第四部 菅原道真
道真はこのとき讃岐に居り、都とは手紙のやりとりしかしていない。しかし、都の最新の情報は常に把握できていた。交流のある仲間の貴族たちとの手紙のやりとりの質と量が膨大だったからである。現在の感覚で行くと、PCや携帯電話でeメールやサイトのチェックを欠かさず、常に最新情報を入手し続けるビジネスパーソンというところか。
基経や時平に限ったことではないが、この時代、貴族が都を離れることはほとんど無かった。国司に任命されても任地に赴くことはほとんどなく、自分の代理人(この当時の呼び名は「目代」)を送り込むのみというのが普通であった。これを遙任という。
しかし、道真は遙任を選ばず讃岐に足を運んだ。それだけでなく、任期満了まで讃岐にとどまり続けた。この時の道真のように、国司に選ばれたあと、実際に任地に赴く国司を受領と言う。遙任と受領では通常、受領のほうが身分も官位も低く、中央から支給される給与も少ないことが普通である。しかし、道真は受領としては身分も官位も高く、収入も恵まれていた。
こうした貴族が受領となるのは珍しいことであった。
道真が都を離れるのはこれで二度目である。一度目は渤海の使節団を出迎えるために加賀(現在の石川県)に足を運んだとき。
このとき道真が目の当たりにしたのが地方の現実、言うなれば中央と地方の甚だしい格差であった。
貧しく、文化的とは言いづらい暮らしを送る人々。
その日の暮らしに精一杯で、都の華やかな暮らしとは無縁。
税を納めるにはどうすればよいかに四苦八苦する日常。
豊かな暮らしを求めて都へ逃れるため、捨てられた田畑。
この地方の現実を目の当たりにした道真が、地方の行政官となって現地に赴くことはおかしな事ではなかった。
道真は地方の状況を都に盛んに伝えていた。
しかし、それは道真の望んだこと、すなわち、中央と地方の格差を埋めることにはつながらなかった。
道真からの連絡は二通りの反応しか生まなかった。
一つは地方の珍しい習俗への興味。
そして、もう一つは無視である。その無視をしたのが基経であった。
実際、道真の提案は無茶な部分が多かった。
道真は、地方に、都に負けない都市をつくることを提案しているのである。国衙(こくが・国司が勤務する役所。現在で言うと県庁)を中心にその地域の中心となる都市を作り、都の豊かな暮らしを地方でも実現できるようにしようというのである。
これは一見すると立派な考えであり、実際、賛同する者もいた。
だが、基経は二つの理由から反対した。
一つは予算の問題。
もう一つは人口の問題。
基経は道真の立てたこの計画を知ったとき、あきれて物も言えなかった。
「これが本朝随一の学者の知性か。」
計画は綿密なもので、期間も、予算も、必要となる人員数も記されていた。
しかし、その前提が間違っていた。
どこからその予算を出すのか。
どこからその人々を集めるのか。
それが現実性を欠いた物だったのである。
特に、もっとも農作業の忙しい最中であっても、人員は減らさず工事を続けるという点が問題であった。
収穫後、地力回復のため田畑を遊ばせている間の仕事の斡旋なら問題ない。だが、そうではなかった。
この当時に限ったことではないが、都市を作るというものは簡単にできるものではない。計画されない都市は時間がかかるし、計画された都市は人も予算もかかる。
公共事業を都周辺で行なったのは、都に集まった失業者に職を与えるという意図があったからである。つまり、それだけの労働力の確保が可能であり、藤原の財産の大部分をつぎ込んだにせよ、それだけの予算の確保もできたからこそ可能だったのである。
だが、道真の考える都市計画は、充分な労働力の確保が困難な地域での計画である上、明確な予算が示されていない。計画では国衙の予算に加え中央からの支出による都市作りとなっているが、国衙にはそれだけの予算もなく、中央はもっと予算がない以上、その支出は無理である。ましてや、失業者が多いわけではないばかりか、逆に人手が不足している状況で労働者を集めることなどできない。となると、どこから人手を集めなければならない。それも、現在田畑を耕している人を無理矢理連れてきてである。
そうなると、どういった結果が待っているか。
減収である。
田畑から人を奪っておいてなお、以前と変わらぬ収穫を残すことが可能だと考えるのであれば、その人の知性を疑わざるを得ない。基経があきれたのはそれが理由である。
