第七部 左大臣時平
現在、元号というものは天皇の死去で終わり、新天皇の即位で新しく始まるものとなっている。
だが、それは明治以後の決まりであり、この時代はそうではなかった。
天皇が変わらなくても縁起を担ぐために元号を変えることがあったし、天皇が変わっても元号が変わらないことも珍しくなかった。
宇多天皇の定めた元号である「寛平」は、醍醐天皇の即位後もそのまま継承され、元号が変わったのは醍醐天皇即位の一年後、寛平十(八九八)年四月二六日である。ただし、これには異説があるため断言はできない。確かなのは、寛平十年の途中で新元号である「昌泰」に改元されたため、西暦八九八年は、寛平十年と昌泰元年の二つに該当するということである。
さて、この昌泰元年であるが、表面上は穏やかな一年となっていた。
ボイコットしていた貴族達は、ボイコットの成果が得られないことを悟ってか、それとも、いち早く裏切って政務に携わったほうが出世に近いと判断したからか、一人、また一人と、何事もなかったかのように宮中に戻ってきた。
そして、彼らの期待は裏切られた。人事が全く動かなかったのである。ボイコットは全くの無駄であった。
この年の人事発表は一つしかない。一〇月八日に布告された、時平の東大寺俗別当就任である。
東大寺というのは単なる寺院ではない。全国に散らばる国分寺を束ねる寺院であり、この時代、僧になろうとする者は東大寺で式を挙げるのが習わしであった。
時平はその東大寺の、出家しない俗世間の立場でのトップに立ったということである。
これは時平が望んでのものであった。
時平の抱いた漠然とした不安。
これを解消する方法はいくつかあるが、不安の根本を押さえ込むことは解消方法としてかなり優れたものである。
と同時に、東大寺の権力を時平が握ったことで、僧侶の数をコントロールする意図もあった。
この時代、税を課されることがなかったのは、有力者、亡命者、僧侶の三者である。
亡命者は別として、有力者の庇護を受けらなかった者が、税を逃れるために僧侶になることを選ぶのはよく見られた。
時平はその制御を意図していたのである。
しかし、これは寺院勢力を敵に回すことになる。
自分たちの勢力を弱めさせられるのであるからそれは当然であろう。だが、このときはまだ表だった不満の噴出とはなっていなかった。
左右の大臣が空席であることは高齢層に期待を抱かせるものではあったが、その期待は奪われた。
昌泰二(八九九)年二月一四日。
菅原道真、右大臣に就任。
藤原時平、左大臣に就任。
名実ともにこの二人が貴族の頂点に立った
三位の人間が二位に昇進しないまま二位に相応する役職に就く。これは頻繁に観られる人事であり何ら珍しいことではない。
だが、二人の三位の人間が、左右の大臣に同時に就くというのは異例であり、世間はその人事を大抜擢と見た。
この知らせを受けた貴族の動きは真っ二つに分かれた。一つは時平や道真のもとに参じる者、もう一つはあくまでも対立姿勢を崩さない者である。
後者は二人のうち道真にターゲットを絞った攻撃を始めた。時平は父や祖父の後継者として認識されている以上、若すぎるところはあったが遅かれ早かれここまで上り詰めるのは当然と思われていたのに対し、道真は有名な学者家系ではあっても、そこまで出世した者はいないという家柄である。
嫉妬というのは、自分にはどうにもならないことに対しては湧き出てこない。
どんなに努力をしようと、太政大臣の後継者は実の子である時平であって自分ではなく、その血筋は変えることができない。つまり、諦めである。
しかし、道真は違う。学問の成績は抜群でも、家柄としては自分たちと大差ない。
その大差ない道真が絶大な権力を手にし、自分たちの上に立っている。
上手くすれば自分がそこにいるはずだったのに。
これが嫉妬の理由である。
だが、嫉妬をそのまま攻撃に出すには弱すぎた。
世間は彼らを、単に不平不満を騒ぎ立てるだけの集団としか見なかったのである。
また、攻撃しようにも攻撃すべき場所がなかった。収賄とか、スキャンダルとか、そういった攻撃材料が道真には見あたらなかったのである。
これで醍醐天皇の政体は完成したと見た人は多かった。
宇多上皇もその一人である。
東大寺俗別当である時平の仕事の中には、出家を希望する者の許可の付与も含まれる。その出家が脱税のためでは無いという審査の最終決定権は時平にあった。
