第六部 国家存亡の危機
時平は陽成上皇の言葉を道真に伝えた。
それを聞いた道真はしばらく考え、一つの結論を出した。
「遣唐使ですと!」
時平は道真から相談を受けた。
「時平殿も賛成してくれぬか。唐がいかになっているのか、新羅がいかになっているのか、それがわからぬとどうにも動けぬのだ。」
時平は賛成しかねた。
遣唐使の派遣自体は問題ないと感じた。
だが、道真の主張はそれだけではなかった。遣唐大使に自分が就き、自ら唐に渡るというのである。
これは危険すぎた。
今のこの時点で道真以上に遣唐大使にふさわしい人間は居ないというのは紛れもない事実である。しかし、道真は現在の政局において必要不可欠な人材となっているのである。
それは宇多天皇の態度からも読み取れた。宇多天皇は道真を頼りにし、時平を排除しようとしているのである。
実際、寛平五(八九三)年四月二日に、宇多天皇は自分の子の敦仁親王を東宮(=皇太子)に任命している。敦仁親王は藤原氏と何ら血縁関係が無く、基経がそうであったような血縁を利用しての勢力拡張ができなくなる。
このタイミングでの皇位継承確定は対外的な危機を考えれば納得できる。だが、敦仁親王はこのときわずか八歳。何かあったときの対処としては不可解な部分もあった。
無論、宇多天皇は何の考えも無しに、八歳の少年を責任ある地位に就けたわけではない。道真に春宮亮を、時平には春宮大夫を兼任させることで、敦仁親王の地位を保証させたのである。
ちなみに、「とうぐう」という言葉には「東宮」と「春宮」の二つの漢字があてられるが、「東~」のほうは特定個人に関係しない皇位継承者の政治的な地位の名称を差し、「春~」のほうは皇位継承者個人の名称として使用される。つまり、春宮亮や春宮大夫という地位は、敦仁親王個人のサポート役であって、仮に敦仁親王以外の人間が皇位継承者となったら道真や時平はその地位を失うこととなる。
その名称だけでも当時の人は宇多天皇の皇位継承に対する考えを理解した。ただ一人敦仁親王だけが後継者であり、道真も時平も敦仁親王個人に仕える身となったということである。そして、春宮亮と春宮大夫の位の違いで、形の上で子と時平のほうが位は上だが、敦仁親王の第一の側近は道真であるということを宣言したのである。
このタイミングで唐に行きたいと打ち明けた道真の言葉を宇多天皇はしばらく理解できなかった。
理解したのは大宰府から緊急の使者がやってきてからである。
寛平五(八九三)年五月一一日、大宰府は新羅賊の第一報を伝えた。
「『新羅賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る』。以上です!」
時平も道真もとうとうその時が来たかという思いでその一報を聞いたが、宇多天皇は狼狽を隠せなかった。
そして、ここではじめて道真の唐行きを理解したのである。
「ならぬ、ならぬ、ならぬ!」
なぜ駄目なのかの理由はなく、ただ否定する言葉を連ねるだけであった。
「主上! 事態は一刻を争うのです! ただちに対処を!」
時平の言葉も宇多天皇の落ち着きを取り戻すことはなかった。
「とにかく、九州に軍勢を集め、新羅に抵抗することだ。問題は、山陰や北陸に分散して攻撃を仕掛けられた場合だが、今のところその情報は伝わっていない。」
源能有の脳裏には現時点で動員可能な軍勢があった。
結論は、九州に集めるだけなら可能だが、日本海沿岸全体に行き渡らせるのは不可能だということである。
「時平殿、滝口を九州に派遣することは可能ですかな。」
「主上の命令があれば。」
「そんなことは聞いてはおりませぬ。可能かどうかだけを聞いているのです。」
「可能です。」
「ならば許可など気にせず今すぐ派遣なさい。責任問題だと言うなら、私に全責任を押しつけなさい。」
「能有殿、そこまで言わなくとも。」