田畑に投入した人の数がそのまま収穫に直結し収穫が収入となる状況だというのに、人手を奪ったらどうなるか。
収穫は減り、人の手が入らなくなった田畑は荒れる。
都市を作っている間は連れてきた人間を養うことはできたとしても、完成したあとは、一部のメンテナンス要員を除いて、建設に従事していた者は失業する。そして、無理矢理連れてこられる前の村に戻ると、田畑は荒れ果て、蘇らせるのに困難な状況となっている。
その結果、生きていくために都市に流れるようになる。古今東西、生活に困った者が都市に流れること代わりはない。そして、都市の中心に貧しい者の集まる街を形成し、治安の悪化を呼び、彼らへの対策のために都市の財政を悪化させる。その財政の穴を埋めるために税が増やされ、税に耐えられず住まいを捨て、都市の中心に流れる。その中で都市の快適な生活を味わえるのは、都市の中心より少し離れたところに住む恵まれた一部の者だけである。この無限ループは誰かが止めなければ止まらない。
道真の望んだ、地方でも都と変わらぬ文化的な都市なるものは実現可能かもしれない。しかし、都と変わらぬ暮らしは、恵まれた環境にある一部の者しか味わえない。それも、それまで何とか暮らしていた人たちの生活を奪った上で。
道真の提案は都では却下されたが、任国である讃岐では実行していた。
讃岐国の国衙は現在の坂出市府中町、現在で言うと、JR予讃線讃岐府中駅の北西あたりにあった。
現在は碑を残すのみで姿をとどめていないが、国衙はおよそ六〇〇~七〇〇メートル四方の正方形で、その周囲に国衙に勤務する者の家々が建てられ、さらにその周囲に一般市民の家が並んでいたとされている。発掘による確認はまだ不完全ではあるが、このあたりの地名の由来をさかのぼると、道真が国司であった頃の建造物の名がそのまま地名となっているものが多いことに気づかされる。
現在にも名残をとどめる実績を残したのだから、讃岐国における道真の評判は高いものがあったのだろうと考える人も多いかもしれないが、実際はそうではなく、むしろ低いものであった。
かつての国司である紀夏井の評判が極めて高く、道真を含む歴代の国司は常に紀夏井と比較されてきたからである。
紀夏井は善政を心がけており、紀夏井が国司であった頃の暮らしぶりはかなり良かった。収穫に恵まれた上に税率は低く、農家は税を納めてもなお余るため、穀物を蓄える倉庫を競うように増築したという。
任期満了を迎え都へ帰ろうとした紀夏井を引き留めるために農民が国衙に殺到し収拾がつかなくなったため、朝廷は紀夏井の任期を二年延長した。これは後にも先にも例のないことであった。
さらに、他の国司が自分の財産を殖やしてから都に帰ったのに対し、紀夏井が任地で手にした物のうち都に持ち帰ったのは、愛用していた筆と、事務上必要な記録を記した紙だけ。そのほかは、着るものも、食器も、全て六年前に赴任するときに都から持ち込んだものをそのまま持ち帰っただけであった。
清廉潔白をそのまま絵にしたような人物であり、結果も出し、人気もあった。
そうした国司のもとで暮らしていた人に向かって、新任の国司と紀夏井とを比べるなと言うほうが無理である。しかも、彼らの思い描く紀夏井は、欠点も存在する生身の人間としての紀夏井ではなく、全ての欠点が忘れ去られた完璧な存在としての紀夏井である。
道真は学者としてのエリートコースを歩んできた。それも、その美貌と知識は一度として挫折を経験させなかった。方略試の成績こそ高いものではなかったが、若くしてその試験に合格したということは道真のプライドを支えていた。
その道真が初めて他者との比較で負けを宣告されたのが、讃岐国司という職務である。
道真は何とかして紀夏井に、それも、市民の脳裏に残る紀夏井に勝とうとした。
それが、国衙周辺の開発だった。
規模こそ小さいが、都に負けない大都会を作り出す。そして、都市の豊かな暮らし人々に体験させ、都と変わらぬ暮らしを実現する。
その意気込みは讃岐国の民衆を、半分の喜びともう半分の苦しみに導いた。
この世にあることは知っているが見たことなど無いというのが、この時代の讃岐国の民衆にとっての都だった。
その都と変わらぬ物が、自分たちのすぐそばに現れたことは喜びだった。
しかし、それを作ること、そして、それを維持することは苦しみであった。
その民衆の苦しみのほうも道真は理解していた。しかし、都に変わらぬ都市が実現すれば解決すると思いこみ、今の苦しみはそれまでの一時の苦痛だと信じ切っていた。
