二〇二三年三月二日 その5
大樹達は、夜の公園でアスレチックエリアの遊具をとことん遊び倒した。
滑り台は三十回以上連続で乗り回し、尻が痛くなれば両手を添わせて浮き上がって滑り落ちた。二人でしかできないシーソーは、両者の足の筋力が持つまで延々と行われた。無言でにらみ合い、効率よく爪先で押す菜乃花と男子高生の筋力を持って一蹴りが伸びる大樹の対決は意外にも拮抗したが、大樹がスカートの裾と太ももの間の絶対領域に気が付いてしまった辺りで目を瞑り、菜乃花の足がつく前に一人でシーソーを漕ぎまくるという荒業で勝利した。
逆上がりの回数や雲梯の移動速度の勝負もした。菜乃花は逆上がりも敗北を喫したが、雲梯ではするすると身軽に梯子の上に登って走り抜けてしまったので、大樹を驚嘆させた。
ここ数年筋トレに嵌っているなんて言葉では片づけられない上半身の筋力の持ち主であると思われる。小説家とは室内に籠りがちな生き物ではないのだろうか。
また、純然たる筋力で圧倒したかと思えば、菜乃花はそのまま人口小川の上に浮かぶ小石を飛び跳ねて移動し、大樹から数十メートルも距離をあけてからかけっこで勝負だと、少しずるい事を言って勝利をもぎ取ったりもした。
大樹はズルをせず、正々堂々と己の脚力だけを頼りに追いかけたので余裕で負けた。
勝敗の数が並び、遊具のほとんどを乗りつくした二人は、最後に休憩がてら並んでブランコに乗った。
大樹がブランコで揺れる夜空を仰げば、朝はどんよりと漂っていた雲が流れ去り、瞬く星々と半月より少し太めの月の灯りが見えた。
それはとても、とても綺麗な星月夜だった。
「まだ沈んでいるの?」
ぼんやりと空を仰ぐ大樹をからかうように隣の菜乃花が浮き上がった。白い息が星雲のように闇に溶けて消えていく。
三月初めの空は寒かったが、駆けまわった熱で身体は暑く火照っていた。
「星がきれいだなって思ってました」
「ああ、本当ね。晴れたんだ」
「……菜乃花さんは」
「ん?」
「貴女はどうして、俺のところまで来てくれたんですか?」
「君はなんでだと思う?」
大樹は少し考えた。走り回ったおかげで先ほどまで腐り切っていた脳味噌はクリアだ。ちゃんと大樹の中の答えをそのまま思考に押し上げてくれる。
「仕事の都合に巻き込んだ負い目かな、と思っています。犠牲にされた菜乃花さんが背負う必要はないと思いますけど」
暗黙の了解というものがある。明言化されていないものの当事者間では明確にルールとして存在している、小説の中だけなら大樹も読み解くのが大得意の文脈だ。
ありていにいうと、大樹が己の正義の為に起こした行動は、大人たちの都合に合わなかった。そういうことだろう。
冷静に考えれば至ってシンプルである。どちらが正しいとか間違っているとかは関係ない。彼らは彼らのルールに従って仕事をする。それだけの話だ。
恐らく法律順守とか優先順位とかそういう、大樹にとってはつまらないもののために、菜乃花は不運な生贄に選ばれた。
納得はできないが、理屈は理解できる。心優しい菜乃花は彼女にとっては誤った方法で助けようとした大樹を慰めようとわざわざ足を運んでくれたのだ。
「残念。ハズレね」
「えっ! 違うんですか!?」
「綺麗な言葉で飾り立てたらそういう言い訳もできるかもしれないけれどね。大人は君の考える程綺麗じゃないよ」
ギイコ、ギイコと強く浮かぶ衝撃に繋ぎ目の金具がきしんだ。
「言ったでしょ、よくあることだって」
「言ってましたけど、あれは慰めじゃ」
「ありません。土下座要求なんて対処法がマニュアルに載ってるくらいメジャーな業務妨害だもん。怒鳴って脅しつけてくる人に怯えて縮こまっていたら仕事にならないし。
ああ、悪化したら上司が出てくれたりはするけど、大勢に囲まれると逆上する手合いもいるからねえ。私だって、逆の立場の時は集中できないから自席から離れたりする。助けようなんて思ったことない。
……嵐が過ぎたら運が悪かったねって笑いながら声をかける。それだけよ」
菜乃花の言葉に合わせるように、滞空時間が伸びていく。菜乃花は本当に何でもない事を告げるような口ぶりだった。
「よくある事だから、勿論、誰も引きずらない。その日が過ぎたらさようなら。悪い事してない時はね。大樹君はあの人の言い分を聞いて、理屈が通っているなんて、ちょっとでも思った?」
「いいえ、まったく」
「でしょう。つまり何も落ち度はないのだから、あの人の言葉に傷つくのは時間の無駄。というか、優しすぎるわね。何でもなんとかしてあげようって思っちゃうタイプは会社勤め向かないよ?