道真は能有を諫めるように言った。
「事は一刻を争うのです。今出せる軍勢は滝口しか有りません。そして、時平殿は滝口に命令を出せるのです。」
能有のその口調は穏やかではあったが、しかし、力強くもあった。
時平は宇多天皇の許可を受けぬまま、ただちに滝口の武士に九州への出動を命じ、伯父の藤原国経をその指揮官に任命した。
「伯父を九州に行かせたのはあくまでも家庭内のことです。滝口の武士を派遣したのも私の出しゃばりです。私の越権を懲罰なさるなら一刻も早く! 私を九州に追放していただきたい!」
宇多天皇が時平の対処を聞いたのは全てが動き出した後である。時平の確固とした態度に宇多天皇は何もできなかった。
その間も大宰府からの使者は次々と到着していた。
今のところは新羅の軍勢を追い返せてはいるものの、次々と軍勢が押し寄せているためいつ破られるかわからない。
対馬に対する侵略も起こっており、対馬では必死の抵抗が続いているが何とか上陸は防いでいる。
時平の派遣した武士の活躍はめざましく、新羅軍で恐れられる存在となっている。
その指揮を執る藤原国経は老体に鞭打って奮闘しているが、武士達の指揮を完全に執っているわけではなく、所々混乱が見られる。
新羅本国からの正式な使者は到着していない。また、唐からの連絡もない。渤海は新羅に対し抗議しているが、軍勢の集結とまでは行かずにいる。
寛平六(八九四)年四月、新羅軍、対馬上陸。地上戦となり、数多くの死傷者が生じていることを伝える使者が到着した。
「対馬の民の必死の抵抗が続いておりますが、陥落することは時間の問題です。また、壱岐に対する侵略も時間の問題であり、一刻も早い対処が必要です。」
「主上! ご命令を!」
「主上!」
宇多天皇は顔面蒼白のまま狼狽えていた。
「こうなったら自分が九州に向かいます。藤原の財と人を全て動員して。」
「なりませぬ。いかに時平殿が尽力しようと、その程度で撃退できるほど簡単ではございませぬ。それに、そなたは軍事経験を有してはおらぬではないですか。ここは国としてどのような行動をとるかです。主上、ご命令を!」
「た、ただちに、善処を。」
「だからそれはどのようなことですか!」
道真は一喝した。
「私を唐に向かわせてください! 本朝の軍を出さぬというなら、唐を動かし、唐の軍勢を新羅に向かわせます!」
時平も宇多天皇も道真のこの言葉に驚きを見せた。
ただ一人、能有だけは平然としてこの状況を見ていた。
「み、道真を、遣唐使に任ずる。」
「御意。」
その意志を伝えてから一年以上経過して、やっと遣唐使が実現した。
しかし、ここに問題があった。舟がないのである。
国が用意できる舟の全てを対新羅戦に動員しているため、ただちに唐へ派遣するわけにはいかなくなった。
「これで良かったのですかな。」
「完璧です。主上は他者の恫喝を極度に恐れる。基経殿しかり、私しかり、時平殿しかり。その中で道真殿だけが温厚をかこっておりましたが、その道真殿も感情を示したとあれば、主上も動かざるを得ないでしょう。」
「能有殿もお人が悪い。」
「事は一刻を争うのです。主上に動いていただくにはこれしか方法がございません。」
「しかし、時平殿にも一言有っても良かったのではなかったのですか。」
「時平は主上を諫めるのが仕事。その時平ですら驚くという場面が必要なのです。それに、奴にもいい薬になったでしょう。」
「時平殿も諫めるのですか。」
「今回が国家の危機ということは理解しているが、自分が九州に行けばどうにかなると思い上がっている。基経殿と違って、若さが暴走しているようです。まあ、あと十年も経てば変わるでしょうが。」
能有はこのころにはもう宮中第一の権力者になりつつあった。
そして、能有の下に道真と時平が位置し、その他の貴族がさらにその下に位置するという政治体制が確立されていた。