その時平の元に舞い込んできた知らせ、それが宇多上皇からの出家の願いである。
時平は我が目を疑い、普段は書類の上でしかしない審査を、対面で行うこととした。
「誠にございますか。」
時平のこの問いに宇多上皇は無言で頷いた。
「仏門に入られるとの知らせを帝がお聞きなさりますと、いかほどの衝撃を受けましょうか。」
「並の親子なら出家する父への問いもあろうが、帝ともあろう者にそれは無用。」
「しかし……」
「時平、いや、左大臣殿。拙僧のわがままを聞いてくれぬか。」
「そ、そのような言葉は困ります。一国の君子たるもの……」
「目の前にいるのは一人の僧。俗世間のことなど意味はない。」
そこにいるのは、ついこの間まで天皇として国のトップに立っていた存在ではなく、出家を願う一人の人間だった。
一個人としてならば宇多上皇の審査に問題となるようなところはなかった。だが、上皇であるという一点が問題となった。
時平は判断を保留し、道真を交えての議論となった。
結論には時間を要したが、最後は宇多上皇の意志が受け入れられた。
一一月、東大寺で宇多上皇は受戒(僧侶になること)。
史上初めての出家した上皇、「法皇」の誕生である。
あくまでも個人の意志とするか、それとも、策略が裏にあるのかはわからない。ただし、宇多法皇の出家はかなりの波紋を投げかけたことは事実である。
そして、この波紋をもっとも強く受けたのが道真であった。
道真が右大臣辞任を示唆したのである。
「なぜそのようなことを。」
時平は慌てて道真の元に駆けつけた。
「新羅や唐の情勢は時平殿もご存じであろう。」
「それは無論。しかし、ここ数年は平穏ではございませんか。」
「中の争いが続く間、外からは平穏だと感じるものです。その平穏は、中の争いが片づいた瞬間に破られるもの。」
「ですが、道真殿が九州へ赴く義務はございません。」
「九州に赴く義務はなくても、私にはこの国を守る義務がある。それが漢籍を学んだ者の定め。単に唐の書を読むことだけが漢籍を学ぶことではなく、それによって得た他国と渡り合う力をもって国に奉仕するのが私の仕事です。」
「……、それはその通りです。しかし、それと右大臣辞任とは関係ございません。どうしても九州に行くというなら右大臣のまま行けばよいのではないですか。」
「大宰府を指揮できるのは、右大臣ではなく大宰師。私が右大臣でいる間は大宰師にはなれぬのです。時平殿、私は他の貴族に嫌われています。そして、私を助けてくれていた方は出家し寺院に入られました。今まではその方のことを考えて留まることを決心していましたが、もはや、それはございません。ならば、嫌われている私が右大臣を辞すのは、国の喜びではないでしょうか。」
「大きな損失です。」
「いえ、損失ではありません。私ではない者でも右大臣はできます。しかし、大宰府を指揮することで他国に圧力を与えられるのは私だけです。これは傲慢ととっていただいて構いません。」
「……」
時平は道真の右大臣辞任の意志は固いと察した。
だが、今ここで道真を欠いたときの政権はイメージできなかった。
時平にできることは、決意を崩すことはできないにしても、何とかして先延ばしすることだけであった。
翌々年、昌泰四(九〇一)年は辛酉の年に当たる。
辛酉の年は、昔から波乱の起こる年とされていた。
そこにつけいったのが三善清行である。
「能有亡き後、逆賊道真は専横を恣にし、藤原に取って代わって栄華を極めようとしている。これは許されることか!」
「否!」
「来年は辛酉年に当たり、古来より、内外大いに乱れるとの謂われ。この乱れを生むのは誰か!」
「逆賊道真なり!」
「我らのなし得ることは何か!」
「逆賊道真を追放せよ!」
清行がそうした反道真の首謀者となりつつあることは時平にも察知できていたし、道真本人の耳にも届いていた。
ただ、目障りではあるが、特に何かするではなく、国政に与える影響は皆無。
言論の自由が保障されている現在に限らず、自由が制限されている時代であろうと、国家元首ではない人間に対する反感を募らせているだけでは取り締まりの対象とならない。
時平はそうした清行の態度を持て余していた。
「清行は何をしたいのかわかりません。」
それに明確な答えを示したのが陽成上皇である。
