二〇二三年三月一日 その2
夕暮れに濡れる街並みが赤く、どこか寂し気な空気を纏っていることは今も昔も変わらない。
不可視のために容赦なく突進してくる人々を交わすために本人も気づかぬうちに気力を使っていたのだろう。迷彩を解除した大樹は、屋外の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで深いため息を漏らした。
人と自転車と自動車の波が大樹を避けて四方八方へと掃けていく。そんな事に無駄に感動を覚えた。
「タイムトラベルって、大変なんだな」
『一般的な苦労がどのようなものかはわかりませんが、そうですね。お疲れ様です、マスター』
「ああ、めっちゃ疲れたよ。俺達普段人の少なさに甘やかされて生きてるんだな。見ろよ、あの集団を。道が全部人影で埋め尽くされてるぜ。よく酔わないでいわれるよな」
『あちらには駅があるようですね。皆、早く帰宅したいのでしょう』
「へえ、駅か。それも春さんの小説に出てきたな」
『はい。当時の人々は皆、電車やバス、自転車、自家用車、あるいは徒歩で通勤・通学していました。特に公共交通機関には帰宅ラッシュというものがあり、十八時から二十一時台は大変混雑していたようです』
「なるほどな。そんな長時間混むなら、人が少なくなるまで待つのも無理だな」
『我々もすぐに利用することになるでしょうね。ですが、ひとまずは宿泊可能なホテルからでしょうか。夕方から見知らぬ場所で人探しは効率が悪いです』
「ここは春さんの働いていたという名古屋じゃないのか?」
『はい。この時代の人工衛星から位置情報を入手しました。ここは宮ノ一市という名古屋から十五キロメートル離れた市町村です。……名古屋までは、電車で二十分程かかるようですね』
「それってこの時代的に遠いのか? 近いのか?」
『まさか、マスター? 今から彼方春の職場を探すつもりですか。既に退勤している可能性が高いですよ』
「この街に春さんが住んでるとかならともかく、何の手掛かりもない普通の街でわざわざ一泊する必要もないだろ? それなら名古屋で泊まった方がいいじゃんか」
立ち止まっているとホームシックにかかりそうだったのが半分、もっと過去らしい景色を見てみたいという気持ちが半分だろうか。大樹はやる気十分に記憶を思い返した。
過去に来たらやってみたかった事は、何も彼方春と会う事だけではない。
長年の付き合いで主の思考回路を熟知していたユキは、呆れたように呟いた。
『どうせ、都心部の充実した漫画喫茶が目当てでしょう。紙の漫画本が大量に読める喫茶店など、現代では珍しいですからね』
「流石俺の唯一の相棒。よく理解してるじゃないか」
『……かしこまりました。今回はマスターの意見にも利はあると判断します』
ユキは大樹の右肩の上で一つ目のカメラを一回転した。
『名古屋駅より徒歩十分圏内に漫画喫茶は三軒あります。彼方春の職場は中心部より少々外れているため、地下鉄に乗り換える必要があるようですね。本日は極めて接触できる可能性が低いですが、職場にも本日中に向かわれますか?』
「地下鉄か! じゃあ、『夢の街』の聖地巡礼ができるな!」
『マスターにとってこの時代の全てが聖地巡礼に当たるのではないですか?』
「そうともいう! さあいくぞ、ユキ」
大樹は奮起し、意気揚々と宮ノ一中央駅に乗り込んだ。ユキは当然、迷彩を施して大樹の頭上で身を隠したままである。浮遊するAIロボットは少々悪目立ちした。
宮ノ一中央駅は役場にも程近く、その名の通り街の中心部に位置する中規模の駅である。東京や大阪などの大都市の駅に比べれば控えめだが、百貨店やショッピングエリアが併設されており、相対的に人通りは多い方だった。
駅には二種類の改札があり、大樹の入った入口と反対側の出入り口に程近いコンコースには誰でも使えるグランドピアノが置かれている。
大樹の時代では既に瞬間移動装置が普及しており、二十分足らずで全国各地を移動する事ができるようになっていた。県内程度であれば三分もあれば事足りるだろうか。