そして、讃岐のように日本全国に都市を作ればよりよい国になると確信していた。
基経はこの道真の主張を無視した。
しかし、この道真の様子を知った人がいた。
宇多天皇。
盛んに地方の様子を伝えるこの学者貴族の意見を宇多天皇が尊重したのではない。宇多天皇は広相に変わって学者派のリーダーとなり、基経の対抗馬となりうる人物として道真を見いだしたのである。
宇多天皇が道真に目を付けたことは比較的早い段階に知られていた。しかし、これに対する藤原父子の対策は何も伝わっていない。全く気にしていなかったのか、あるいは、何らかの対策を打ったものの記録に残らなかったのか、これはどうやら前者らしい。
都中の女性を虜にさせる美貌の持ち主であり、また、讃岐に赴任して真面目に国司としての職務を遂行していることは知っていた。そして、讃岐の民衆が道真をどう見ているのかも知っていた。
そこでの結論は、やはり道真も理屈優先の学者にすぎないというものであった。
学者派の典型と言うべきか、他人のした結果を見通す力はあるが、自分のしたことの結果を見つめる能力を欠いていた。
そして、こう結論づけた。
広相と同じ道を歩むと。
しかし、こうした藤原派の評価など宇多天皇にとって何ら意味を成すものではない。重要なのは、藤原派に対抗してもらうことである。
阿衡事件から半年は藤原派の天下と言って良かった。
基経が権力を握り、時平が蔵人頭として宇多天皇に仕えることで宇多天皇の行動をセーブする。
道真と連絡を取り合うものの宇多天皇は表向き藤原派に従う様子を見せていた。そして、二つの時のうちどちらか一方が来るのを待ったのである。一つは道真が都に帰ってくること、もう一つは基経が死ぬことを。
広相を失った学者派はこうした状況に逆らわずに時を過ごしていた。しかし、道真を心待ちにするという点では宇多天皇と同じであった。
数多くの手紙が都と讃岐を往復するようになった。
その中には宇多天皇から道真に送られた手紙も、そして、その返信もあった。
宇多天皇は道真に一刻も早く都へ帰るよう勧める。それに対する返信は、任期満了までは戻らないというものであった。ただ、それは道真の責任感から来るものであるとばかりは言えない。
自分の政策による讃岐の都市化の“成功”を見届けたいという思いは当然あったであろう。だが、それだけではないように思える。
この当時、国司を一期勤めると一財産できたのである。紀夏井のように財産を築くなど全くしなかったというのは例外中の例外で、たいていの国司は財産を築いて都に帰るのが普通であった。その中には明らかに違法な手段による富もあったが、余程のことがない限り裁かれるようなことはなかった。
菅原家は決して貧困ではない。藤原家に比べれば見劣りするものの、単なる学者家系ではなく、貴族としての財産にも恵まれた家系である。そのため、道真の財産が親より受け継いだものであるのか、それともこのときの国司としての職務によるものなのかはわからない。ただし、一つだけ言えるのは、道真の財産は他の学者派の貴族よりはるかに恵まれていたということである。
道真の帰還に失敗した宇多天皇であったが、これへの対策を考えだした。それも、堂々と時平を蔵人頭から排除することも同時にである。
翌年の一月一六日、宇多天皇は藤原時平を従三位に出世させ、同時に讃岐権守に任じた。
これが宇多天皇の作戦である。何しろ四位の職務である蔵人頭からの出世であり、しかも、三位の職務である讃岐権守がついているのだから、普通ならば手放しで喜ぶべき内容である。
だが、これは一〇〇パーセント罠なのである。
時平が讃岐に行くとなると道真はお役御免となり都に戻らねばならない。ここでついに宇多天皇は道真を利用できるようになる。
一方、基経はすでに年齢的なものがあり、そうそう無茶ができるような体力ではなくなっている。その職務を支えている者の一人が時平であるが、時平がいなくなると基経にその分の負担が降り懸かることとなり、下手をすれば命を縮めることとなる。
さらに地方に赴任した時平の財産調査という手もある。ここで法に触れる振る舞いに出て財産を殖やしたら、堂々と有罪にして追放できる。
そして、陽成院は時平がいてはじめて藤原派との関係を築けている。となると、時平がいなくなった陽成院は、藤原派との関係が途絶え孤立する。