「奴は広相の生まれ変わりだ。文句ばかりで何もせず、他人を批判している自分を偉いと思いこんでいる。百済も復活したが、学者派も復活したということだ。」
「厄介ですね。」
「それでも、奴らは本朝のために何かしようとしている。方法は間違っているがな。」
「それは手厳しい言葉。」
「では言うが、何かの役に立っているか? 同じ学者出身でも、身を挺して国を救おうとしている道真と、他人を貶していい気になっている清行と、どちらに価値がある。」
時平は宮中で清行と顔を合わせることがあるが、特に挨拶するでなく、陰気な面持ちを漂わせながら独り言をつぶやいているだけの老け顔の老人、老人と言っても道真より二歳年下なのであるが、その陰気な学者のことを時平は特に意識していなかった。
宮中に毎日足を運んでいる時平ですらその程度の面識しかない。ましてや、宮中に足を運ぶなど許されない立場である陽成上皇は清行とほとんど面識がなかった。
学者が陽成院を頼り、陽成院に足を運ぶことは珍しくなかったが、そこに清行の姿はなかった。
おそらくではあるが、道真に対し個人的な恨みを持っている清行にとって、道真と接点のある人物は接触すること自体考えられないものなのであろう。
昌泰三(九〇〇)年一〇月一一日、清行から道真に一枚の書状が送られた。
『伏して見るに明年辛酉運変革に当り、凶に遭ひ禍に衡たる。伏して惟るに尊閤は翰林より挺して槐位まで超昇せらる。伏して冀ふらくはその止足を知り……』
難しく書いてあるが、要するに、
『来年は縁起でもない一年だし、あんたは大した身分でもないのに出世しすぎたから、辞めてしまえ』
という内容である。
現在も、政治家に向けて送られる手紙やEメールの中には、その人の存在価値の全てを否定するような内容のものがあるが、それと同じである。
ただ、清行の手紙は,差出人が明確に示されている上で公表されている。
このときの清行の肩書きは従五位上の文章博士という歴とした公人である。
その公人が右大臣を堂々と批判しその辞職を要求したことは大問題であった。
「何たることか!」
その手紙を知った時平は激怒し、清行を逮捕しようとさえした。
だが、無礼ではあるものの法を逸脱しているわけではなかった。しかも、内容自体は文章博士という職務によって知り得た知識に基づく提案であった。
つまり、民事裁判に掛けることは可能でも、刑事裁判は不可能な内容であった。
一方、手紙を突きつけられた当の本人である道真は涼しげな顔をしていた。
「道真殿は悔しくないのですか!」
「それが清行という人間なのです。知性は書により得ることはできても、品性は得ることができません。それに、清行は私の弟子にも当たるのです。弟子の不始末は師の責任。私の不徳ですよ。」
「しかし……」
「それに私は喜んでいるのですよ。これで正々堂々と右大臣を辞職できるのです。」
「!」
「何という顔をなさる。私は前から大宰府に行くべきだと考えていました。ですが、この右大臣という職務が邪魔をしてできませんでした。今は幸いにして外国との関係が安定しておりますが、いつその関係が崩れるかわかりません。崩れたとあってはこのような貶しあいなどで遊んでいる余裕はなくなります。」
時平はそこに道真の誇りと強烈な自信を感じ取った。
昌泰四(九〇一)年一月七日、菅原道真、従二位に昇格。
同日、藤原時平、従二位に昇格。
そして……
昌泰四(九〇一)年一月二五日、菅原道真の右大臣辞任を受理。同時に、大宰権帥への就任を発表。
空席となる右大臣には源光が就任すると発表された。
この知らせを聞いた宇多方法は裸足で宮中に駆けつけた。
「なぜだ! なぜ道真が!」
だが、宇多法王は宮中に入ることを許されなかった。
「なぜだめなのか!」
「ここより先は、上皇であろうと神であろうと、帝の認めた者しか立ち入ることができません!」
宇多法皇は思い出した。
かつて陽成上皇に同じことを言って突き放したことを。
入り口に立ちはだかった藤原菅根は道真によって取り立てられて蔵人頭になっている。その藤原菅根が宇多法皇の前に立ちはだかっていることに宇多法皇は困惑を見せた。
「この恩知らずが!」
「どのように仰られても、こればかりはなりませぬ。私を罵倒して気が済むなら心行くまで罵倒ください。」
「くっ……」
