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第五部 寛平の治

 そのときは年をまたいで訪れた。


 寛平三(八九一)年一月一三日、藤原基経もとつね、死去。


 時平はそのとき、泣き崩れる二人の弟を精一杯はげまそうとしたが、自分の涙に打ち勝つことはできなかった。

 基経もとつねの死の知らせは直ちに都中に広まった。

 宇多天皇はその知らせを受けて笑みを浮かべたが、直ちにそれを取り消さざるを得なくなった。

 基経もとつねが居なくなったという知らせの瞬間、都が蒼然としだしたのである。

 都に住む者はこれまでに二度、基経もとつねの居なくなったときのことを経験していた。一度目は基経もとつねの復帰で静まった。二度目は能有よしありや時平の尽力で収まったが、その背後に基経もとつねが居ることは誰もが知っていた。

 だが、三度目はもう基経もとつねが居ないのである。

 店頭から再び商品が消え失せ、物価上昇が瞬く間に始まった。

 そして、都の者は藤原家の邸宅前に集まりだした。

 ある者は嘆き悲しみ、ある者は死を信じず、またある者は時平に直ちに基経もとつねと同じ動きをするよう頼み込んだ。

 これを受けた宇多天皇は数日の間があいたものの声明を出した。

 基経もとつねの政務を継続するという声明である。

 誰が、どのように、基経もとつねの役割を引き受けるのかという事項は全く記されていなかったが、とにかくそれで都の混乱は収まった。

 しかし、これに対する混乱が宮中で起こるのである。

 「|先の大臣(さきのおとど:基経もとつねのこと)の政務を誰が引き受けるというのか。」

 言葉はそうであったが、本音はそうではなかった。

 基経もとつねの権力は引き受けたいが、基経もとつねの実務からは逃れたい。これは一部を除く貴族の共通認識となった。


 その除かれる一部の一人が道真である。

 「父君を失う悲しさは朕も体験している。しかし、時平はその悲しみも見せんと、宮中に日参しておる。喪に服したところでだれも文句は言わぬというのに。」

 「父を失う悲しみは私も体験しております。そして、政務にいそしむことで自分を忙しくし、悲しみから多少なりとも逃れることも。今の時平殿はまさにその状態です。しかも、都の者は時平殿が先の大臣さきのおとどのあとを継ぐことを願っており、それをしなければ都に争乱も起きます。」

 「争乱とは物騒だな。」

 「主上、これは笑い事にはございませぬ。都の者は先の大臣さきのおとどの居なくなったという現実を受け入れられぬのです。それを受け入れることがすなわち自分たちの暮らしに関わることだからこそ。」

 「わかっておる。だからこそ基経もとつねの政務は継続すると表したのだ。」

 「では、誰が如何にして、先の大臣さきのおとどの役を引き受けさせるのですか。」

 「朕に決まっておろう。」

 道真はこのとき確信した。

 宇多天皇は基経もとつねの政務の継承など全く考えていないことを。

 それどころか、自らをトップに据えた独裁政権の構築を狙っていると。

 「都の者が時平を望んでいる以上、時平を拒絶することはできぬ。しかし、時平に基経もとつねの特権を与えることはならん。もはや関白などいらぬのだ。」


 基経もとつねの死は単なる一臣下の死であるというのは建前に過ぎず、実際には新天皇即位に似た人事刷新が必要であった。単純に言えば、基経もとつねの役割を担う人物の指名、ないし、役割を担う機関の創設が必要であった。

 これまでは基経もとつねの影響で充分にふるえなかったが、人事権は宇多天皇にある。しかし、公約として明示した基経もとつねの政務の継承を破ることはしなかった。言葉の信義を重んじたからと言うよりも、それによって起こる混乱を危惧してのものである。