しかし、この三人とも位は高くないのである。
左大臣はあくまで源融であり、右大臣は藤原良世である。本来ならこの二人がトップでなければならないが、そうではなかった。
源能有は正三位で大納言、時平が従三位の中納言、道真に至っては四位の参議であり三位に届いていない。
しかも、大納言は四人、中納言と参議は八人が定員であって、法制上は数多くの臣下の一部に過ぎない。
道真が大使として唐に向かうという知らせはただちに九州に伝わった。
それは、宇多天皇が確固たる意志で新羅の侵略に対抗するというメッセージとして、九州を守る武士達に伝えられた。
その知らせは対馬にも伝えられ、間もなく侵略が終わるという希望をもたらした。
寛平六(八九四)年八月二一日、舟の完成の連絡が朝廷にもたらされる。
道真の邸宅では、道真の唐行きに向けての準備に追われていた。
その邸宅を訪問した時平は、ある覚悟をしていた。これが道真との最後になるのではないかとの思いである。
「唐の国情の乱れ、海原を渡ることの危険、万が一、道真殿に何か起こったらと考えますと、二人目の父を失うと同じ苦痛です。」
「何を大それたことを。今は国家危急のとき、一個人の感情でどうこうなるものではありませぬ。それに、私は時平殿を信頼しているから安心して唐へと向かえるのですよ。」
「それこそ大それた言葉。自分はまだ年若く、道真殿ほどの経験もございません。道真殿の居なくなった宮中でどうすればよいのかなど全く想像できぬのです。やはり、私が唐に向かうべきではなかったのか、そう思うのです。」
「私は唐の言葉を話せます。時平殿は話せませぬ。私と時平殿とどちらかが唐に渡らねばならぬとすれば、その答えは私に決まっております。それは全て、この時代に生まれ、この時代で役を担う者の運命。それで命を失うとしても、私はそれを受け入れます。ですから、時平殿もその運命を受けていただきたい。」
しかし、道真のその決意は中断されることとなる。
九月一九日、大宰府から至急の連絡が届いた。
新羅撤退。
九月五日の朝、対馬守文屋善友が指揮する軍勢が対馬から新羅軍を一掃し、新羅軍船四五艘を追撃し、うち一一艘を拿捕した。
新羅軍の死者、二二〇名。新羅軍大将三名、副将一一名、兵士およそ三〇〇名が捕虜となり、大将のうちの一名は都へと連れて行かれた。
尋問は道真が筆談で行った。
その結果判明したのは以下の通りである。
新羅は不作が続き、民衆の餓死者が頻発している上、内乱による国土の荒廃が激しく、王朝がいつ倒れてもおかしくない状況であること。
それを打開しようにも王朝の財政が厳しい状況であり、この局面を打破するため日本侵攻を計画したが、その目的は日本の領土ではなく、日本のコメや絹の略奪であること。
しかし、抵抗が激しくて略奪もままならず、さらに日本が唐に働きかけを行うとの知らせを聞き、新羅軍の内部に動揺が拡がっていること。
三人の将軍が一〇〇艘の軍船を待機させていていつでも出航できる準備にあるということ。
この知らせを受けた朝廷は、遣唐使派遣の一時中断を宣言する。
理由は、道真の対外折衝能力である。
今のこの段階で道真を失うことは新羅との折衝に対しあまりにも大きな損失である。道真だからこそ尋問可能だったのであり、他の者には不可能であった。
この時点ではあくまでも遣唐使の一時中断であり、廃止ではなかった。
だが、時平は廃止を考えていた。
「遣唐使を廃止せよと申すか。」
「唐への働きかけという圧力を新羅に与えることに成功しました。今は戦乱のあとをどう対処するかという段階であり、道真殿を失った上での対外折衝は非常に困難です。」
「漢語を解する者は数多くおりますが、彼らでは駄目なのですか。」
「はい。」
時平は即答した。
「主上のすぐ側に仕える者が接することが重要なのです。いかに漢語を話されようと、そうではない者はふさわしくありません。」