その宇多法皇の困惑に対処したのは、宇多法皇の駆け寄りを知った時平であった。
時平は走って宇多法皇の元へとやってきた。
「時平、貴様何をしたのかわかっておるのか。」
宇多法皇は時平の胸ぐらを掴んだ。
藤原菅根が間に割って入らなければ暴力沙汰になるところであった。
「法皇様こそわかっていただけないのですか! 道真殿がどのような思いで大宰府に赴くか。」
「赴くだ? これでは追放ではないか!」
時平から引き離されたものの、宇多法皇は思いつくまま時平を罵倒し続けた。
時平は涙を浮かべていた。
「あなたは、あなたという人は、どこまで逃げ回れば気が済むのですか……、外国から攻められ、何もできずにいた法皇様に代わり、この国を守ったのはどなたであったか。いま、いつ攻め込まれるかわからない今、道真殿がどのような決意で大宰府に赴くか……」
それを聞いた宇多法皇は、何も言わずその場に立ち尽くした。
「道真殿は命を懸けるのです。この国を守るために。ところが、その国にいるのが、他人を貶していれば偉い気持ちになれる人たちと、そして、逃げ回っているあなたと……。道真殿が守ろうとしているのがこんな人たちだなんて、道真殿が不憫すぎます……」
道真の大宰府行きを聞いた清行は、右大臣辞任という願いを叶えたにも関わらず、怒り心頭に達していた。
清行とて無能ではない。
道真が右大臣を辞任する代わりに得たものに怒ったのである。
大宰権師。
大宰府のトップは本来大宰師であり、その地位は中納言、下手をすれば大納言に匹敵する、かなりの高位である。
ところが、道真が就任したのは大宰権師。単なる大宰師ではなく、「権」の字が加わっている。
これは、本来ならもっと地位の高い人間なのだが、あえてその地位の職務に就くということを示す。つまり、ただでさえ大納言に匹敵する職務である大宰師のさらに上となる。
大納言より上の職務は右大臣と左大臣しかない。
何のことはない。
右大臣を辞職しながら、右大臣の権威は手放さずに大宰府のトップに就いたということである。
それを知ったから清行は怒ったのである。
清行の願いは道真の失脚であったのに、失脚どころか出世と考えられなくもない栄誉の獲得であった。
この頃から清行は醍醐天皇に働きかけを行うことが多くなった。文章博士として醍醐天皇に学問を教えるという立場を利用してである。
もっともこれは道真が大宰府に行くこととなったからという理由もある。それまでは道真が醍醐天皇の教師役であったのだが、九州へ行くとなるとそれは続けられない。
その後任に清行が就いたのである。
時平はそれに反対したが、道真の学者としての経歴を踏襲しているのは清行一人しかいないという実状を目の当たりにしてはどうにもならなかった。
清行は学問を教える場でさかんに道真の九州行きは左遷であり追放であることを宣言するよう醍醐天皇に迫ったが、時平はそれに最後まで反発した。
そこで、清行は公文書改竄まで実行した。
道真は帝位纂奪の企みを抱いたため追放することとしたという布告である。
時平は即時にこれを否定。道真の大宰権師就任は本人の意思であり、同時に、海外との戦争を未然に防ぐための国家的戦略であるとした。
ところが、世間は道真が追放されたと思いこんでしまったのである。
そしてそれは、藤原氏が勢力を広げるのに道真が障害となったから、藤原時平が菅原道真を追放したというようにイメージされてしまった。
そして、道真は悲劇のヒーローと見られるようになった。
清行の野望は、半分は達成され、半分は失敗した。
道真が追放されたというイメージの構築には成功したが、悪が倒されたというイメージの構築には失敗したのである。
そして、反発を隠せずにいる時平と清行が、世間の噂の中ではヒーロー道真を追放した悪の首領とその幹部という役割にさせられたのである。
道真が大宰府に向かったのは二月一日。その当時はまだ噂が誕生していない。
しかし、道真が大宰府に着いたときにはもう、その噂が九州にまで飛んでいた。
キャリアの一歩であると同時に、南方からの侵略に対処するためとして土佐に渡った、道真の息子の菅原高視は、父と一緒に追放されたと噂された。実際、大宰府では道真だけではなく高視の来訪に向けた準備をしていたほどである。
また、日本海沿岸の警備強化のため出雲権守に就任した源善は、道真の一派だったから出雲へ追放されたと噂された。