これは罠であると悟った時平は、一歩上を行く返答を示す。讃岐権守には就くが、実務については、これまでの功績を配慮するとして自分の目代に道真を指名したのである。これは典型的な遙任のケースと全く同じであり、そのため、この時平の行動を問題として取り上げることはできなかった。
ただ、三位になった以上、蔵人頭の地位に居続けることはできなくなった。そのため、時平はここで宇多天皇との関係を失うこととなる。
しかし、これが逆に時平を自由にする。父基経の右腕となったのである。基経は明らかに年齢による衰えが見えており、特に体力にそれが現れるようになっていた。時平はそのサポートに入ったのである。
宇多天皇の策は失敗に終わり、ただ単に時平が出世したという事実だけが残った。
藤原氏が最高の臣下として権力を握るという政治形態が誕生したと誰もが感じ、新しい元号である「寛平」の時代は藤原の天下だろうと誰もが考えた。
翌、寛平二(八九〇)年一月七日。
宇多天皇の待ち望んでいた人物がついに姿を見せた。菅原道真が讃岐国より帰京したのである。
紀夏井のときと違い、讃岐の民衆から帰らないでくれという願いは全く来ていない。それどころか、民衆は目障りな国司が失せたことに喜んですらいた。
こうした民衆の態度は都にも伝わっていた。道真帰京はニュースではあったが、あの女たらしのプレイボーイが帰ってきたのかという程度の認識でしかなく、道真を大々的に歓迎するという雰囲気など全く無かった。
そうした都の人々の道真に対する視線が一瞬にして激変したのが、他でもない宇多天皇直々の道真を呼び寄せる知らせである。
この意味を都の人たちは直ちに察した。
藤原派に対抗する人材、すなわち、広相の後継者に道真を指名するというものである。
この事情はかなり前から時平にも掴めていて、陽成上皇との会話にも道真の名は頻繁に出てくるようになっていた。
「場合によっては広相より手強いかもしれません。」
「讃岐での様子は朕も聞いている。讃岐国衙は都に劣らぬ街となったが、そのための重税が民を苦しめた。おかげで、讃岐は荘園と逃亡者の多い国になってしまった。」
「しかし、広相のように対するのは無理があります。何しろ、渤海との折衝という国に対する貢献はあるのですから、無為無策を責め立てることはできません。先の阿衡のような失態をしでかさない限り、責任をとらせることは困難でしょう。」
陽成上皇はこのころから和歌や漢詩の世界に没頭するようになっていた。理由は三つ。
一つ目は皇位復帰に対する諦め。宇多天皇はまだ若く、命に関わるような事態はない可能性が高い上、まだ幼子ではあるが自分の後継者となるべき皇子がいる。つまり、皇位も、皇位継承も安泰である。そのため、自分が再び天皇となる可能性は低くなっていた。
二つ目は、上皇という地位の便利さ。日々の雑務に煩わされることなく、しかも、生活と権威が保障されている。権力を奪われたことの悔しさはあるが、時平という無二の親友が、全てではないにせよ自分の考えも受け入れた上で動いている。それも、かつて自分にひれ伏しながら今では自分を見下している宇多天皇を、これ以上ないほどに封じ込めている。これが愉快でないわけがない。
野望を閉ざしながら欲望を叶えた陽成上皇には、時間が有り余るほどあった。そういう人間は無為に時を過ごすか、趣味に没頭するものである。陽成上皇は後者であった。それが最後の理由である。
しかし、以前から陽成上皇が詩歌の世界に興味を示していたわけではない。当初示していた趣味は本そのものを集めることであった。だが、集めるような本がもう無くなっていたのである。最大の本の供給元であった唐の衰退は目を覆うばかりで、図書の輸入は途絶えていた。
その結果たどり着いたのが、自分で書を作るという趣味である。それが和歌や漢詩の世界への没頭になった。
この陽成上皇の新たな趣味が、陽成院に思わぬ訪問者を招くことになった。
道真である。
讃岐にいた四年間、道真は書に飢えていた。
いかに都に負けない街を作ろうと、都の文化がそのまま移せるわけではない。
そのもっとも極端な例が本であった。この時代、都とその周辺以外で本を入手するのは極めて困難であった。本を手紙のように運ばせる方法はあったがそう何度も利用できるものではなく、また、新しい本として何があるのかといった情報はまず手に入らなかった。
自他ともに認める読書家を自負する道真にとって、本が手に入らないことに対する飢えは激しいものがあった。