 その結果、関白と太政大臣の二つのポジションが無人になり、それ以下の左右大臣や大納言・中納言といった役職は、空席を埋める以外現状維持となった。

 左大臣は源とおるが継続して就任。

 源まさるの死によって空席となっていた右大臣には藤原良世よしよが就任。この藤原良世よしよは時平の伯父にあたる。

 だが、このふたつのポジションは事実上名誉職と化していた。

 世間はそれを見て、現在の政務の継続を確認した。

 宇多天皇が手をつけたのはその下のポジションに人を配置することによる、自身に権力の集中する仕組みの構築である。

 寛平三(八九一)年二月二九日、菅原道真、蔵人頭就任。

 三月九日、菅原道真、式部少輔兼任。

 三月一九日、藤原時平、参議就任。

 四月一一日、菅原道真、左中弁を兼任。

 同日、藤原時平、右衛門督を兼任。

 その結果、一ヶ月半の間に道真と時平に様々な権力が与えられた。もっとも、時平に関しては、本人の功績よりも、基経もとつねの継承をイメージ付けさせるためであると言える。

 逆に目を引いたのは道真の蔵人頭就任である。

 時平の時にふれたが、この職は若い者が就くのが慣例である。四位である道真は位的にはおかしなことはなかったが、宇多天皇とは親子ほどの年齢の開きがある道真の就任は注目を浴びずにいられなかった。

 しかし、宇多天皇の立場に立ってみれば道真を選ぶことが最良の選択なのである。

 基経もとつねの影響からの脱却を望んでいた宇多天皇はついにその希望を果たした。そして、念願だった親政の開始。

 だが、現実問題、天皇という職務に伴う雑多な事務作業を誰がやるのかという問題がある。基経もとつねはそれを自分でやっていた。それが関白という職種だからだが、宇多天皇はそうした雑務に対する意識が乏しい。もっとも、それは必要なことであるとは理解しているので、誰かがやらなければならないという意識はある。ただ、その誰かというのが自分ではないのである。

 では、誰が。

 宇多天皇の答えが道真であった。

 讃岐国司の時に見せた高い事務処理能力を買ったのと、時平と違って出しゃばらないことがその理由である。そこで言う時平の出しゃばりというのはあくまでも緊急事態だったからだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるは人類普遍の法則。宇多天皇は、やはり時平は基経もとつねの息子なのだと考えていた。

 しかし、宇多天皇がどのように感じようと、時平はこのとき一心不乱に働いていた。

 父を亡くした悲しさから逃れるためもあるが、一番の理由は宇多天皇の後始末である。


 改革を自負する人によく見られるのがその場の思いつきである。

 じっくりと考えた結果ではないから、それをしたらどのような結果が待っているかという考えがない。その代わり、言い出した本人はそれでいい結果が待っていると思っている。

 これを止めるのが時平の役目であった。

 あるときは理詰めで説得し、あるときはボイコットを示唆して宇多天皇の動きを止めた。

 要するに口うるさい家老役を引き受けたのである。

 これ自体は基経もとつねがやっていたことでもある。

 宇多天皇にしてみれば口うるさい大臣が亡くなり、これでやっと自分の思い通りになると思った矢先に、その口うるさい大臣の子供があれこれと言い出してきたといったところか。

 ただ、基経もとつねには関白太政大臣というかなり強力な肩書きがある上、年長者としての経験と威厳があったが、時平にはその両方がなかった。

 宇多天皇より年下で、肩書きもそう高いものではない。その時平が使うことができたのは、陽成院で学んだ書から得た知識、そして道真の協力であった。


 陽成院が和歌や漢詩を通じて道真と接するようになったこと、そして、それが新撰万葉集を生み出したことは先に述べた。

 元祖の万葉集でもそうだが、こうした歌集に編集者の作った歌がたくさん載ることは珍しくない。事実、元祖の万葉集では編者である大伴家持おおとものやかもちの歌が、長歌・短歌など合計四七三首載っている。