だが、道真はそうした噂に左右されることなく自らの使命を果たし続けた。
新羅や唐に使者や商人を派遣し、現地の様子を調べさせた。
渤海との交流も一手に引き受け、関係が途絶えないようにした。
大宰府のトップなのだから大宰府のすぐ近くに邸宅を建てても誰も文句は言わなかったであろうに、道真は雨漏りのする既設の宿舎に寝泊まりした。道真が新たに用意させたのは、弓道のための的ぐらいなものである。大宰府の武士達は、自分たちよりも弓矢に長けた道真の腕前に感心した。
食べるものも用意された物を食すのみで、それまでの大宰師なら間違いなく用意させた九州ならではの山海の珍味とは無縁であった。
都との連絡は欠かさず、醍醐天皇や時平との手紙のやりとりはほぼ毎日行なわれた。そこには九州の地でつかんだ最新の情報が常に記されていた。
都から離れたために手に入れられない書物は、陽成上皇に頼んで送ってもらっていた。だが、何よりも楽しみであった読書の時間を削って政務にあたるため、読まずにいる本がたまる一方になった。
ただ、道真から宇多法皇に宛てられた手紙は一通もなかった。宇多法皇も大宰府に渡った道真とは連絡を取ろうとしなくなった。
大宰府につとめる役人達は昼も夜もなく働き続け、ほんの少し休みがあれば、戦うために弓矢を扱って自身を鍛える道真を信頼するようになっていた。ついこの間まで右大臣として都の中心にいた人物が、自らの意志で大宰府にやってきて、それまでは自分たちが誰からも評価されずにやってきた他国との交流を率先してやっていること、そして、それまでのトップと違って、自分自身が前線に立つ覚悟を絶やさずにいることに感激した。
道真の居なくなった都では、左大臣時平が中心となった政権が確立された。
それまでにも政治に力を及ぼしたことはあるが、オフィシャルな権力を手にしての執政はこれが始めてである。
時平が最初に行なったこと、それは、奴隷解放宣言である。
律令には奴婢という存在が規定されている。つまり、奴隷である。
時平はその規定を廃止した。その代わりに、一般人と同じ義務を課し、同じ権利を与えたのである。
これは画期的なことであった。
なぜ時平が奴隷解放宣言をしたのかははっきりとはわからない。
奴婢に対しては少しの税しか課されないため、税収を増やす手段として奴婢にも同じ義務を課したのではないかという考えもある。それはそれで納得感がある。
また、これでは商売にならないと奴隷商人は猛反発したのを受け、時平はそうした奴隷商人を遠慮せずに逮捕しただけでなく、財産没収まで行なっている。これは国家財政を少しは潤している。
つまり、奴隷解放宣言は、徹頭徹尾、財政再建のための収入アップのための手段とも考えられる。
だが、もっと崇高な理由なのではないかとも思う。
若かりし頃の時平が、都や、都周辺の村々を巡ったことを忘れてはいけない。そして、そこで現状を目の当たりにしたことは容易に推測できる。
そのときに思い浮かべたアイデアが奴隷制の否定ではなかったのであろうか。
どんなに堪え忍んでも未来に希望がないことの空しさ。
ただ生まれが不幸であったと言うだけで未来を奪われることの理不尽さ。
時平は奴隷制度を亡くしたが、かつて奴婢と呼ばれていた人たちに特権を与えてはいない。あくまでも、一般人と同じに扱うと言うだけである。
奴隷制を亡くしたところで、ついこの間まで差別されていた人がこれからは差別されなくなるということはない。しかし、法の上での差別はなくなった。後は自分の力次第である。これは、完璧ではないにせよ、機会の平等であり、希望の創造である。
次に時平が手をつけたのは、自身も大量に所有している荘園問題である。
これを整理させると発表した。
まず、税は土地所有者に対して課せられることが確認された。これは貴族であろうと例外ではなかった。実際、時平は自分の所有する荘園の大きさに応じた税を払っている。左大臣でさえ払ったという事実を目の当たりにしては、それより格下の貴族も払わざるを得ない。
ただし、課税対象外の存在はある。皇族と寺社である。
だが、それに対しても時平は動いた。
皇族と寺社は課税対象外であることが確認されたが、内膳司(律令で定められた皇室や寺社の日々の暮らしを司るところ。転じて、最低限の暮らしの基盤)の所有地以外の土地(これを御厨と言う)を全て没収すると宣言し、それは実行に移された。