その状態での都への帰還であり、都には讃岐では味わえなかった本に恵まれた場所がある。それが陽成院である。
「まことにこちらは夢のような場所にございます。」
陽成上皇も時平も道真を知っていた。だが、このように顔を合わせるのは初めてのことであった。
二人の前にいたのは、宇多天皇が右腕として頼ろうとしているような存在ではなく、これまで陽成院で何人と見られた一人の読書家であった。
「長恨歌の写しは幾度となく見て参りましたが、このような書は初めてにございます。」
「そうか。長恨歌を愛読する者は多いが、そちほどに喜びを見せるのは初めてだ。」
「讃岐ではこのような書は手に入りませぬか。」
「そうですな。一冊も手に入らぬとわけではあらぬが、都のように市で手に入れるようなことはできぬ。」
道真はこの二人より一回り歳上であり、ついでに言うと能有と同い年である。だが、そこには年齢を超えた趣味人同士の会話があった。
時平は陽成上皇と違い、漢詩や和歌に対する知識はさほど無い。もっとも、人並みの知識はあるので二人の会話にはついていける。だが、陽成上皇と道真との間の漢詩の話に割り込めるほどではない。そのため、自然と聞き役に回る。
「時平殿が足繁く通う理由もわかりますな。」
「それが陽成院の素晴らしさです。陽成院は誰にでも開かれている書の殿堂、学びたい者がいつでも立ち寄ることができますから。」
「ならば、もっと大勢の人に立ち寄っていただきたいものです。」
「やはり、陽成院という立場がどうしても邪魔をしてしまうのです。実にもったいないことに。」
「それは無粋というものでしょう。書とは、学び、悦び、愉しむもの。立場などいかようにも超えられます。」
陽成院を出てから牛車に乗り込むまでのわずかな時間ではあるが、時平は道真と並んで歩いた。
その間、政治の話は全く出なかった。
いや、道真が陽成院に来てから今のこの瞬間まで、道真の口から政治に関わる話は一言も発せられなかった。
会話はあくまでも和歌や漢詩、そして、書に関するもので、陽成上皇の応えもそれに合わせたものであった。
「万葉集が生まれてからこれまで、どれだけの詩歌が詠まれてきたでしょうか。」
「さあ、いかほどでしょう。千や万では足りぬでしょう。」
「私にもそれはわかりません。しかし、ただ一つ言えること、それは後世に伝えるべき優れた詩歌があるということです。我々人間はいずれ死ぬべき運命にあります。しかし、書は人が亡くなった後も残り、百年後の人にも、千年後の人にも伝えてくれます。」
道真は歩みを止め、後ろを振り返った。
時平は道真の動きに合わせて、後ろを見た。
「時平殿、私は今日、この素晴らしい文庫(現在で言うところの「図書館」)に出会いました。そして、この文庫は後世の人にも大いに役立つものであると確信しました。しかし、ここを以てしても、未だ文字になっておらぬために目にできぬ詩歌が数多くあることを知りました。都に戻ってきたからには、そうした詩歌を書にまとめたいのです。時平殿、力を貸してくださらぬか。」
これは時平には全く思いもつかないことであった。
道真を宇多天皇の右腕、すなわち、政治上の対立軸になる人間だと時平は認識していたのである。
その道真が自分に協力を求めてきた。
一見すると単なる文化事業だが、話を総合すると、万葉集に次ぐ和歌集を一緒に作ろうというのである。
これは壮大な国家事業であることを時平は瞬時に察知した。
「わっはっはっはっ! 道真に協力を求められたか!」
基経は大笑いした。
「万葉集をもう一度作ると言われて当惑しているのはこちらです。」
「でも、兄上。お受けなさるのでしょう。」
「まだ決めてはいない。」
「しかし、広相と違って風流を解する男か、道真というのは。」
「はい。陽成院での会話は、終始、詩歌のみでした。」
「詩歌なら何も困ることはあるまい。時平、協力してやれ。どうせおぬしは蔵人頭をクビになって暇であろう。」
「それはそうでございますが。」
「それに、陽成院の全面協力も期待できるのだろう。」
「はい。」
「帝が期待している道真が、事もあろうに、おぬしと、陽成院と手を取り合って、二百年以上は捨て置かれた国家の大事業に乗り出すとは、何とも愉快な話ではないか。」
基経は愉快な話と笑ったが、愉快でないのが宇多天皇である。
基経から新しい万葉集の編集を聞かされた宇多天皇は激怒した。
「陽成院、陽成院! どいつもこいつも陽成院!」