 それは大伴家持の名声を後世に残すのに役に立った。

 これに危機感を抱いたのが宇多天皇である。

 いくら道真が中心であるとはいえ、時平や陽成院の協力なくして新撰万葉集は誕生しない。

 これが大きく取り上げられると困るのである。

 特に自身に対する評価の結実という点で大問題となる。

 自分が天皇であることの理由は父の地位を引き継いだということであり、これだけなら問題はない。

 だが、一度は源姓を名乗り、皇族から離れていたという過去は否応無く問題として直面する。

 そして、こう結論づけられる。これだけ優れた文化事業を残した陽成天皇が帝位を追われ、正当性の劣る宇多天皇がなぜ天皇になれたのか、と。

 陽成天皇はその失政が原因となって退位したのは事実である。

 しかし、このままではその失政よりも文化事業に名を残した英明な上皇として名が残ることとなってしまう。

 しかも自分より二歳若く、皇位の正当性で行けば自分よりも優れている。

 宇多天皇は考えた。

 いかにして陽成院の気配を文書から消すか。

 何しろ相手は個人のブログではない。道真個人となってはいても、国が編纂する正式な書物なのである。そこで陽成上皇が出てくるとなると、国として、陽成上皇の存在を強力に認めてしまうことになる。

 だが、新撰万葉集の編纂開始はすでに周知の事実。しかも、第一巻が上梓されている。

 幸いにして陽成院の歌はわずか一首載るのみであったが、第二巻以後大量に載ることは想像できた。


 寛平四(八九二)年五月一日、宇多天皇は、道真と時平、そして、源能有よしあり、大蔵善行、三統理平の三名の、計五名を招いた。

 いつもの思いつきかと思ったが、それにしては人が多い。

 用心して聞いてみると、新しい歴史書を作るというのである。

 「清和帝、陽成帝、そして、父光孝帝の三代、この三〇年間を扱う歴史書を作る。」

 これまで、国が正式な歴史書として編纂し、対外的に公開したのは五冊。日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録の五冊である。そのほかに古事記があるが、あれは国内向けの歴史書であり、国の認めた正式な歴史書という位置づけではない。

 「日本文徳天皇実録の後を継ぐ歴史書の編纂にございますか。」

 「そうだ。」

 誰も異論はなかった。

 しかし、時平は宇多天皇のこの目論見を見抜いていた。


 「朕を歴史から抹殺するか。」

 「はい。」

 陽成院を訪ねた時平から聞かされたのは、自分という存在を宇多天皇が消そうとしているということだった。

 その中でも源能有よしありの存在が厄介であった。

 基経もとつねの信頼を受けた能有よしありは無能ではない。政治的にも基経もとつねに近いものがある。ボイコット時の協力で能有よしありのことをよくわかっている。味方としてはかなり頼りになる人材であるし、基経もとつねも時平の後ろ盾に考えたほどである。

 だが、今の能有よしあり自身には後ろ盾がないのである。

 母の身分の低さから皇族から降ろされ、出世は諦めていたが、基経もとつねに認められ臣下として順調に出世階段を歩んできた。そして、さあこれからというときに基経もとつねが亡くなり後ろ盾を無くす。

 そこに降って湧いた宇多天皇からの勅命。これを源能有よしありが逃すはずがなく、宇多天皇の望むとおりの史書編纂に当たるのは容易に推測できた。

 「国の定める歴史と言えば聞こえはよいが、定省にとって都合の良い歴史を作ると言うことか。」

 「何とかして自身の帝位の正当性を確保したいのでしょう。」

 「それに、定省は朕が目障りなのだな。」

 「……、はい。」

 「まあ良い。定省がどのような書を作ろうと、朕はそれに対しとやかく言うことはできん。それが誤りに満ちた内容であろうと。」

 「しかし、気になることがございます。」

 「何だ?」

 「道真殿にございます。そのような歴史書を作れと命じられ、今は学者としての誇りと、宮中に仕える者としての義務感とに板挟みになっております。」

 「間違いは書きたくないが、それを書くのが仕事となった、というところか。」

 「国の定める文の作成を誰に任せるかとなれば、私も道真殿を選びます。あれだけの文を記せる者は他におりません。」

 「それが余計に道真を苦しめるのだな。ならばその苦しみ、定省にも体験して貰うか。」

 陽成上皇はこのあと、新しい歴史書の編纂に全面協力すると発表した。陽成院で所有している資料の貸し出しを認め、そればかりか、編纂のための空間として陽成院を開放すると宣言したのである。

