8. 恋に道連れ
一晩考えて、アイザムは思った。
シェリをちゃんと送り出そう。
そして、きちんと気持ちを伝えようと。
せっかく来てもらって、ここまで協力してくれたのだ。心から感謝を伝えたい。
それから、シェリに対して部下以上の気持ちを抱いてしまったのは申し訳ないが、ここできちんと区切りをつけないとアイザム自身が想いを引きずりそうだと思った。
アイザムは数日し、紹介状を準備した上でシェリを執務室に呼んだ。
伯爵からの引き抜きの話をした後も、シェリは変わらず仕事をしてくれている。
でも、実際はもう荷物をまとめているのだろうか。
彼女が出て行く想像をして胸を痛めながら、アイザムは引き出しから二通の封筒を出して机に並べた。
「シェリ、先日の件だが、ウェリントン伯爵へ紹介状を書いた」
「はい……」
差し出した紹介状をシェリが両手で受け取る。
だが、アイザムはぐぐぐと力を入れ、紹介状から手を離さない。シェリが困惑する。
「あの……?」
「もう一通、別の書類を作った」
渡しかけた紹介状をシェリの手からぴっと抜き取り、机に並べていたもう一通の封筒を渡した。
「これは?」
「雇用条件の見直しだ」
「?」
「シェリ、好きだ」
目を見開いたシェリが、言葉を失って固まった。
「雇用主の立場でこんなことを言うのは非常に良くないことは分かっているんだが、好きだ。君のためだと分かっていても他所の家にやりたくない」
「アイザムさま……」
「そこでこれをご覧ください」
「え?」
怪訝な顔で疑問符を浮かべるシェリの前に、書類を広げてみせる。
差し出したのは、改訂した雇用契約書だ。
「シェリが好きだから妻を迎えることもないし、家族の世話をさせることもない」
「は……?」
「それから、今の給与から二割アップする。ウェリントン伯爵令嬢の方が給与が高ければ、再度検討する」
「えっ」
「だから、だから──」
懇願するように、シェリの明るい栗色の瞳を見つめた。
「うちにいて欲しい。考えてもらえないだろうか」
いや、紛れもなく懇願だ。
給与で繋ぎ止める方法しか思い付かず情けないことは重々承知だが、シェリがこれからもいてくれるなら安いものだ。
シェリは呆然と立ち尽くしていた。
が、じわじわといま告げた意味が理解出来てきたらしく、手を口に当てた。
アイザムを見つめたままだが、緩んだ頬が隠せていない。
──笑っていないか、こいつ?
「…………なに言ってんだこの人って顔で見るなよ」
「……申し訳ございません」
「そこは『そんなこと思ってません』って言えよ」
「嘘をつかない雇用契約になっておりますもので……」
「知ってるよ!」
とうとう肩を震わせてシェリが笑い出した。
その様子を憮然と見やる。
「一世一代の告白なんだが??」
「……申し訳ございません、まさか……、想像もしていなかったもので」
落ち着くまで待って、シェリは「はー」と息をついた。
「アイザムさま、先日引き抜きのお話を頂いた際、ご結婚の話を出したのを覚えておられますか」
「覚えてるよ」
だって、あの時のやりとりがあったから今この場があるのだ。
彼女から嫌われていると思ったから。
「あの時、最後まで話を出来ませんでした。私は、アイザムさまの奥さまをお迎えするのは難しいと申し上げました。それは、見ていることがつらいからです」
「えっ…………、えっ!?」
「私の方こそ申し訳ありません。執事の立場で、アイザムさまのことを好きになってしまいました」
今度はアイザムの方が絶句した。
信じがたい。
「そ、それは勘違いでは……。俺の方が立場が上だから断れないんじゃ?」
「いいえ」
「紹介状に悪影響だと思ってる? シェリはすごく優秀ですってちゃんと書いたよ」
「他のお屋敷へは行きません」
きっぱりと言うシェリを見つめる。
晴々とした表情で見つめ返してきたので、「嘘だ……」と小さく呟いた。
「嘘をつかない雇用契約になっております」
「知ってます……」
知っている。確かにシェリは嘘はつかない。ということは本当に?