道真はしばらく考えた。
「一度決めた遣唐使を取りやめるならまだしも、遣唐使そのものを廃止するというのは大それた決断ではないでしょうか。」
「遣唐使は唐に派遣して意味があるからこそ価値があるのです。かつての勢力を見せず、衰退する一方の唐に派遣することに意味がありますでしょうか。」
「これは手厳しいことを。」
「今の我が国は唐を必要としておりません。まず必要なのは国の安全です。」
道真は時平の意見に同調した。
本心からの同調ではなかったが、遣唐使を派遣するわけにはいかないという事情は理解できていたし、そうした理由でもない限り、遣唐使を取りやめることの格好はつかなかった。
寛平六(八九四)年九月三〇日、菅原道真、遣唐使停止を進言。
宇多天皇はその進言を受け入れ、同日、遣唐使の廃止が正式に決定した。
対馬攻略失敗に加え、唐への働きかけを知った新羅は、日本侵略の断念を公表する。
ただし、貞観の韓寇の時とは違い、単に侵略しないと宣言しただけで、謝罪もなければ賠償金もない。つまり、日本に対し正式な外交をとらなかった。
これには新羅側の思惑もあった。
遣唐使を廃止したということは唐との正式な国交を断ったということでもある。
そのため、これを受けた唐が何らかのアクションを日本に対して起こしてもらえるとの判断があった。
だが、時平の考えは正しかった。
唐は日本からの通告に対する遺憾を表明したものの、何ら具体的なアクションは起こさなかったのである。厳密には、起こしたくても起こせなかった。
道真は唐を動かして新羅との局面を打開することを考えていた。しかし、もはや唐にはその能力がなかった。事実上首都とその周辺にしか権力を及ぼすことができず、長安から離れた地域は唐の権力の影響を受けない独立国も同然となっていた。
その代わりに勢力を伸ばしてきたのが、黄巣の乱鎮定に功績を挙げた、朱全忠や李克用といった藩鎮である。
「数多くの藩鎮のうち、天下を取る可能性があるのは李克用と朱全忠の二人。戦乱となると李克用のほうが上ですが、統治となると朱全忠のほうが上のようです。ただ、現時点では両者とも一長一短で、どちらが天下を取るかは未確定です。」
「道真はこの二人と接触を持とうというのだな。」
「はい。ただし、あくまでも私個人の接触であり、主上の名は一切出さぬ接触です。」
「その二人以外が天下を取ったらどうするのだ?」
「私を罷免くださいませ。」
道真はそうした藩鎮との接触を提案した。やがて天下を取るのは彼らのうちの誰かと睨んでのことである。
これは賭であった。
誰が天下を取るかはわからない。
うまく接することのできたのが天下人となれば問題はないが、そうではない人間が相手となると大きな損害をもたらす。
そこで、道真はあくまでも民間人の商用としての接触に留めることを主張した。
「それは道真殿にとって大きな賭でございましょう。」
「誰かがこの賭をせねばならぬのです。唐への渡航の覚悟に比べればどうということありません。」
道真の決意に時平は何も言えなかった。
新羅の侵攻に始まる危機に際し、宇多天皇は全くの無力であった。
自分の知らないところで事が動き、いつの間にか解決している。
国内は時平が、国外は道真が矢面に立ち、その二人の上に源能有が立って指揮をし、自分は事後承諾しか求められない。
これが宇多天皇の評判を形作った。国家の危機に対しても何もせず、狼狽えるばかりの無能な君主という評判である。
屈辱としか言いようがなかったが、反論はできても言い負かすことはできなかった。
一方、新羅の侵攻を食い止めたことによる道真の評価は鰻登りであった。自らの命をかけて動いたことに対する評価である。
宇多天皇はこのとき、退位と、敦仁親王の即位を真剣に考えていたようである。
