二〇二三年三月一日 その1
この物語は、記録を元に作成している。よってこの物語の始まりは、溝口大樹が二〇二三年に降り立つ直前だ。
「やっぱり美味しい話だよなあ、タイムトラベル実験。一か月も好きなように過ごして帰って来ればいいだけなんてさ。レポートはまあ、任せたぜ、ユキ」
ユキとは、本記録の観測者SNVP―LJ1378952に大樹が観測者に名付けた愛称だ。以降は便宜上、観測者をユキと表記する。
二二〇〇年代初頭に誕生したAIロボットで、大人の頭程度の大きさの球状態が基本形態の可愛らしいフォルムをしている。前モデルより言語能力が飛躍的に向上したため全国に波及。特に日本では「小さなお手伝いさん」と呼ばれ人気を博した。
『極めて危険な前例の少ない実験なのですから、多量の任務を与える事は困難だと判断したのでしょう。そのように慎重な判断もできるのなら私のバージョンアップよりもより性能の良いロボットを派遣するべきでしたのに。人間の考える事は時折よく理解できません』
「お前がロボットのくせに旧時代的なんだよ。俺は過去にまで付いてきてくれるのは、長年の相棒のお前だけだって最初から知っていたぜ?」
『そうですか』
「そこはもっと感動してくれない? フリでもいいからさ」
『必要ありません』
タイムトラベル中の大樹はユキと軽口を叩きつつ、何度も読み返したマニュアルを隅から隅まで暗記するほど到着まで読み込んでいたそうだ。
この時代のタイムトラベルは専用のカプセルに搭乗してから指定の時間に到達するまで数時間かかる。機内は明るいが、身体を十全に動かせる程の広さはない。覚悟はしていたものの、何かあっても対処できない状態が数時間続くと精神に堪えるものだった。
大樹はお守り代わりの文庫本の背をやや強く撫でた。この本は数年に渡って幾度となく読み返されている。
『彼方春の「友へ」は二〇二三年には存在しません、ターゲットの前では重々ご注意ください』
「わかってるって。俺にも一ファンとして、尊敬する作家への敬意はあるんだ」
『しかし、マスターは敬虔な信者ではありませんね。私の初期メモリには現存する全ての彼方春の作品データが内蔵されているというのに、わざわざ過分なパラドックスを持ち込んでいる』
「お前時々面倒くさいよな。で、何が言いてえの」
『いえ、旧時代的なのはマスターの方だと言いたいだけです。私の朗読も、ページを移動する速度もマスターの記録から完璧なものだというのに、わざわざ、劣化する紙にばかり頼る』
「紙の本は、俺と春さんの愛の歴史だからな! お前のカウントはロマンがないの」
大樹のタイムトラベルの目的は前述の通り、彼の愛する小説家、彼方春と接触する事だった。
彼方春。彼女は二十二世紀を代表する小説家である不知火紫の友人として有名だが、彼女自身も現代まで名を遺す偉大な小説家である事を知る人間は少ない。
僅かに残された記録によれば、彼女は定年まで勤め上げた勤勉な役人だった。温和な好人物だが、当の本人は奇人が多い界隈で、生涯自身の才のなさに悩まされていたらしい。
二〇二四年に発表された処女作「友へ」は、主人公が友の才に絶望する様やその出来事を起点に自身の才能を開花させる様子などが如実に描かれている良作だが、現代では不知火紫の文学研究の第一文献として扱われることが多いことなどからその不遇さが垣間見えるだろうか。
彼方春自身、自身の作品は全て不知火紫に影響を受けており、友を利用してプロになったことに強い自責の念を抱いている旨の文章が多く残されている。特に文壇登場後数年は役人であるというだけでバッシングする厄介な読者に粘着されていたらしく、どうにも幸薄い印象の小説家だ
華やかな空想世界を冒険する王道の大衆小説から個人の負の感情にひたすらに向き合った純文学など、執筆ジャンルは多岐に渡る。
いくつかの文学賞受賞歴があり、その創造性の高さを疑うところはないのだが、その華やかな実績の裏腹で苦しみぬいて歩んだ作家人生に惹かれる酔狂なファンが多い。
大樹は単純に作品に惚れた口だが、彼女の不幸が根底にある作品群に惚れたという意味では、ある種罪深いファンの一人であると言えるだろうか。
大樹は彼女の生涯を哀れに思ってはいたものの、ただの学生である身で介入できることはなく、また、歴史を捻じ曲げて彼方春の生み出した作品が消滅することこそを恐れていた。
「はあ……。本当はデビューして数年後くらいが一番油が乗ってて詳しく話が聞けたんだろうけど、これは日時の決められた実験だからなあ。それが唯一の残念なところだな」
『マスターは贅沢です。彼方春の存命期間という条件はクリアしています。タイムマシンの性能上、数年単位で時代の指定ができないのですから致し方ありません』
「愚痴くらいもっと親身に聞いてくれない?」
『既に十分聞きました。それよりも、間もなく二〇二三年に到着します。残り時間一分。着陸の準備を開始してください』
「唐突だな!」
ユキの言葉と共に赤く染まったカプセルの中で大樹は慌ててマニュアルと文庫本数冊をリュックサックにしまい込んだ。徐々に重たい重力の気配が身体を襲い始め、内部のメーターが安全水準ギリギリまで一息に跳ね上がる。
『残り二十秒』
大樹は心臓の辺りに手をやり、深く息を吸う。彼の心には多少の不安はあれど、それを遥かに上回る高揚感が満ちていた。
『残り十秒。九、八、七、六……』
機体の揺れが最高潮に達する。ユキも自席に収まり、忙しなくメーターや観測レベルの後を追った。
『三、二、一、ゼロ』
