事に気が付いた。
目的を果たす直前に、人は憂慮すべき大事な事を思い出す。大樹の場合、それは自身の逃走劇に起因していた。
「ユキ」
『どうしましたか? マスター。介助が必要ですか』
「このままだと俺の顔は春さんに当たるか? 身体の大きさ的に」
『はい。まあ、そうでしょうね。その程度ならば誤魔化しは効くかと思いますが』
「俺を殴れ!」
『すみません。意味がよくわかりません』
「わかれ! お前はとっくに気が付いていたはずだ!!」
大樹は唐突に理解した。どんなに上手く猫に化けても、所詮己は人間の男であると。
「このままだと春さんの貞操の危機だ」
勿論、大樹は襲いかかるつもりはない。万が一この作戦が卑劣極まると世間に後ろ指さされようと、警察に通報されようと本望である。
とうの昔にこの世を去った彼方春に会えたのだから、それだけで一生分の幸福を使い果たしたようなものだ。
しかし、大樹の欲望を受ける側の気持ちは、どうだろうか。善意であれ、無邪気であれ、望まぬ接触はあれほど苦痛であったのに、どうして自分だけが例外だと言えるのか。
「俺を殺せええええっ! 推しに迷惑をかける奴は万死に値するっ!!」
「きゃっ」
大樹は楽園の直前で踵を返すと、たちまち春の腕中から抜け出して五メートル程距離を取った。
「ごめんなさい、春さん。僕は大切な事を忘れていましたっ。僕は、僕は彼方春のファンとして、自分が恥ずかしい!!」
『マスター』
「ただこれだけは言わせてください。僕は決して不埒な考えで貴女に近づいた訳ではないんです。ただ、俺の夢を叶えたかったんです! おこがましいのはわかっていました。でも!」
「ご、ごめん寝? なんて器用な猫なの」
春の歩み寄る気配に大樹は固く目を閉ざした。自分の言葉が猫語に変換され、一切春に伝わっていない事は忘れていた。
嫌われる覚悟はないが、逃げるわけにはいかない、と悲痛な覚悟をする大樹と、突然奇妙な行動を取り出した子猫に困惑する春は、見事にすれ違っていた。
『……致し方ありません』
この結末も想定していたユキはすぐさま大樹と自身の機体に施した迷彩を解除した。春の視点で見ると、頭を下げる子猫が突然男子高校生に変化した格好である。
「男の子? ……いやだわ、私ったら。すごく疲れているみたい」
『いいえ、貴女の脳は正常です』
「し、喋るドローン?」
『いいえ、私はSNVP―LJ1378952と申します。マスターにはユキと名をつけられましたので、どうぞそちらの名でお呼びください。尚、ドローンは私共の構想時に一部着想を得たという話はありますが、似ても似つかぬ別種です。二百年も前の旧型ロボットと同一視されては困ります』
「……わかった。ドッキリね。近頃はマナーのなっていない配信者が多いとは聞いていたけど、第三者の許可を得ず撮影するのはNGよ。今すぐ出てきなさい」
実に現実的な思考で大樹達を定義した春は、地に足をつけた堅実な女性であった。少なくともユキはそのように判断した。
『なるほど。この時代の貴女が世間で評価されていない理由が理解できたような気がします。思えば、初期の作品は富に王道……いえ、凡庸な話が多かったですね』
「なんだと!? お前、今なんて言った、ユキ!!」
『おや、マスター。懺悔はもう良いのですか?』
「まだだ。だがそれ以上に訂正することがある。お前、春さんの悪口を言ったな」
『いいえ、考察を述べたまでです。自身の凡庸さを嘆いていたというエピソードは、なるほど納得がいくと』
「彼方春はいつの時代も至高に決まってるだろ! ストーリーはどの話も最高に面白いし、キャラも魅力的だし、作者本人もめちゃくちゃ優しいんだからな!」
憤懣なりやまない大樹は、そのまま九十度腰を折り、春に直角に向き合った。
「ごめんなさい。俺の相棒が口が悪くって。でも、俺はちゃんと春さんは天才だって知ってますから! 初めて貴女の小説を読んだ時からずっと、ずっと俺は貴女に憧れてて、特にパンク・バディシリーズのエドガルド・オズワードの台詞が……」
『マスター。パンク・バディシリーズは現時点では構想段階です』
「あっ、そうだった。未来から来たのはとりあえず秘密の方向で行く予定だったのに!」
『墓穴を掘る天才ですからね、マスターは』
「皮肉やめろ! 大体お前が春さんを凡庸なんて馬鹿な事言うからだな。すみません、春さん。これは……」
「ちょっと、色々と言いたいことはあるけれど」
矢継ぎ早に飛び交う舌戦と衝撃的な発言の数々に翻弄されつつ、ようやっと口を開いた春は言った。
「ひとまず、一旦休憩よ」