そのため観光地はともかく、普通の駅に広いショッピングエリアが併設されている光景を、大樹は見た事がなかった。そもそも駅というよりは大量の瞬間移動装置置き場と言った方が正しく、装置に入って行き先を告げれば事足りてしまう。
さて、ようやくタイムトラベルの醍醐味たる過去の遺物の生きている状態を生で体験した大樹だが、そこでとある一つの問題が立ちはだかった。それは大樹にとって、それなりに大きな問題だった。
「……切符って、どうやって買えばいいんだ?」
大樹は、テーマパークにしか走っていない電車の切符など購入した事がなかった。というか、現金を使うのも寺社仏閣のお賽銭を覗けばほとんど初めての事である。
大樹がその問題にぶつかったのは、小説の描写などを思い起こし、券売機に並んだ後の事だった。
ユキは周囲からは見えておらず、人と人の密集度合いが高すぎて頼る事ができなかった。通りすがる一瞬ならともかく、自身の半径三十センチ以内に立つ男が虚空に向かって話しかけていたら注目の的だろう。
なんとか手前の人物の様子を見て現金を投入すればよいと当たりはついたものの、次にぶつかる問題として、名古屋までの料金がわからないということがあった。
これに関しては、皆専用のカードに一定量の金額を投入しているようでまるで参考にならない。
答えの出る前に大樹の出番がやって来る。冷静に考えれば素知らぬ顔で立ち去っても何の騒ぎにもならないと気が付けたはずなのだが、先の役場での騒ぎもあり、手に紙幣を握りしめてそれらしく立ち尽くすことしかできなかった。
カードを持っていないとか、時代違い人間にそもそも切符の買い方がわからないなどと言えば自分が未来からやって来たことがばれてしまうのではないか、とか、些末な事がぐるぐると不安となって心の中を埋め尽くす。焦りのあまり、ユキの声も届かないほどだった。
そこに、救いの手は差し伸べられた。
「どうしたんですか?」
「え、えっと」
「機械に問題がありそうですか? それなら、駅員さんを呼んで来ますけど」
思考を失った大樹の脳髄に、背後に立っていた女性の声がよく響いた。数秒置いて唾を飲み込んだ大樹は、小声で、名古屋行きの切符が欲しいのだと答えた。
羞恥に震える大樹の視界を白いスーツの袖と一房の黒髪が横切った。
綺麗に爪の整えられた人差し指が券売機のモニターに軽く触れ、三百円と書かれた厚紙と七百円のお釣りがガーっと音を立てて戻って来る。
「JRの方で買って正解だね。こっちの方がちょっと安いし」
「ありがとうございます……」
「お釣り、忘れないでね」
「っはい」
大樹は言われた通りにして小銭を引っ掴み、急いで待機列から離れた。遠ざかり様に目線を上にあげると、助けてくれた女性は既に大樹になど目もくれずカードを券売機に挿入していた。女性にとってごく普通の事だったのだろう。
大樹は感激に心震わせた。その感動は女性が大樹の視界から立ち去ってユキが静電気を浴びせるまで、長く長く続いたのだった。
「ユキ」
『マスター。ようやく気が付かれましたか』
「ああ、とっくに目覚めてる。そんな事よりユキ。見たか、今の」
『はい。このような偶然があるのですね。驚きました』
「俺はあの麗しい女神に恋をした」
『気でも狂いましたか』
恍惚とした愛の告白に、ユキは少々、心的距離では数十メートル程距離を取った。
「そうだな。こんなに心臓がうるさいのは初めてだ。ああ、せめて名前を聞いておけばよかった。そうしたらお礼を言いに、また会えるかもしれないのに」
『あの程度のことで恋に落ちたと宣う男性に言い寄られたら恐怖でしかありませんよ。ストーカー案件です』
「そうなのか!?」
『はい。そうです』
露骨にいじけてみせる大樹に、ユキはとある情報の開示を躊躇した。しかしながら、大樹の目的のためにはいつまでも黙ってはいられない。ユキはマスターの利益に忠実であるようにプロムラミングされている。
