二〇二三年三月十七日 その5
「菜乃花さん。そろそろ積乱雲を抜けますよ」
月あかりを感じ取った大樹は、決死の思いで菜乃花の口を抑えて言った。邪魔をするのは忍びないが、雲上の光景は飛び慣れた大樹でも感動した程だ。見逃して欲しくないという親切心だった。
「わっ、ありがとう。……あと、色々ごめん。我慢できなくって」
「お構いなく! むしろ役得でしたので!!」
咳ばらいをして合図を送る菜乃花から大樹はさっと身を放す。
標高およそ五〇〇〇メートル。積乱雲を超えた先にあるのは、空の中層を覆う満天の星空だ。菜乃花が、声にならない歓声を上げた。
二〇一一年の東京大学アタカマ天文台(TAO)計画についての記事に記載があるが、地上からの天体観測は、天体からの光が地球大気によって吸収、散乱されたり、大気そのものの反射によって感度が低下する。そのため天文台は上空大気量が少なく、乱れのより少ない高地に設置される。
標高五〇〇〇メートルを超える高台に設置された天文台は、二〇二三年時点では片手で数え切れる程の数しかない。
澄み渡る雲海を冴え冴えと照らす月の灯りの下、ともすれば夜の藍闇よりも多く空を埋め尽くす星々の瞬きは、流星のように見上げる者を魅了する。
時折吹きすさぶ風に雲がたなびくにつけ、その切れ端が冷たく肌を撫でるのは、訪問者を歓迎する天からの合図のようだった。
「すごい。これはもう、すごいとしか言えないわ。本当にすごい」
「良かった。こんなに喜んでもらえるならもっと早く来ればよかったですね」
「そうよ。こんな素敵なことを秘密にして独り占めなんてズルいわ。面白いお話の中に一度も出てこなかったし」
「あー、その、大丈夫だって知識としてはわかっていたんですけど。ほら、星の見えるレストランは菜乃花さん、あんまりだって言うし」
「レベルが違うわよ! こんなのファンタジーの世界でしか普通ありえないことだわ!!」
「すみません……」
「いや、連れてきてもらったのに文句言う私がおかしいから。駄目ね、私ずっと興奮が収まらない」
そう言って菜乃花はまたユキに記録を頼んだ。
「さっきよりは落ち着いてみえますし、後でゆっくりメモすればいいんじゃないですか」
「そんな事ないわ。頭の中は洪水みたいになってるの。これを放置するのは勿体ないわ。それに今考えてみたら、大樹君なら別にいいかなって気がするし」
「え」
「君なら大丈夫でしょう?」
菜乃花が自分の方が星になったように輝きながらまた言葉を紡ぎ始める。自分の衝動に対する言い訳のような側面が強かったのだろうけど、大樹にはそんな事は関係なく衝撃に打ち震えた。
ビック・バンに打ち勝つ衝撃を放つことができるとは、流石大樹を過去へ飛ばした偉大なる存在である。
「……ちょっと走ってもいいですか」
「え、ごめんなさい。何?」
「だからこの辺りで少し走りたいんです。というかあの、走ります」
「空中を!?」
『違います、彼方春。こうするのです』
ユキは機体からランニングマシンを取り出すと、大樹はすぐにその上に飛び乗った。迷彩が施され、傍目には雲の上を走っているように映る。風が強く、空気は薄く、頭を冷やすことと体力を奪うのに最適だ。
『ファンタジーを崩さない工夫を加えてみました』
「ちょっと待って。なんでこんなの持ち歩いているの?」
『私の初期搭載機能です。人類の筋力低下は社会現象となっておりますので』
「多分、ここで使うのは正規の使用方法じゃない、わよね」
『ご名答です。彼方春』
「よっしゃ! 頭が真っ白になっていい感じです!」
「それはただの酸欠よ!」
「望むところ。どうぞお構いなく菜乃花さんは菜乃花さんのやりたいことをしてください。俺は絶対に邪魔、しません!」
「気になってそれどころじゃないのだけど」
数十メートルも走れば満足した大樹は、大の字に寝転がってマシンから離脱した。体力を消費し、光が滲んで星空がぼやける様も中々よい。疲労すると休息を取る事の外は考えられなくなる。
「つくづく君の発想には驚かされるわ」
すっかり大樹に意識を奪われた菜乃花は寝る体制に移行した大樹にしみじみと言った。
『大一番で明後日の方向へ飛ぶ様、これぞまさしくマスターです。ご安心ください、彼方春。マスターが寝落ちされようとも、私は間違いなくお二人を安全に帰宅させます』
「今日の大樹君はよく寝るわね」
『長距離移動に慣れておられないので、その疲労が出たのやもしれません。その他はマスターの名誉の為に伏せさせてください』
「そういえば、始めはそんな話をしてたんだったわ。駄目ね、私は。大樹君に無理させちゃった」
『いいえ、マスターは大変喜ばれておりましたよ。気が咎めるなら、私が猫の姿にでもなって辺りを今少し周遊しましょうか』
「二人揃って謎の猫推し……」
『そうですね。マスターのご命令で数多の猫情報を収集致しましたので、なるべく開示していきたい所存です』
「そうなの? じゃあ、この間とは違う種類の子がいいわ。空飛ぶ猫なんて楽しみ」
くすりと笑って菜乃花は眠る大樹の頭を膝上に持ち上げた。髪の影に隠れ、表情は見えない。ただ、ユキは微かな音声を拾っていた。
「あと半月もない、か」
いかような意図の発言かユキには判断がつかなかった。しかし、もしも菜乃花が主を惜しんでいるとしたら、大変に喜ばしい事であるとは思うのだった。