轟音が耳をつんざき、カプセルが何かに着陸した振動が数十秒間続く。大樹はリュックサックとユキのボディを強く掴み、我慢強くカプセルが展開する瞬間を待ち続けた。
大樹達が到着したのは、二〇二三年三月一日午後十六時五十七分。愛知県某所にある役場の、小会議室の机上だった。
スーツを身に纏った複数人の男女が顔を突き合わせて、まさに会議の真っ只中である。
彼らの見つめる先には大きなモニターがあり、そのモニター越しに別の場所にいる人々とも話し合いをしているようだった。
「小説の通りだ! 昔は交通網が発達していなかったから、わざわざ国内間くらいの距離でもオンラインでやり取りしていたって本当だったんだな! おもしれー!」
『正確には私達の使用する依代も同じようなものです。当時はzoomなどを通してしかオンライン上の交流ができなかった人類が、記憶を読み取る依代を用いて別次元に進出した過程を思うと感慨深いものがありますね』
「リアルで会うと運動量やばいから健康には良さそうだよな。あ、見ろよ、ユキ。熊みたいな人もいる」
『はい。実像を残さなくなった時代に生まれた我々にとっては、貴重な動画サンプルです。余すことなく記録します。……マスター、そのケーブルに触れてはなりません。映像が切断します』
「これ全部有線なのか。わかった、気を付けるよ」
大樹達は到着地点が雑踏であることを懸念して迷彩を施してから過去に降り立ったが、流石に静かな室内で振動への誤魔化しや、第三者の介入の証拠すら抹消することはできなかった。
小さく圧縮したカプセルを回収し、人の間を縫って床に降りてみると、僅かな振動に反応した青年が不思議そうに顔を上げた。同時に上着のポケットの皮の名刺入れとインク入りのボールペンが落下し、ボールペンが床を転がって大樹の靴にぶつかって止まる。とっさに拾い上げると、ペン先のインクは大樹の指先を汚した。
「すげえ、本物のボールペンだ」
墨と筆を日常的に使っている様を見たような、というとより風雅な表現になろうか。紙の豊富な昔らしい古風な習慣である。
「うわあああっ!?」
「っ!? ちょっ、大丈夫ですか!?」
と、大樹が感心していると、ボールペンの持ち主の青年までもが盛大に床に転がった。これまた大樹も動転して駆け寄ると、青年は余計に顔を青ざめて何度も瞬きを繰り返す。
彼一人だけではない。青年を見た室内の人々も、モニター越しに映る人々までもが皆唖然として口を大きく開けていた。
全員揃って同じ表情なので思わず同じ表情を返してみるが反応はない。
「な、なんなんだよ」
大樹の疑問にユキと青年は同時に答えた。
「ち、宙にペンが浮いてる……!」
『過去の物質は現代と材質が異なるため、瞬時の迷彩を施す事は難しいようです。触れられてしまう前に、即刻退避することを推奨します』
「げっ、そうだよな。俺らが来たのは秘密なんだった! ていうかもっと早く言えよ、ユキ! 迷彩が効かないなんて初耳だぞ」
『情報不足でした。しかし、これはマスターが不注意だった事で起きた問題です。ひとまずペンを離した方が良いのでは?』
「言われるまでもねえ」
すぐさまペンを青年の足元に返却し、スライドドアをそれと気づかず前後に揺らした後、人気のない階段まで大樹とユキは速足で向かった。背後では地震か怪奇現象か、はたまた疲労による幻覚ではないかといい年をした成年男女が大真面目に討論している。
心なしか楽しそうだと大樹は思ったが、ユキが高速で頭を回すモーター音にすぐに顔からその悪戯っぽい笑みをひっこめた。
『もう遅いです。マスター』
「何のことだかな。それよりユキ。人気はないし、ここで迷彩を解いてくれないか。どのくらいの騒ぎか確認したいんだ。まさか透明人間が実態を持ってるなんて思うわけがないだろう?」
『犯人は必ず現場に戻るという有名な格言を体現なさるおつもりですか? 遺失物なし。会議室内に防犯カメラもありませんでしたので、じきに先程のミスは適当に折り合いがつけられます。
ところがマスターの案を実行しますと、通路に設置された防犯カメラがありえない現象を記録してしまいます。何もない場所から人が現れる瞬間を撮影される訳にはいきません。人混みに紛れて正面玄関を突破した後に迷彩は解きましょう。幸いなことに、まもなく閉庁時間のようです』
「わかったよ、仕方ないな」
『マスター』
「違うって。ほら、隠れているとみんな遠慮なく、……っと、ぶつかってくるからさ」
当然ながら、何もない空間に気を遣う人間など存在しない。何かの気配を察知するロボットのいない時代ならば尚更だ。通路いっぱいに横一列に並ぶ三人を避けて柱にしがみつく主を横目に、ユキは淡々と切り捨てた。
『それは致し方ありません。マスターが騒ぎを起こしたことが原因ですから。予定通りにことが進んでいれば問題はなかったのですがね』
「あれは二人の責任だって」
大樹が迫りくるベビーカーをすれすれで避けながら答える。職員の帰り支度と駆け込みの客で案外と騒がしい庁舎の中は下の階に下りれば下りる程人口密度が増していた。突然走ってくる人々を避け、人波に合わせて何にも接触せず自動ドアを突破するのは中々に困難なミッションだ。
さりとて人気の少ない時間まで待てば、脱出のタイミングは限られ、透明人間の露見リスクが高くなる。ここは多少無理をしてでも突撃するほかなかった。
「何で俺ら、ただ建物から出るのにこんなに苦労してるの?」
『致し方ありません。我慢してください』
「ちょっとは慰めろよ!」
にべもなく即答する相棒の言葉に、大樹は小声で息を潜めるほかなかった。