 新しい歴史書の中身については何一つ触れていない。しかし、陽成上皇が歴史書編集に関係を持つと暗に宣言している。

 宇多天皇は協力に感謝すると言いながらも、編纂のための場所は宮中にあるので心配無用、また、歴史を記すに必要な資料は全てこちらで用意するとして、陽成院の協力を拒んだ。

 世間はこの対立を面白半分で見ていた。

 ちなみに、この歴史書編纂の際に、それまでの史書や古典から必要な部分を抽出して道真が書にまとめたのが「類聚国史るいじゅうこくし」である。もともとは本文二〇〇巻、図録二巻、系図三巻からなる大書であったが、応仁の乱でその三分の二が失われたため、現在は六二巻しか残っていない。


 歴史書の編集は面白半分であったが、その数日後、とてもではないが笑えない事態が見つかった。

 「主上は防人を復活なさるおつもりですか。」

 いつも通りの思いつきかと思い、宇多天皇に拝謁するとやはりその通りであった。

 だが、源能有よしありがそこにいたのはいつもと違っていた。

 源能有よしありは、史書編纂のため資料を集めた結果、現状を目の当たりにしたのである。

 「本朝の軍事力の停滞を新羅に悟られた可能性があります。」

 それを聞いた宇多天皇による緊急招集である。

 「出羽の反乱に新羅人が参加していました。」

 「何ですと!」

 「これをご覧ください!」

 源能有よしありが示したのは、ここ数十年の新羅からの亡命者の動向である。

 年間百人単位で新羅から日本に亡命者がやってきていた。それ自体はずっと前から続いていることであり何ら珍しいことではない。日本側はそうした亡命新羅人を優遇し、永続ではないにせよ租税を安くしたり、時には免除したりといった優遇措置を施している。

 問題は、そうした亡命者の動向であった。単なる経済難民ではなく、どうやら新羅本国と連絡を取っているのがいるらしいのである。そして、その動きの中の一端が出羽や上総における反乱と推測された。反乱に参加したのは地元民やアイヌの人たちであるとされているが、反乱のトップはどうやら亡命新羅人らしいのである。

 さらに、唐の勢力が衰退し、混乱が深まっているであろうという推測も立てられていた。これは唐との交易を行う商人達からの情報をまとめた結果である。この情報が正式に日本に届くのはもう少し先であるが、手持ちの情報の分析でそれは可能であった。

 そして、それを聞いたときに思い浮かべたのが現在の軍事力であり、それを聞いた宇多天皇が考えたのが防人の復活であった。

 言いたいことはわかる。

 この当時の朝廷が駆使できる軍事力は惨めとしか形容できないものであった。兵力は乏しく、武具も古く、戦争を仕掛けられたらその瞬間に国家は終わりを迎えるというのが共通認識であった。