一度は自分の右腕にと期待した時平は、幼時からの友情と政略のために自分を捨てて陽成上皇を選んだ。
次に自分の右腕として期待していた道真は、陽成院の図書と学者としての思いから陽成上皇のもとに日参している。
それが純粋に詩歌を愉しむ集いであるにせよ、国家的文化事業を、自分をないがしろにするばかりか、陽成上皇のもとで行なおうというのが気にくわなかった。
「いまどき万葉集ではあるまい!」
「しかしながら、万葉集より二百四十年、その間に生まれた詩歌は数知れず、漢詩ならばまだ記録されておりますが、和歌となりますとほとんど残されておりません。このまま捨ておくとなりますと、大きな損失となります。」
「損失して誰が困る。だいたい、詩歌が何の役に立つというのか。」
「国家千年の損失にございます。」
「なにゆえにだ、基経。」
「本朝の創始以来、歌の絶えたことはございません。それは、歌が、全ての人に開かれた楽しみであり安らぎであるからです。栄華を彩る者だけが認められた楽しみではなく、税に恐懼する者にも、明日の食べ物に困る者にも、歌だけは残されているのです。それを取り上げると言うのですか。」
基経は宇多天皇を一喝した。
宇多天皇も基経の言い分は正しいと判断し、その件については黙り込んだ。
しかし、自分のいないところで進められる和歌集の編纂だけは納得できなかった。
本来ならば国の編纂とするべきところを断じて認めず、あくまでも、個人の編集としたのである。
そのため、この「新撰万葉集」は全二巻と初代の万葉集と比べ量が少ない。しかし、第一巻の完成は早く、この二年後、寛平三(八九一)年には完成している。
道真が陽成院に顔を出すようになったとは言え、道真の政治的立場が藤原派と同調したわけではない。
自身の主張する地方の開発を取り下げたわけではなく、それを無視する基経の態度に迎合する向きもない。
しかし、陽成院という私的な楽しみを満喫できる場所で道真は陽成上皇や時平と意気投合しており、また、自身の進める新しい万葉集(このときはまだ「新撰万葉集」の名はない)に反抗する宇多天皇ととれを諫める関白基経という図式では、時平や基経に親近感を感じるのも当然といえば当然である。
いや、このときの道真は親近感というよりももっと上の感情であったかもしれない。
都に戻ってきた道真が目にしたのは、天皇に変わって実務を取り仕切り、夜明け前から真夜中まで休むことなく働き続けている基経であった。
それまで捉えていた基経のイメージは、権力をほしいままにし、私利私欲にまみれ、天皇をないがしろにし、気にくわないとボイコットまでしでかす悪徳政治家というものであった。
だが、讃岐国司という地位に立って道真はわかった。
実務をすることの苦労を。
四年間という短期間、しかも、讃岐という一地域に限定してでさえ神経をすり減らす日々なのに、基経はそれを全国規模で、しかも、期限指定なしに行なっている。
これは自分には難しいと素直に感じた。
だが、それを認めたものの、基経が財産をため込んでいるという思いを捨て去るには時間がかかった。
国司の中には財産をしこたま貯め込んでから任国を後にするのがいる。だから、道真は当初、基経の苦労は認めたものの、基経はそれらの国司以上に財産をため込んでいると考えていて、基経を祖直に評価する気にはなれなかった。
確かに基経の財産は莫大で荘園も広大に渡っている。だが、基経はそれをため込まずに吐き出している。それらは全て荘園にいる者、すなわち、自分を頼って生きている者を養うため。
それは幾度となく顔を合わせた時平からも推測できた。
貴族としての服装ではあるが、華美ではなく、地味を通り越して質素。また、三位以上となった場合の服の色は濃い紫であることが求められるはずなのに、時平のそれは紫を通り越して黒である。黒に近ければ近い紫であるほど高価であるが、黒一色となるとその値段は急に安くなる。単純に言えば、庶民でも買える布地である。
牛車は流行から大きく遅れた年代物で、手入れはしていると思われるが、経年劣化が明らかになっている。これがあの藤原家の牛車なのかと都の者は驚きを隠せなかった。
食事にしても、庶民からすれば高価ではあるが、貴族全体からみるとかなり安値の部類に入る。
陽成院から借りた本を写すときの紙も、大量にある安値の品質の劣る紙。
当初は質素を心がけているのだと考えていたが、それにしては程度が重すぎる。