『ですが、マスターには朗報ですね。先ほどの女性は、彼方春当人であると思われます』
「なんだと!? それは本当か!!?」
『文壇デビュー後の写真、当時の住居地や年齢などのデータを照合した結果、極めて高い類似性が発見されました』
「そんなの、そんなの運命じゃないか」
『いいえ。マスターは彼方春の居場所を絞ってからこの時代にやって来ました。ですので、今回彼女と接触できたのは単なるストーカー行為による確率論です』
「いいや、運命だよ」
『………』
「今まで作家として好きだった人が、そうと知らなくても一瞬で恋に落ちてしまう程に魅力的な女性だったんだ。これが運命と言わずなんて言えばいいんだ?」
『マスターの思考はマスターだけのものです』
万能感に包まれた大樹は、彼方春との思い出の品(当人の中では)である切符を丁寧に保存箱に格納すると、すぐさま鋭角に春の去った方向へ身体を傾けた。
『お待ちください。何をなさるおつもりですか』
「春さんとお近づきになるんだ! 神は俺に味方した。このチャンスを逃す手はない!!」
大樹は自身の読んだことのある物語の男女が出会うシチュエーションを語った。
曰く、大樹の読んだ漫画では、雨に打たれたり、怪我をして倒れている男を発見した女が心配して自宅に連れ帰って面倒を見るという展開が散見されていたとのことだった。
勿論無関心なタイプもあるが、多くのヒロインは優しいお人好しだ。そして彼方春は優しい。先ほどの券売機で大樹を助けてくれた様からして、これは純然たる事実だ。
「完璧な作戦だろう。もう困っているところを助けてもらうまでは終わった。後は家に上がるだけだ」
『成功確率一パーセントの最悪な立案です』
「えっ、じゃあ基本に忠実に道端で倒れておくべきか? 確かに一瞬だったから春さんも俺の顔をよく見ていなかったもしれないしな」
『どちらにせよ、最悪です』
ユキは断言した。
『良いですか? マスター。童貞の、時代情勢にも疎いマスターには理解できないかもしれませんが、良識ある一般的な成人女性は見知らぬ人間を自宅に招いたりしません。絶対に。絶対にです。
切符を買っていた学生が数時間も空かずに通り道にうずくまっているだなんて明らかに怪しいでしょう。そもそもどちらの方面に向かったかも覚えていらっしゃらないのに、どうやって部屋に上がり込むおつもりで? 即刻その判断は取り下げなさい』
「そ、そんな事言ったって、俺らの目的は春さんと仲良くなることじゃん」
『実験には不必要な事です。マスターを性犯罪者にするくらいならば、その目的は破棄してもよろしい』
「こんなチャンスはもう二度とないんだぞ!? 推しは推せる時に推さないといけないんだ!」
『ひとまず憧れの漫画喫茶で落ち着いて作戦を考え直したらどうです。何も彼方春との接触そのものが悪だとまでも申しておりません』
「一か月しかないのにか!?」
『現状では退却が最善です』
「大丈夫だ。お前なら不可能を可能にできる!」
『それはただの丸投げです』
「うっ。じゃあお前が納得する作戦を今から考える」
大樹は人生で一番と言い切れる勢いで頭を回した。ヒロインと家、ヒーローの、自分と噛み合うシチュエーションを求め、脳味噌は七転八倒の長旅だ。
大樹の脳味噌は読破したありとあらゆる恋愛ものの記憶をめぐり、出逢いの瞬間を妄想した。真実に勝るものはないが、すべてに趣があり、感動があった。
その全てを至高の相棒はブリザードでかき消してしまったが、誰もユキを責める事はできないだろう。
『マスター、諦めてください。今すぐ実行可能な成功確率の高い作戦など思いつかないのでしょう』
長考から幾ばくか経ち、ユキは流石に優しい声色で言った。しかしその瞬間、下向いた視線を持ち上げた大樹は天啓を得た。
いや、得てしまった。
「……猫だ」
『申し訳ありません。聞き取れませんでした。もう一度仰ってください』
「だから猫だよ! 猫だったらいいんだ!!」