 だから、軍事力を再興することの必要性を感じ、それにはかつての防人の制度が一番であると宇多天皇は考えた。

 これに時平は反対した。

 「今の本朝にそのような余裕などありません。」

 まず、防人の費用がない。いくら徴兵とは言え、全くの無給で兵士をさせられ続けるわけはないし、兵である間の維持費や、勤務地までの旅費だってかかる。

 「そのようなもの防人自身に負担させれば良かろう。」

 「ふざけないでいただきたい!」

 費用を全て兵士の自己負担にすればよいというのが宇多天皇の考えであったが、時平にはタチの悪い冗談にしか思えなかった。

 「農地と比べて人は足りない状況にあります。そこから人を奪ったら、田畑は荒れ果て、元の原野へと戻ってしまいます。」

 「隣人に耕させればよい。」

 「自分の田畑で手一杯なのに、どうして隣人の田畑まで耕せましょう。」

 「だがな、時平。攻め込まれたらそれで終わりではないか。防人抜きでこの国を如何に守るのというのか。」

 「武士つはものに任せれば良いのです。」

 時平は明確に武士という新たな存在を認識していた。しかし、それは宮中において明らかに少数派。宇多天皇も都の警護にそうした者がいることを知ってはいるが、明確な認識とはなっていなかった。

 「主上、ここは時平殿の言うとおりです。武士つはものの存在を認め、彼らを取り立てることは、彼らの暮らしだけでなく、田畑を耕す民の暮らしも、そして国の安全も図れることとなります。」

 源能有よしありは時平の意見に賛成した。

 都の警護役に武士を取り立てるのはすでに行っていた。しかし、メインはあくまでも検非違使(けびいし・現在の警察)であり、武士の存在はイレギュラーなものであった。

 その考えを一歩進め、時平は武士の存在をレギュラーなものとし、その存在を国家組織の中に組み込むことを考えたのである。まずは都の警備であるが、ゆくゆくは全国規模の武士集団を組織し、それを国が中央で束ねるという組織的軍隊の創設を狙ったのであった。

 「いずれも武芸に秀でた者にございます。武具を知らぬ者を防人として無理矢理連れ出すより、遙かに役に立ちます。」

 さらに、道真も時平の意見に同調した。

 宇多天皇は彼らの言葉を受け入れ、自らのアイデアを取り下げた。

 寛平四(八九二)年五月四日、宇多天皇は時平を検非違使別当に任命し、時平の掲げた武士の採用を進めさせた。

 このとき採用された武士たちは、清涼殿東庭北東の「滝口」と呼ばれる御溝水みかわみずの落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、「滝口の武士」と呼ばれるようになった。

 しかし、時平ができたのはそこまで。各地域の武士団の編成も、中央からのトップダウンによる軍の創設も立ち消えとなっている。

 もっとも、これが後に国家存亡の危機を救うことになる。


 武士の登用を主張した時平に検非違使の別当の地位を与えたように、地方の活性化を訴えた道真にも宇多天皇は権力を与えた。

 寛平五(八九三)年三月一五日、菅原道真が勘解由長官かげゆのかみを兼任することとなった。

 勘解由使かげゆしは地方行政の監査を行なう業務であり、勘解由長官かげゆのかみはそのトップである。

 宇多天皇は適材適所と自負したであろうが、これが道真に新たな情報を伝えることとなる。

 勘解由長官かげゆのかみとなったことで、道真はこれまでの地方の行政・経済・そして暮らしの移り変わりを知ることとなった。

 そして感じた。

 年々悪化していると。

 「悪化ですか。」

 「左様。これは年々悪くなるばかりで良くなる兆候が見られませぬ。」

 道真が持ってきた紙は、各地の経済の移り変わりを示していた。年を追う毎に小さくなり、楽観的な希望を抱かせる要素はなかった。

 まず、収穫自体が落ちている。これは、税を逃れるためのものと考えられたがどうもそうではないらしい。

 当初は荘園の拡大が原因ではないかと道真は考えたが、同じ人が、同じ条件で、同じ田畑を耕しているのに、獲れる作物の量が年々減っているのである。

 道真は、農業という産業そのものが大きな問題を抱えているのではと感じた。だが、それが何なのかはわからなかった。

 現在考えられているのが、気候の急激な変動である。

 屋久島には樹齢二〇〇〇年を数える巨大な杉があり、これを利用することで、過去二〇〇〇年間の気温の変動を調べることができる。

 それによると、西暦八六五年頃からの三〇年間、毎年気温が上がっているのである。それは単に暑い日が続いたり、冬に雪が降ることが少なくなったと感じるだけの問題ではない。それは不作という形で食料生産に直結するのである。