誰よりかっこいいヒーローではあったけどさ」
「……それならやっぱり負い目じゃないですか」
「まさか。そんな事でわざわざ残業蹴ってよく知らない少年を慰めになんて来るわけないでしょ」
「俺には、貴女はそんな事でも動く人のように見えます」
「そう見えるなら、私は極悪人ね。だって私は、打算的な人間だから」
「自分で自分の事を悪くいう人は、大体いい人ですよ」
「そう言ってくれるだろうと予測して裏をかいている場合もあるわよ。少なくとも私はそう」
何故菜乃花が自分を悪くいうのか、本人の言う通り自分をよく見せようとしているのか、唯の親切に重みを感じさせない気づかいなのか、大樹には見当がつかなかった。
「そんな事言われたら、俺、自分の都合のいいように解釈しますよ。貴女の小説を読む時みたいに」
「いいんじゃない」
調子に乗った言葉が肯定されると妙に気恥しく感じるのだと、この時初めて大樹は思い知った。
首までこもる熱は寒さのせいじゃない。菜乃花の言葉に一喜一憂して、いくらなんでもわかりやすすぎるんじゃないかと思う。
次に自分が何を言い出すのかが怖くて、大樹はブランコの上に立ち上がって膝に強く力を込めた。男子高生のありあまる脚力を受けて、ブランコは高く高く飛翔する。
そうして不意に天地のひっくり返る感覚がして、空を飛べると知った籠の中の鳥のように鎖から身体が突き放された。
手前の囲いに足をかけ、雨の残り香が泥をかけて顔面から地面に這いつくばる。歯の裏側まで入り込んだ土は野生の味がした。
「ちょ、大丈夫!?」
「………おえ」
口の中に入った土を指を突っ込んで吐き出すと、大樹はなんだかおかしくなった。
好きな人の前で泥にまみれるというのは、もっとかっこいい場面で登場するものだと思っていた。
まさか足を滑らすなんて間抜けな理由で醜悪な失態を晒すとは。
その時大樹の身体の奥から耐えがたい衝動が巻き起こった。
「あはははっ! 俺、だっせえ!!」
そう、笑いである。
大樹は大口を開けて笑い転げた。まだ少し残っていた口内の砂利を全て弾き飛ばすくらい全力だった。
腹筋が限界を超えて躍動している。痛む腹を庇おうと試みるが、自動で振動する腹肉はなぜか壺を的確につく。笑いは、強かった。
菜乃花は膝をつき、本気で大樹の精神異常を疑っているようだった。
違うのだ、と大樹は唇を動かしたが、「は」と「あ」以外の単語は紡げなかった。
ユキならばスキャンをした後に大樹を捨て置くところである。十数分後、ようやく大樹は笑いつくした。
「笑いつくしました」
「そうね。喉は大丈夫? お茶か何か買ってこようか?」
「大丈夫です。一周回って嫌な事は全部飛んでいきましたから!」
「……確かに、もう嘘はついてないみたいね」
「おかげさまで完全復活です。もうなんとお礼をすればいいのやらといった感じです。今度絶対に埋め合わせさせてくださいね!!」
「要らないから。それより早く帰ってその泥を落とさないと服に跡がつくよ」
「今日という記念の日の記録として、それはそれでありなような」
「もう、馬鹿言わないの」
ばっさりと言い捨てた菜乃花は黄色のハンカチで大樹の頬を拭った。大樹は極めて冷静な顔で菜乃花の自身の汚れを厭わない美しい心根を讃える詩を作成していた。
ちなみに後日、ユキに酷評を受けたため、文字データは削除された。
「菜乃花さん。菜乃花さんこそ、汚れがついてます」
「ああ、いいよ。これくらい」
「駄目ですよ。大事な身体です。菜乃花さんも、優しくされるべきです」
とはいえ、大樹はハンカチを持ち歩くタイプではない。辛うじて泥のついていないパーカーのフード部分しか差し出し、流石にこれは駄目だと自分からフードを元に戻した。
「くっ、これができる人間とそうじゃない人間の差か。一流の人間はエチケットを欠かさない!」
「そういうことのためじゃないと思うけど。でも、君の気持ちはよく伝わったよ?」
「今は、その優しさが尊いだけに、自分がふがいないです」
「何言ってるのよ、もう。やっぱり君は馬鹿だね」
「ありがとうございます!」
「そこで普通はお礼言わないってば」
「俺は言うタイプなんです」
昨夜とは違った肌触りの言葉に、大樹は心から感謝した。そして思った。
ああ、桜井菜乃花という人にもっともっと近づきたい。幸せにしたい。
それがただの一介のファンとして過ぎた行為だとは分かっていた。
だけど、一か月だけだから。拒絶されてはいないから、どうか許して欲しい。
そう希う大樹に菜乃花は、とても綺麗な笑みを浮かべてみせた。