これを聞いた時平は猛反発を示し、それには道真も同調した。
「国家存亡の最中、国政を投げ出すとはなんたることですか!」
「主上、敦仁親王のお年をお考えくださいませ!」
宇多天皇の脳裏には、退位してなお一定の権威を持ち、時平を通じて一定の権力さえ行使している陽成上皇の存在があった。
あのような立場になれば何と気楽なことかと。
さらに一歩進んで、天皇の義務から自由になれればどれほど便利かと。
これは後の院政と同じアイデアである。
だが、それを道真も時平も批判した。
退位そのものではなく、退位のタイミング、そして後継者の問題である。
いかにサポート役が確立されていようと、対外戦争の危機にある現状で、未だ元服を迎えていない年少の者に天皇の職務を遂行させるのは難しい。
まして、宇多天皇には悪評こそあるものの、健康状態が悪いわけでも、国内に争乱を招いているわけでもない。確かに新羅の侵略はあったが、道真の働きがあったにせよ撃退に成功している。これは退位の理由にはならない。
だが、宇多天皇の真意は退位にあったと思える。
この後の宇多天皇の行動を考えると、早期の退位を狙っていたとしか考えられないのである。
まず、第一の理由として、後継者の権威を確立させるために、新羅撃退の第一の功労者として人気を独占していた道真が、後継者の第一の側近であることをアピールし続けたことが挙げられる。
寛平六(八九四)年一二月一五日、菅原道真、侍従を兼任。
寛平七(八九五)年五月一五日、渤海使来日。菅原道真、渤海客使に就任し饗応の任を果たす。
寛平七(八九五)年一〇月二六日、菅原道真、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
寛平七(八九五)年一一月一三日、菅原道真、春宮権大夫を兼任。
寛平八(八九六)年八月二八日、菅原道真、民部卿を兼任。
寛平九(八九七)年六月一九日、菅原道真、権大納言に転任し、右近衛大将を兼任。
これは、これからは道真の時代とすると宣言しているようなものである。
そして、もう一つの理由。このもう一つの理由のほうが重要であるが、源能有の体調不良の問題があった。
意図していなかったにせよ、自身の第一の側近は源能有である。
ところが、敦仁親王の側近にその源能有を指名していない。
これは敦仁親王の時代にはもう源能有が居なくなっていると宣告しているに等しい。
ここから先は推測でしかないが、能有が居なくなったら自分の帝位も維持できなくなると考えたのではないであろうか。
その状況下でとりうる方策として考えたのが、早いうちに敦仁親王に帝位を譲り、道真を中心とする政権を確立させることだったのではないであろうか。それが政権を安定させる唯一の方策と考えて。
新羅撃退に成功したあたりから、源能有の体調は目に見えて悪化してきた。
健康をそのまま絵にしたような道真と同い年とは思えないほどに衰弱が激しくなり、みるみる痩せていった。
宇多天皇はその源能有に名誉職を与える代わりに実権を奪っていった。
それに対し、能有は何ら不平を述べていない。なぜなら自分の死期を悟ったのではないかと思われるからである。
それまでの時平や道真をこき使うような人間はもう居なかった。
そこにいたのは病床にあって命消える瞬間まで引き継ぎを続ける人間であった。それは自分から何かをするのではなく、誰かに命じて何かをさせようという姿勢である。
まず、寛平七(八九五)年には人事案を宇多天皇に対して提出している。そこに記されているのは名目と実権の乖離を解消する人事案であり、位だけは高いが何もしていない人材を排除する人事案であった。
次に、寛平八(八九六)年には平季長を問民苦使(国民生活を調査し、役人の不正を摘発する職務)に指名し、都周辺の農民の実情を調査させた。そこで郡司の財務状況を調査させ、不正があった郡司を摘発し、時には罷免し、さらには財産没収までした。