 そして、記録から推測するに、それは屋久島や日本だけの問題ではなく、東アジア全域での作物不良という結果を招く気候変動であった。

 しかし、道真が掴めているのは、そうした気候変動ではなく、収穫量の減少という現象が、日本だけでなく、海外でも起こっているという事実だけであった。

 「それはいつ頃からですか。」

 「黄巣の乱からです。」

 「唐の情勢が我が国に影響を与えているのですか!」

 「いかにも。海に住む者の中には、田畑を耕す代わりに外国とつくにと交易を為すことで暮らしを成り立たせている者もいる。今月、唐より来朝した商人が持ち帰りました情報に寄りますと、唐の衰退は著しく、その唐が交易できぬ有様となってしまっている以上、暮らしを成り立たせることができなくなっておるのです。」

 道真は黄巣の乱をスタートと見、それが全ての悪の元凶であると判断したが、実際には、気候変動による収穫量の減少が生活苦を生み、それが反乱のきっかけになったと考えるほうが正しい。


 しかし、黄巣の乱の頃から収穫量の減少が東アジアの各地で民衆を直撃していることは事実であり、いつから現在の問題が起こっているのかという質問に対する回答の出発点を、黄巣の乱の時期にすることは間違いではない。

 「道真、交易できぬとはどういう事だ?」

 「唐の海に住む者が生活できなくなってしまっているのです。田畑の収穫は乏しく、その上、戦乱で土地が荒れ果て、本朝と交易しようにも交易する物がなくなってしまい、かの地の者はその日を生きるために汲々している有様です。」

 「それは唐だけのことか?」

 「いえ、主上。新羅もまた混乱を生じさせています。甄萱キョンフォンの主導する反乱が新羅南部を混乱に招いており、このままいきますと、かつての国家分裂を生じさせかねません。」

 「新羅南部と言うと、かつての百済の復活か。」

 「その可能性は大いにあります。実際、大宰府からの報告ですと、博多津はかたのつに立ち寄る新羅商人の数が近年目に見えて減っているとのこと。場合によりますと、また新羅賊が来襲することもあり得ます。」

 『新羅賊しらぎのぞく』とは新羅が幾度となく繰り返してきた日本への侵略計画のことである。この七〇年間で三度、日本は新羅からの侵略を受けていた。

 弘仁四(八一三)年二月二九日、新羅から来襲してきた船が対馬に来襲し、百名以上の対馬島民を拉致。軍勢はその後九州上陸を試みるが撃退される。(弘仁の韓寇)

 弘仁十一(八二〇)年二月二六日、新羅からの不法入国者が相次いでいたため、朝廷は居留地を用意して彼らの生活を保障したが、新羅との密貿易が取り締まられたことに対して反発し、反乱を起こす。この背後には新羅本国からの援助があった。(弘仁新羅の乱)

 貞観十一(八六九)年六月一五日、新羅の軍船が博多に入港し、博多周辺の民家を襲って略奪と拉致、殺人を繰り返した。大宰府はただちに軍勢を組織して対抗し、それに直面した新羅軍はいったん引き上げる。新羅は拉致した日本人の命と引き替えに対馬の割譲を要求するが、朝廷はその要求を拒否。日本側は報復として新羅人に対し、国外追放か、新羅から離れた陸奥への移住の二択を迫る。新羅人は一人残らず陸奥への移住を選択した。その後も新羅からの侵略と日本側の抵抗という図式が続くが、事態は日本に優勢となり、貞観十八(八七六)年六月一五日、新羅側がこれまでの侵略を謝罪し、拉致した日本人のうち生存者を全員解放、また、侵略に対する賠償金を支払うことで事態は収束した。(貞観の韓寇)