また、皇族や貴族がその権力を利用して新たな土地開発を行なうことと、地方豪族や有力農民が自分の所有する土地を貴族や寺社に寄付することが禁止され、違反者は厳罰に処されることとなった。これは逮捕された奴隷商人の処遇という前例が役に立った。
さらに、田畑以外の土地、山林や河川の占有を禁止した。これも違反者には厳罰が待ちかまえていた。
これはあくまでも荘園の整理であり、荘園制度を否定するものではない。
しかし、二択を迫ったのである。税を払うか土地を手放すかという。
貴族に対しては、新たに荘園を獲得することが禁止されたのであり、土地に応じた税を払うという条件で、現時点の荘園が田畑であれば所有は認められ、田畑以外の土地を手放せば罪は問われないとした。
一方、皇族や寺社の荘園所有は禁止された。皇族は国費で養われるべき存在であり、寺社も法で認められた範囲の土地しか所有できなくなったのである。
現在の日本では宗教法人に対し税をかけられてはいないが、時平はここに手をつけたということになる。あくまでも非課税という建前でありながら。
これでは怒りを買わないほうがどうかしている。
しかし、時平はその怒りを無視した。まともに対することもせず、型どおりに納税をせまり、逆らう者は遠慮せず取り締まった。
荘園整理令のターゲットは例外なく有力者である。有力者でない者は自分たちには関係ないこととしてこの騒動を楽しんでいたが、有力者はそうはいかない。ありとあらゆる手段を利用して時平に抵抗した。
よく使われたのが迷信である。
ついこの間まで逆賊と呼ばれていた道真を評価し、その道真を追放したとして時平に天罰が下ると脅しをかけた。
だが、時平はそれを笑い飛ばした。天罰が下るならとっくに死んでいなければならないのに自分はまだ生きていると言って。
迷信に近い抵抗に呪いがあった。
土地を奪われた寺社は時平への呪いをかけた。ときには数百人が集まって一斉に呪詛を唱えるという、傍目には不気味きわまりない光景があちこちで展開された。
だが、これも、東大寺俗別当という時平の地位が有効に働いた。抵抗する寺社に平然と圧力をかけ、ときには出家を一切停止するという強硬手段に打って出た。
時平は次第に宮中で孤立していったが、時平はそれを楽しんでいるかのようであった。父もそうだったのだという思いが、現在の自分の状況に対する心の支えになったのであろう。
日々届く大宰府の道真からの報告は、ときには楽観を、またあるときには危機を抱かせるものであった。
新羅の勢力は日々衰退し、百済だけではなく、高句麗も復活した。
唐はもはや名目にしかすぎぬ存在となり、各地の豪族が血で血を争う内乱状態に突入した。
渤海の衰退はこの二カ国ほどではなかったが、全盛期の勢いは乏しく、北方や西方からの侵略を受けている。
しかし、こうした国々からの亡命者は日本にやってきてはいるものの、武装はしておらず、現在のところ戦闘状態とはなっていない。
九州から山陰にかけての警備は向上しており、その財政基盤は時平の改革によって得られるようになったため、現在のところは問題となっていない。
対外関係は大宰府の道真が主導しているため、対外問題については時平が頭を悩ますことはなく、大宰府のサポートを続けていれば良かった。
ところが、こうした安心を突如乱す報告が大宰府から届いたのである。
道真倒れる。
全く想像していない事態であり、時平はどうすればよいかわからなくなった。
外交を道真に任せているからこそ時平は国内問題に専念できるのである。
その道真の命が危ういということは、単に親しい人がいなくなるというだけでは済まない、国政の危機なのである。
時平は直ちに都中の医師を集め大宰府に派遣するよう計画したが、その間にも大宰府から届く知らせは悪化する一方であった。
食事をとることもままならなくなっている。
死を悟ったのが遺言をしたためた。
意識不明になった。
そして、
延喜三(九〇三)年二月二五日、菅原道真、死去。
その知らせを聞いた時平は自宅に閉じこもり、一晩中泣き続けた。
だが、時平は国政を統べる者としていつまでも泣き崩れているわけにはいかなかった。
直ちに大宰府に使者を派遣し、道真の外交の継続を指令する。
だが、大宰府からの返事はNo。