なぜかと考えてたどり着いた結論。それは、それが藤原の財産の現実なのだということ。藤原家は収入も多いが、支出はもっと多いのである。それも、自分のためではなく、荘園に生きる者を守るための支出が。
その代わりに基経はいったい何を得ているのか。
そう考えたとき、道真は何一つ思い浮かべるものがなかった。ありがとうという感謝の言葉すら。
何も得ることなく、ただただ天皇に代わって実務をこなすだけの日々。他者の日々のくつろぎには理解を示すが、基経自身はくつろぎなど無縁。給与は高いが贅沢な暮らしとは無縁。民衆の支持はあるが、国が何かしらの評価をすることは全くない。
その上、宇多天皇と基経の関係は日々悪化する一方。このまま改善しないとなると今度こそ取り返しのつかない事態になるのではないか。実際、宇多天皇がどれほど張り切ろうと、実務は全て基経の手にあるのだから、基経が再びボイコットなどに訴えてしまったら今度こそ国内は大混乱を呼び起こす。
そこで、道真は考えた。
基経がまだ得ていない栄誉を与えることで、宇多天皇と基経の関係改善が図れるのではないか。
「栄誉の称号?」
「はい。」
「あの基経にこれ以上栄誉を加えてやれと言うのか。」
「太政大臣に栄誉を与えるのではなく、後世の道標としての栄誉を与えるのです。開始は無位無冠でも、自らの力でここまで登り詰めることができるという栄誉を。」
道真のこの申し出は権謀術数の結果ではなかった。
しかし、宇多天皇はそれを権謀術数の手段として考え出した。
基経に何かしらの栄誉を与えるにしても、どんな栄誉ならば良いのか。
それを考えた宇多天皇は過去の事例を探した。
そして見つけた。
「准三宮宣下でございますか。」
三宮とは元来、太皇太后、皇太后、皇后のことであるが、この時代になるともう少し意味が広がり、皇族生まれではないが皇族になった人という意味で捉えられるようになっていた。
これに准がつくと、皇族になってはいないが皇族に匹敵する権威を国が保証するという称号になる。ただし、この時点でその権威を受けたことがあるのは基経の養父である良房だけ。
「太政大臣の国家に対する貢献をふまえれば、決して相応しからぬ称号ではない。」
道真は何も言わなかった。
だが、良からぬ結果になるのではという漠然とした思いは抱いた。
寛平二(八九〇)年二月一九日、宇多天皇は藤原基経に准三宮宣下を下した。
思いもよらぬ栄誉に驚いた基経であるが、その真意を基経はすぐに理解した。
それまでただ一度だけ行なわれた准三宮宣下、それは、基経の養父、良房に対してのものであることは先に述べたとおりである。
問題は、なぜ良房にこの栄誉が与えられたかである。
それは、良房がこのときすでに六七歳になっており、年齢から来る体力の衰えから政務も滞りがちになり、基経に実権が移りつつあったからである。そして、良房はこの栄誉を受けたあと事実上引退し、それから一年と経たずに亡くなっている。
何のことはない。充分働いたからそれに対する栄誉を与える。その代わり引退しろ、ということなのである。
阿衡のときは意識せず基経を突き放す言葉の使用になったが、今回は、意識しての言葉の使用である。
しかし、名目はあくまでも権威であり、それを受けた者が居るという過去の例があり、しかもそれが他ならぬ養父良房。これでは簡単に断るわけにはいかない。
これは思いもよらぬ栄誉であり、また、権力が伴わない権威の称号であるため、権力を奪うことに対する事項は全く存在しない。だから、引退とかを匂わせるものは全くない。
だが、ただ一度の事例をふまえれば、宇多天皇が何を狙っているのかすぐに理解できることであった。
それでも基経はこの栄誉を受けている。阿衡と違い、養父が受けたという過去もあるが、何よりもまして大きかったのは、その権威に付随する市民からの評価である。
自分たちを守ってくれた基経が得た栄誉に喜ぶ市民は多かった。
その多くは、基経がやっと国に評価されたのかという思いであり、宇多天皇の真意は伝わっていなかった。真意はこうではないかと感じた者はいたが、基経が引退することも、ましてや死を迎えることも、誰一人考えていなかった。
だが、宇多天皇の真意は、時間はかかったものの実現することとなる。
基経が栄華を極めたと誰もが考えていた裏で、これに反発する勢力が台頭しつつあった。
きっかけは、寛平二(八九〇)年五月一六日の橘広相の死去である。