 新羅が対外侵略を何度も試みていたのは、それが国内を安定させる手っ取り早い方法だからである。どんな国でもそうだが、国内問題から目をそらす最も簡単な方法は、国外に敵を作り、そこに視線を向けさせることである。

 また、略奪による生活手段の獲得という側面もある。経済が破綻し、貧困にさいなまれる新羅にとって、食べていくための物資の獲得は急務であった。

 分かりやすく言えば、北朝鮮はこの時代にも存在していたということである。

 新羅の侵略の矛先は日本だけに向いていたわけではない。渤海にも向かっていたし、唐にも向かっていた。

 日本が渤海と同盟を結び、唐とも良好な関係を築いていたのも、こうした貧困の大地へと落ちぶれた新羅の予測不可能な行動があったからである。

 現在の感覚で行くと集団的自衛権と言うことになろうか。日本、唐、渤海の三国のうち、どこか一つでも新羅からの侵略を受けたら残る二ヶ国が新羅に対抗するという。

 ところが、その唐が衰退し、しかも、新羅国内に内乱が起こっている。

 新羅が行動を起こす要素が揃ってしまっている。


 「時平殿、大宰府近辺の武士つはものを集結させることは可能でしょうか。」

 時平は首を横に振った。

 「なぜです! そなたは検非違使の別当ではないか。」

 「検非違使の別当としてできることは都に武士つはものを集めることのみ。九州の武士つはものを大宰府に集めることは大宰師だざいのそち(大宰府のトップ)にしか認められておりません。主上、ただちに武士つはものを大宰府に集めるよう大宰師だざいのそちにご命令ください。必要とあらば、滝口を九州に派遣いたします。」

 「左様か。主上、ただちにご命令を。」

 「主上!」

 時平と道真は宇多天皇にただちに命令を出すよう迫った。

 だが、宇多天皇はそれに対し何のアクションも起こさなかった。

 「二人とも、そこまで主上を責め立てるな。まずは、各人が知り得たことを持ち帰り、熟考の上、再度日を改めて対策を立てようではないか。」

 源能有よしありがこの場を取りなすことで混乱は未然に防いだ。

 この日を境に、宇多天皇の中で源能有よしありの存在が大きくなってくる。


 「定省は意気地無しだな。戦を恐れたか。伯父君が取りなさなかったらどうなっていたことか。」

 陽成上皇は宇多天皇のノーリアクションを鼻で笑った。

 「しかし、道真殿の言葉が正しいとすれば、九州は、いえ、この国は新羅との全面戦争に陥ります。」

 「全面戦争になるかどうかは何とも言えんが、一滴の血も流れることなく事が終わるとは思えん。ときに、道真はどうした。」

 「あらゆるツテを頼り、国外の情報を手に入れようと躍起になっています。」

 「とは言うが、道真は既に勘解由長官かげゆのかみ。これ以上に情報の手に入る地位は無かろう。」

 「満足のいく情報でない以上、これ以上の情報はないと他の者が口にしても、聞き入れませぬ。道真殿はいま、国家存亡の危機に立ち向かおうとしているのです。」

 「それに対しても定省は何もせぬままか。」

 「はい。声をかけるでなく、協力するでなく、黙り込んだままです。」

 「そうか。定省は統治者の器ではないな。」

 「それよりも気がかりなのは道真殿です。満足いく情報が手に入らず、どうすればよいか悩み続けております。」

 「情報は待っていれば手に入るものではない。欲しければ自分から動くのみだ。」

 「とおっしゃいますと。」

 「新羅の情報が欲しければ新羅へと、唐の情報が欲しければ唐へと、使者を使わし情報を手に入れさせることだ。何とかして大宰府を動かす手段はないか。」

 「それは帝にしかできぬ事にございます。でなければ、大宰師だざいのそちになるか。」

 「いずれにしても定省でなければできぬことか。」

 「はい。」

 「とにかく、朕のできることは、この陽成院で手に入る情報の全てを道真に渡すことだけか。だが、その情報も近年は乏しくなってきておる。」


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