道真の外交は道真だから可能だったのであり、残された者だけでは不可能だという理由である。ただし、沿岸警備は可能であり、対馬以南の防衛に支障はないとも伝えた。
時平はその後、出雲の源善に命じ、可能な限りの軍船を日本海沿岸に配備するよう伝える。
指令は直ちに実行され、山陰から玄界灘にかけての海域に日本の軍船が集結することとなった。
道真の死を知った新羅は直ちに日本への略奪行を計画したが、復活した百済や高句麗との戦乱に加え、日本海での日本軍の配備を知り、日本への攻撃を断念した。
これにより対外危機は一段落ついた。
だが、これは兵士達に常の緊張を強いるものである。遅かれ早かれ破綻すると見た時平は、新たな新羅包囲網を模索する。
復活した百済と高句麗との接触である。
商人に扮した大宰府の役人の往来が始まった。
状況は良くも悪くもなかった。
少なくとも、日本に攻撃を仕掛ける可能性は見られなかったが、それは新羅と争っているからであり、朝鮮半島の平定が終わっても対日関係が平和だという保証はどこにもなかった。
やはり道真がいないというのは外交に大きなマイナスとなる。清行のように漢籍を読める者はいるが、道真のように意志疎通が自由自在という者がいない。
時平は、一寸先は闇という国際関係の中ではよくやったとするしかない。だが、道真にはかなわない。
結果は、一応の平和である。ただし、それは緊張感の立ちこめる平和であった。
時平は緊張の綱渡りを強いられていた。
しかも、味方のほとんどいない状況である。
孤独を楽しむなどもうできなくなっていた。やはり時平は道真を頼りにしていたのであり、いざとなったら道真が復帰してくれるという思いがあったから孤独を楽しめたのであるが、その道真はもう居ない。
誰からも評価されず、しかし、結果は出し続けなければならない。
耐えても耐えても尽きることのないプレッシャーとストレスが時平を襲った。
ただ一人、時平の支えとなれたのが陽成上皇である。だが、二〇年近いつきあいの陽成上皇でもこのときの時平の全てを受け止めることはできなかった。
「本来なら少しは休めと言いたいが、すまない、今のこの国は時平だけが支えなのだ。」
二十歳を過ぎてからの陽成上皇はこの時代の日本が必要とした人材そのものであった。
情報を集め、分析し、助言する。一時の感情に流されるのではなく、また、権威や権勢に流されるのでもなく、第三者の立場での判断は正しいものだった。そこには行動という要素がないが、行動はしたくてもできなかったという立場であり、仮に行動できるとしたらかなりの成果を上げたのではないかと思われる。
しかし、上皇であるというその一点が陽成上皇の動きを阻んだ。
結局、陽成上皇にできたのは、時平という無二の親友の相談役を買って出ることだけであった。時平の為した行動には時平自身の才能もあったが、陽成上皇の意向を受けてのものも決して少なくなかった。
その結果が好転である。
景気も良くなり、平和も実現した。
貧しさに苦しむ人はいるが、その人達に希望を与えることはできた。
ただ、それと時平の評判とは反比例した。
一度築かれた悪のイメージは払拭できなかった。
そこに訪れた道真の死。
時平は自分の代わりがいないと考えたのではなかろうか。
世間からのバッシングに耐えながらも日々を送ることができたのは、時平にこの責任感があったからとしか思えない。
だが、それは時平の命をむしばむものであった。
そのアイデアはそれを見かねた陽成上皇のサポートであった。
これといった趣味もなく、日々政務に埋没している時平にせめてもの安らぎにでもなればと、自分が愉しみとしている和歌の世界に時平を導いた。
和歌の世界は道真との思い出の世界でもあり、時平は陽成上皇の心遣いに感謝した。
ただ、時平は詩歌に深い造詣を示したことがない。詠めなければ貴族失格と思われるところがあったので詠んで詠めないことはなかったが、陽成上皇のように風流の世界を愉しみとするほどのめり込むことはなかった。
時平は道真が途中まで編纂した「新撰万葉集」のことを忘れてはいなかった。何とか完成させようと考えたのだが、編纂を進めれば進めるほど和歌が次々に出てくる。