この功績が認められ、源能有に右大臣の地位が与えられる。
これに激怒した勢力がある。
激怒の理由は、自分たちから地位を奪い、財産まで奪ったことであるが、それば表だって宣言できない理由である。
その代わりの表向きの理由として、専横があった。
かつての学者派や藤原派といった派閥は勢力を失っていた。その代わりに生じたのが世代間の対立である。
宇多天皇のそばにあって権力を握った若年層と、それに反発する高齢層である。
もっとも、若年層である道真より、高齢層に属する三善清行のほうが年下であるという逆転現象を伴っているので、一概に年齢によって分断することはできない。単に、平均年齢の高いほうがつまはじきにされ、若いほうが重用されているという状況である。
これは宇多天皇にも言い分がある。高齢層にチャンスを与えていないわけではなく、若年層のほうがチャンスを生かしただけのこと。また、事態は対外戦争の危機である。無駄に議論を繰り返すだけの高齢層より、即座に行動に移す若年層のほうが役に立つのは事実であった。
彼らとて道真の決意と行動に感服したことに違いはない。
だが、危機を過ぎた後もなお感服が続くほどお人好しではなかった。
その中の急先鋒となったのが三善清行である。
「このまま能有の専横が続くことが、本朝のためになろうか。」
「否!」
「君側の奸と堕した道真をこのままにして良いのか。」
「否!」
「奴らはいかに処すべきか。」
「打倒せよ!」
彼らの思いはやがて実現することとなる。
寛平九(八九七)年六月八日、源能有死亡。
時平はその知らせを聞き慌てて屋敷に駆け寄った。
ただ、時平が目の前にしたのは遺体となった源能有であり、その横で涙をこらえている道真であった。
この知らせに、専横を怒っていた勢力は喜びを爆発させたが、宇多天皇はそういうわけにはいかなかった。
宇多天皇はこれ以上の猶予などないと判断した。時平の猛反発はあったが、それよりも自分の意志を優先させることにした。
寛平九(八九七)年七月三日、敦仁親王、元服。
時平はそれだけを聞いていた。
元服には若すぎるが、源能有が居なくなった現在、後継者を元服させて体勢を強固にすることはおかしな事ではない。
そのため、皇位継承者の元服ということでの特別な思いはあったが、それ以外は何も変わらぬ一日だと思っていた。
だが、宇多天皇はその席上で、自身が退位し、敦仁親王が次期天皇となることを唐突に宣言した。
「春宮大夫藤原朝臣(=時平)、権大夫菅原朝臣(=道真)、少主未だ長ぜざるの間、一日万機の政奏すべき、請うべきのこと、宣すべし、行ふべし」
しかも、時平と道真を引き続き重用するよう強く敦仁親王に求め、この二名にのみ官奏執奏の特権を許したのである。これが「内覧」の始まりである。
時平は戸惑いを隠せなかった。
これまで誰も受けたことのない特権であることは嬉しくもあるが、退位を宇多天皇が決断したことは混乱である。
自分に相談することなく退位したことは、宇多天皇、いや、もう退位したのだから宇多上皇にとっての自分の存在価値はその程度まで下がったのだということであって、それ自体は驚きでもない。
そのことはもうとっくに理解していた。口うるさい側近を務めてはいるが、それが自分の職務であるし、その権威の出所も亡き父基経の威光であって自分が底辺からはい上がって手にした地位ではない。
つまり、宇多上皇にとっての自分は親の七光りだけを頼りにした目障りな存在なのである。それが人生最大の決断をしようとしているときに頼ることはありえない。あるとすれば、既に自分の中で結論を決めていた相談にyesと答えると明らかなときだけである。
今回はそうではなかった。
天皇退位は決めていた。しかし、時平はそれに猛反対を示していた。
理由は一つ。対外的な危機である。