かつて学者派のトップとして基経と渡り合いながら、阿衡事件で敗れ去り、宮中から追われた広相の死は、それなりに大きなニュースとなった。
そして、広相の葬儀に始まった輪は次第に大きくなっていき、その矛先は藤原派ではなく、自分たちのリーダーになっていてもおかしくはなかった道真に向けられることとなった。
藤原父子が自分たちの敵なのは最初からわかりきっていることだが、道真の立場は不鮮明であった。
まず、時平や陽成院とのつきあいを日々深めている。
そして、基経との関係も良好である。
次に、宇多天皇のもとに日参している。
それでいて自分たちとの手紙のやりとりは欠かさない。
つまり、誰とも均等の立場に立っていたのである。
明確な対立を宣言している集団にとって、敵対する相手は、対立している相手だけではない。自分たちと相手とともに接している存在もまた敵対する相手なのである。
その中で頭角を現したのが三善清行である。
清行のこれまでのキャリアは道真の歩んだ道を少し遅れて歩いているようなものであった。
文章生になったのは二七歳、方略式に合格したのが三七歳と道真と比べるとだいぶ遅い。しかし、この二人は二歳しか違わないのである。
清行の方が二歳若いのだが、二人のキャリアの開きは二年でどうにかなるものではなかった。
文章生になるべく奮闘している頃、二歳上の道真はもう渤海との折衝にあたっていた。
方略試に何度も挑戦し、十年を経てやっと合格したときには、道真はもう貴族の仲間入りをしていた。
そればかりか、役人になるべく受けた試験の試験官は道真で、道真は清行を不合格にしているのである。
追いつこうともがけばもがくほど差は開くばかり。それでも自分たちのリーダーとして活躍してくれればまだいいが、陽成院に入り浸り、藤原家と親交を深め、天皇とも関係を築いている。
清行の道真に対する感情は、嫉妬と、怨恨と、怒りに集約されていた。
その清行が学者派のリーダーとして頭角を現した。
清行登場を道真はどう見ていたのか伝える資料はない。
しかし、ある程度は想像できる。
道真はかなりの可能性で歓迎していたのではないであろうか。
基経の日々の政務を見ていれば、それがいかに激務かすぐに想像できた。
そして、年齢的なことを考えると、基経にはいつ不測の事態が起こってもおかしくはない。
そのとき、基経の後を誰が継ぐのか。
実務としては能有であろうが、形式上は時平である。
時平のキャリアはまだ途中であり、基経の後を受けていきなり関白太政大臣になれるわけはない。となると、待っているのは宇多天皇による親政である。
ところが、宇多天皇と接していて道真は気づいたのでは無かろうか。宇多天皇の統治者としての能力は基経に劣るものであるということを。
最低でも現状維持をつとめるには誰かが基経の役割を引き受けなければならないが、その激務を誰がやるのか。今の朝廷を見渡しても一人で受け持てる人間は居ないのである。
強いて挙げれば能有の名が出てくるが、能有がいかに勤勉でも基経には及ばない。
ならば、現状では複数人で分担してやるしかない。
そして、その人数は多い方がいい。
その複数人に清行を考えていたのではなかろうか。何と言っても、方略試に受かった人間で、自分と大して年齢が変わらない人物の登場、つまり、自分の代わりをできる人間の登場ということである。
しかし、これはあまりにもお人好しすぎる。
道真にしてみれば弟のような年齢の人物が苦労してここまで来たという喜びであったろうが、清行にそんな思いはなかった。
それに道真は最後まで気づかなかった。
栄誉を得た基経は、どうやら自分の命を考えるようになっていたと思われる。
寛平二(八九〇)年一二月一四日、基経が関白を辞任した。
後継者である時平はすでに従三位にまで来ている。
能有のサポートも期待でき、陽成院という後ろ盾があり、敵対すると思われていた道真は今や時平とともに活躍する仲間である。
宇多天皇との関係はお世辞にも良いものではないが、それは能有や道真が何とかしてくれるという期待ももてた。
自分が居なくなった後の心配は片づけたと確信したからこその関白辞任のではなかったか。
そして、それは自分の時代の終わりを悟ったが故の引き際ではなかったか。
基経は関白辞任を最後に宮中に姿を見せなくなる。
それでもなお影響力はあり続けたのか、宇多天皇は基経が姿を見せなくなっても何ら動きを示していない。
だが、宇多天皇の胸中は断じて静かではなかった。
まもなく訪れる時間を待ちわびていた。