そこで、時平は考えた。史上初の国家事業としての和歌集編纂をするべきではないかと。これまで、国家事業として漢詩集を編纂したことはあった。しかし、和歌集が国家事業として編纂されたことはなかった。国家事業に近い和歌集としては万葉集があったが、厳密には国家事業ではない。
時平は、著名な四名の歌人、紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒の四名に、全く新しい和歌集の編集を命じた。四人とも官位は低いが能力は高く、そして、陽成上皇のサロンに出入りすることで陽成上皇や時平に見いだされた才能であることが共通していた。
結局、時平が和歌を愉しむというのは存在せず、和歌を愉しむ人のための事業をするということに興味が向かったのである。
延喜五(九〇五)年四月一八日、「古今和歌集」成立。
これはただちに当時のベストセラーとり、古今和歌集に載った和歌を暗唱できるかどうかが貴族のたしなみとなった。
もっとも、編纂を命じた時平本人は、本としての古今和歌集を読んだものの、暗唱するほどのめり込むことはなかった。
古今和歌集が話題になっている最中、時平は律令の改定を計画した。
格式の制定である。
「格」とは律令の補足をまとめたものであり、「式」とは律令の詳細を定めたものである。というと、時平が律令を尊重したかのように思われるが、実際にはその逆。律令制定以降に出された命令を整理し、律令と異なる命令があればそちらを正とし、律令のほうを死文化させるのが狙いである。
そして、この事業の総指揮を三善清行、藤原定国、紀長谷雄らに命じた。
特に注目を浴びたのが三善清行である。文句ばかり言って何もしない者の代表と見られていたが、文章編集能力ならあった。
これは時平による抜擢であると同時に、律令を金科玉条とする者への最後の一撃であった。清行自身は学者派と同調してはいても、広相のように律令を後生大事に抱え込む人間ではない。だが、清行の周辺には未だ律令を信奉する者が多くいた。
その中心にいる清行が律令を書き換えるのである。
これは痛手であったが、必要とされる国家事業であると認識されたか、それとも時平の権勢に黙り込んだのか、反対運動は全く現れていない。
もっとも、編纂を命ぜられた方はたまったものではない。
探せば探すほど新しい資料が出てくる。
その中には死文化した資料もあったが、格はともかく式となると些細な資料であっても捨てることは許されなかった。
格については比較的早く編纂が終わったが、それでも完成までに二年を要している。
式にいたっては完成までに二二年を要し、さらに施行までに四〇年を要するという大事業となった。
このとき編纂された「延喜格」は断片でしか残っておらず、それも他の資料の転記だけが頼りである。だが、「延喜式」は完全に残っている。そして、現在の我々が律令について知ることができるのも、この「延喜式」が残っているからである。
その延喜格の成立と同年、海の向こうでは唐が滅亡した。
朝鮮半島では新羅の衰退と、復活した高句麗、百済との三国が鼎立して争い、戦乱が続いていた。戦乱を逃れた者が年間数百人のペースで日本に亡命するのも日常の光景になっていた。
渤海は存続していたが、西方に誕生した契丹による侵略が始まり、日本との外交が細いものになっていった。
戦乱あふれる東アジアにあって、ただ一ヶ国、日本だけが平和を維持していた。
道真が敷き、時平が固めた平和路線が軌道に乗りだしていた。
ただ、その時平の寿命は残りわずかなものになっていた。
「兄上!」
弟の忠平がその知らせを聞いたとき、時平は既に横になっていた。
忠平が真剣に道真の怨霊を心配したかどうかはわからない。
「忠平か。よく来たな。」
時平はそう話すだけでも苦労していることを忠平は悟った。
そして、兄の命が間もなく尽きることも悟った。
時平の最期は道真の怨霊の噂と混在して確かなものがない。
遺言がどのようなものであったかを伝える資料もあるにはあるが、それも後世の道真の怨霊伝説に脚色されているので本当のところはどうなのかわからない。
ひょっとしたら遺言など何も言わなかったのかも知れない。その証拠に、後継者を明確にしたわけでもなく、政権をどのように為すべきなのかも全く伝えていない。
延喜九(九〇九)年四月四日、左大臣、藤原時平死去。享年三九歳。
この知らせを聞いた陽成上皇は、一ヶ月以上陽成院に閉じこもり、誰とも会わなかった。