新羅との関係は軍勢を追い返したというだけで、正式な講和を結んだわけではなく、いつ日本に対する侵略を再開するかわからない。
唐の混乱は年々悪化し、滅亡は時間の問題である。
渤海との関係は良好を築いているものの、渤海もまた衰亡の道を歩んでいることは交易品から見て容易に推測できた。
これまでの新羅を包囲する外交関係は成り立たないと判断してもおかしくはない。
その状況で、いかに元服を迎えていても、年少の天皇で国難を乗り越えられるであろうか。
「逃げた定省を追いかけることもあるまい。それに、奴は新羅の侵略に対し何もしてはおらぬではないか。実際に動いたのは伯父君であり、道真であり、時平であろう。」
「帝はまだ一三歳。心許ないのです。」
「心許ないのは伯父君が居なくなったからではないのか。」
それに対し時平は何も答えなかった。
「時平が一三歳の時にはもう広相の教えを受けていたではないか。時平の歳から見れば年若いかもしれないが、当の本人はそんなこと考えてはいないものだ。」
陽成上皇は新に帝位に就くことになった敦仁親王、いや、これからは天皇となった以上醍醐天皇と呼ぶべき天皇の気持ちがわかった。
自分も何もわからぬまま帝位に就き、何かをしようとして失敗し、帝位を追われた。
ただ、自分が帝位に就いたのは父である清和天皇の死という事情があったのに対し、醍醐天皇は父が存命であるという違いがある。
「帝として定省より優れた才を持っているのなら、これはむしろ願ったり叶ったりではないか。」
醍醐天皇の政権作りは着々と進められた。時平と道真の二名を側近とし、摂政も関白も太政大臣も置かない天皇親政という路線は継承するのが大前提である。
寛平九(八九七)年七月七日、藤原時平、蔵人所別当を兼任。
寛平九(八九七)年七月一三日、醍醐天皇即位。宇多天皇は宇多上皇となる。
同日、菅原道真、正三位に昇叙し、権大納言・右近衛大将如元。
同日、藤原時平、正三位に昇格。
さて、時平と道真の二人を正三位にしたのであるが、貴族のピラミッドで言うとそれは頂点ではない。
頂点は正一位であり、太政大臣を務めるのが習わしである。ただし、これは常設ではなく、臨時の職務という意味合いが強い。
そのため、常設のトップとなると左大臣であり、それに次ぐのが右大臣となる。
ところが、この地位は空席であった。
寛平七(八九五)年八月二五日、左大臣源融死去。左大臣が空位となる。
寛平八(八九六)年、藤原良世が左大臣に任命されるが、同日、高齢を理由に辞退。
結果、左大臣が誰もいないという状態となる。
左大臣が空席の場合は右大臣がトップと言うことになるが、その右大臣も源能有の死により空席となっていた。
つまり、左右大臣が空席という異常事態が放置されていたのである。
さて、新天皇の即位には人事刷新がつきものである。しかも、側近とされた時平や道真の地位は未だ三位であり、それより高位の者はいる。
つまり、大臣になるチャンスと彼らは見たのである。
だが、それはなかった。
いつまで経っても大臣は空席のまま、何ら新しい人事が出てこない。
彼らはついにしびれを切らした。
「奸臣基経は政務を拒否し、おそれおおくも帝を恫喝することで地位を築いた。今度は我々が奴ら奸臣どもにしでかしてやるのです!」
「おおーっ!」
寛平九(八九七)年八月、権大納言源光、中納言藤原国経、中納言藤原高藤の三名が政務をボイコットすると宣言。年齢は順に、五三歳、七〇歳、六三歳と高齢である。
ボイコットの嵐はさらに下級貴族にもおよび、ピーク時には総員の三分の一が欠勤するという有様となった。
世間は彼らの行動を支持しなかった。基経の猿真似と笑ったのである。
政務ボイコットは迷惑ではあったが、国政に支障を与えることはなかった。
だが、新羅からもたらされた一つの知らせは国政に支障を与えるに等しかった。