信じていいのだろうか。自分が無理強いしているわけではないだろうか。再度、「本当に……?」と弱々しく問いかけると、微笑んで頷かれた。本当らしい。
「アイザムさまは責任感が強く、とても情の深い方です。執事としてやってきたのが女であっても、私のことを一人の人間として尊重してくださいました。そういったところが……、その、素敵だなと思ったのです」
「うわ……」
嬉しさのあまり震えていると、シェリはアイザムの準備した雇用契約と伯爵への紹介状を手に取った。
「さて、こちらの書類はいかがしましょう?」
「処分だ、処分!! あ、やっぱりちょっと待て」
雇用契約書を取り戻し、改訂部分を二重線で消した。
それから一番最後に一文付け足し、シェリに向け、同意を求めて右手を差し出した。
「改めて、これで頼む」
『両者の合意のある間は、業務外においては恋人同士とする』
付け加えられた一文を読んで、シェリが笑った。
「どうぞよろしくお願いいたします」
出会った時と同じように、手袋に包まれた手で柔らかく握り返された。
♦︎
ウェリントン伯爵へは丁重に断りの連絡をした。
元々、伯爵は自身が無理を言っていると分かっていたのだろう。食い下がられることはなかった。
一方、恋人同士とはなったものの、シェリとの関係は大して変わらなかった。
あまりにもシェリが日常にいるのが普通すぎたので、そんな雰囲気にならないからというのが一番大きい。
シェリは引き続き執事として働いてくれている。
まだ将来についての具体的なことは考えていない。
いずれはこの家の女主人になってくれたら嬉しいなとは思うものの、恋人になったばかり。
それに、アカデミーを首席で卒業した彼女がすぐに家に入るのも勿体無いような気がした。
ただ、シェリの負担を減らすため、屋敷の従業員は少しずつ増やしている。一方のシェリの方はというと、イースト・ノーザンの仕事の手伝いにも興味を持ってくれているようだ。
互いに将来のあり方を考えられるような時期になったら、家族になって欲しいと相談──いや違う、また懇願しようと思っている。
それはそれとして。
アイザムがいま一番考えているのは、あの白い手袋の下だ。
「チェックメイトです」
「いや強すぎるだろ」
仕事が終わって寝るまでの間が、現状、二人での唯一の恋人らしい時間だ。
飲み物を準備しておしゃべりしたり、今日のようにチェスのような遊びをすることもある。
シェリは頭を使う遊びがめっぽう強かった。さすがだ。
アイザムとて自分が弱いとは思っていなかったが、シェリに勝てるのは二割もない。しかも、彼女は全然手加減しないのだ。
「もう一回」
「はい」
頭脳戦の強い恋人にため息をついて、向かいに目をやった。
ソファに腰掛けるシェリは業務時間外ではあるものの、スーツのジャケットを脱いだだけのいつもの姿。白い手袋は着けたままだ。
仕事から地続きではあるから仕方ないものの、たまにはくだけた姿を見たい。
アイザムは少し考えて、駒を並べ直しながら言った。
「次に俺が勝ったらさ」
「はい」
「言うことを一つ聞いて」
シェリは目を丸くしたものの、「いいですよ」とあっさり言った。
──本気を出したチェスは、アイザムの勝ちだった。
「よしっ! やった!!」
「うわ……」
冗談、あるいは負けはしないだろうと思っていたのだろう。
アイザムの形勢有利となったところで若干焦りを見せたシェリだが、そのままアイザムが押し勝った。
負けてようやく、まずいと思ったらしい。
珍しく眉を寄せてこちらを睨んでくるシェリに、アイザムは小躍りしたくなった。
「シェリ、さっきの約束覚えているだろうな?」
「記憶はありますが後悔しています」
「そんな悪いことしないって。手袋外してみてほしいだけ」
ぱっと自らの手を見て、シェリが隠すように手を握り込む。
「なぜですか……」
「シェリの手袋外した姿って見たことないから。見るだけで何もしないよ」
シェリは少しだけ考えて、了承したらしい。
利き手の反対の手で、親指から順に指先を引っ張り、するりと手袋を抜いた。反対も同様に。
その様子を凝視していたアイザムは、とんでもなく胸が高鳴っていた。手袋を外しているだけなのに、なぜこんなに淫靡なのだ。
両手が素肌になったシェリは、アイザムに手のひらを向けた。
「ずっと手袋を着けていたのは恥ずかしかったからです。あいにく、帝都のご令嬢のような美しい手ではありませんから」
爪は短く揃えられており、左手の親指の付け根には切り傷の跡があった。
ペンの当たる部分にはたこが出来ているし、指先は柔らかくはなさそう。
確かに、刺繍のレースに包まれてきたような令嬢の指とは違うけれども、彼女が生きてきた証だ。
「そんなことない。美しくて強い、人を守ってきた働き者の手だ。さっきは何もしないって言ったけど、少しだけ触れてもいい?」
「どうぞ」
両手でそっとすくうように触れると、柔らかくて温かい。
親指で彼女の指を撫でたら、手を握り返してくれた。
この手は自分よりもずいぶんと小さいのに、彼女は誰よりも頼りになるのだ。
でも弱いところがあることも知っている。シェリのことを守りたいし、彼女も頼ってくれたらいい。
「シェリ、出会ってくれてありがとう」
彼女の手の甲に、アイザムは恭しく唇を落とした。
《 おしまい 》