「甄萱が、武珍州(現在の光州)、完山州(現在の全州)を完全に制圧したようです。新羅の南西部はもはや新羅の統治の及ばぬ地域となったようで、場合によっては、新羅という国家が真二つに分かれかねません。」
「百済の復活は間近ですか。」
「復活なだけならまだいいですが、両国が戦乱となって、戦乱を逃れた民衆が日本にやってくることはあり得ます。それがただの避難民ならまだ良いのですが、四年前のように軍勢となると、本朝創始以来最大の被災となるおそれがあります。」
「そうですか。」
「それともう一つよろしくない知らせが。」
「とおっしゃいますと。」
「一方で、唐の様子は全く伝わってこない有様。朱全忠と李克用との争いは朱全忠が優勢なようですがいずれの勢力も朱全忠と李克用という個人の能力に立脚している。つまり、この二人の命に何かあるとすればその瞬間に軍勢は瓦解します。極端なことを言えば一度の暗殺で全てが反転するということです。」
「もしそれが実現したらどうなりますか。」
「残党狩りでしょう。それを逃れるために舟に乗って日本にやってくることもあり得ます。もし、この二つが同時に起こったら、この国は……」
道真はその後の言葉を濁した。
「では、いかにすればよろしいのでしょうか。」
「大宰府に権力を集めることです。大宰府から都まで早くても十日、そして都からの指令が届くのにもやはり十日。往復二十日の時間を節約できるかどうかは国家の命運を左右するでしょう。その節約に成功し、大宰府独自の軍事力を作り出せば素早い対処が可能です。そうすればとりあえず九州で軍勢を抑えることはできる。あとは、その知らせを受けた都の指揮する軍勢が第二陣として渡り合うことができれば勝機はあります。可能なら、私が大宰府に行くのが最良でしょうが。」
「道真殿がですか?」
「私は唐の言葉を話せます。新羅の者とも筆で会話できます。それに、こう言うと自尊になりますが、どうやら私は新羅追討を成功させた武人と見られているようです。その人間が大宰府に降り立ったとなれば、与える影響は軽くはないはずです。」
それは何か覚悟を決めたかのような表情であった。
「時に、定省はどうした?」
「帝位を退いても影響力を持とうと、さかんに道真殿と接触しようとしているようですが、どうやら国内の危機という認識に欠けているようです。」
「天皇でなくなればという幻影に惑わされたようだな。上皇になることと、自分の空想の実現とが一致するわけではないと悟ってくれればいいのだが。」
上皇になった宇多上皇は陽成上皇と違った。
陽成上皇のように影響力を与える要素を持ち合わせていなかった。
宇多上皇は当初、道真を通じて影響力を行使できると考えていたようであるが、道真の前に立ちはだかっている現実、すなわち、緊張を漂わせる対外関係という現実の前には無力であった。
宇多上皇は次第に政務に対する意欲を失っていった。
その代わりに意欲を見せるようになったのが心の世界、すなわち、宗教である。
宇多上皇は亡き父光孝天皇が建立を命じ、仁和四(八八八)年に完成した仁和寺に足を運ぶことが多くなった。
「政から離れ、仏門に専念するということか。」
「事はそう簡単に運ぶでしょうか。」
「何か気になるところでもあるのか?」
「寺院の勢力を身につけようとしているのではないでしょうか。寺院の財を全て集めれば藤原を凌駕します。」
「それを望むなら東大寺か延暦寺だろう。いかに自身の父の造営とはいえ、野望のために無名の新興寺院に身を寄せるのは納得がいかない。」
時平はこのとき漠然とした不安を抱いていた。
寺院の財力への不安をタイトルに掲げて陽成上皇に打ち明けたが、そうではないもっと違った不安である。
ただ、言葉にするのはうまくいかず、そのため、漠然とした不安ということは伝えられても、その内容は陽成上皇に伝えられずにいた。