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第三部 阿衡事件

 陽成上皇の逆鱗に触れ意気消沈していた広相ひろみは、牛車で出迎えに来た新天皇からの思いも掛けぬ誘いに狂喜乱舞した。そして、陽成上皇と時平の二人との関係の断絶を決意した。

 藤原氏の専横を望まない勢力を自身のもとに集めることに成功した宇多天皇はまず、その矛先を時平に向ける。

 陣定じんのさだめの開催を決定し、時平に参加を命じたのである。

 太政大臣である基経もとつねに参加資格はなかったが、従四位下である時平は参加する義務があった。

 臨時に開かれた陣定じんのさだめは、明らかに学者派のものであった。

 「昨今の政は一部の者の専横が続き、帝をないがしろにする風潮がありました。それは許されるものではなく、改めねばなりません。」

 「左様。今の危機は律令の精神をないがしろにしてきたつけが回ってきたのです。今こそ帝を中心とする正しい国に戻さねばなりません。」

 「その一部の者の私利私欲のために民は今も苦しみを募らせている。これを如何に罰するべきか、この討議は欠かすことができません。」

 陣定じんのさだめは位の低い者から順番に意見を述べる。相反する二つの勢力があって意見を述べ合うときは建設的な意見の交換となるが、一方が圧倒的な勢力を持っているときは順番が進むにつれて意見がほぼ固まり、先鋭化する。

 スタートは従五位下からのため、従四位下である時平に順番が回ってきたときはかなり意見が固まっていた。

 時平にはわかっていた。今の陣定じんのさだめは学者派の天下であり、ここで行われていることは議論ではなく、自分を、そして、あわよくば藤原の勢力をそぎ落とそうとするものであることを。

 「で、どうするのですか。一部の者を罰すればこの国は良くなるのですか。一部の者への文句を言えばこの国は良くなるのですか。」

 時平は場の雰囲気にあえて反旗を示した。

 「いまこの場をより良く生きる。その積み重ねが今のこの国です。律令の理想の始まりから現在まで百八十年、時代も変わり、人も変わっています。律令と実情が合わなくなったのを少しずつ直していったのを今ここで全て無くせとするなら、百八十年の現実の移り変わりを全て無くせということになります。文句を言うことや罰することが、そんなことになるのでしょうか。」

 時平のこの発言自体は何も真新しいものではない。基経もとつねが日々言っていることである。

 ただ、この場で言うことはそうとうな勇気であった。自分以外の全てが敵なのである。


 時平の発言は、時平が間違いなく基経もとつねの後継者であることを認識させるに役立った。

 ただし、一人、この発言に関心を寄せた者がいた。

 源能有よしありである。

 宇多天皇は当初、時平を単なる基経もとつねの子供としか見なかったが、能有よしありはそうではなかった。この人物の可能性が高いことを知ったのである。

 どのような言葉で宇多天皇を説得したかは不明だが、宇多天皇は能有よしありの意見を受け入れて一つの決断をする。

 「藤原時平を蔵人頭に補す。」

 蔵人頭くろうどのとう自体は四位で若い者が就く職であり、従四位下で一七歳である時平が就くことはおかしいことではない。

 しかし、蔵人頭とは天皇の秘書のような職であり、一日中天皇の側にいることが求められる職務である。

 基経もとつねとの対立を宣言した宇多天皇が、その基経もとつねの子を自分の秘書に任命した。

 これは、基経もとつねにも、学者派にも、衝撃を与えずには済まなかった。

 「時平はたしか一七歳だな。」

 「はい。」

 「そなたを蔵人頭にしたことを訝しがる者はいるが、位も、年齢も、蔵人頭たるに不可解なものではない。」

 宇多天皇はこのとき二一歳、一七歳の時平とほぼ同年代と言って良い。

 それでいて面識はさほどない。

 時平は源定省さだみであった頃から宇多天皇を知っているが、それほど詳しくは知らない。宇多天皇は時平を全くと言っていいほど知らず、陽成上皇と一緒にいることが多いことと、基経もとつねの後継者であるという点のみが情報としてインプットされている。

 陽成上皇との折り合いが悪いこともあり、陽成上皇の隣にいることの多かった時平と接することはまずなかったし、書を求めて陽成院に足を運ぶこともなかった。つまり、時平に対する認識は白紙状態に近い。

 基経もとつねの専横に対する反発はあったものの、政治的意見は基経もとつねと同じである。

 基経もとつねはこのとき五二歳。平均寿命が四〇歳の時代での五二歳はいつ何があってもおかしくない年齢である。そして、何かあったときに基経もとつねの後を継ぐのは、この時点ではまだ従四位下である時平。

 太政大臣として権力を握っているから問題なのであって、位がもっと低ければ、学者派の支配する宮中にあって自らと意見を同じくする数少ない者の一人にすぎなくなる。

 「時平、陽成院を捨て、朕の右腕になれ。」

 宇多天皇は時平に将来をかけてみる気になったのである。


 「で、時平はそれを受けるのか?」

 宇多天皇の言葉を持ち帰った時平は父に相談した。

 「右腕になることは承知しますが、陽成院を捨てることはできません。」

 「であろうな。」

 「今の宮中でまず成すべきことは学者派の巣食う現状をどうにかすることです。それができぬのに帝の右腕となれば、ただの出世競争の一点に終わります。」

 「学者連中は文句の一つも垂れていれば朝よりろく(給与のこと)が与えられる。だがな、時平。政(まつりごと・政治のこと)は能書きだけではどうにもならん。政の善し悪しは難しいものではない。いかに人が幸せに暮らすかだ。幸せならば善、そうでなければ悪。それだけだ。それをなせぬ者は、政の場から追い出されなければならない。」

 時平は、誰も聴く者がいないこの場で父がはっきりと「追い出す」と言ったのを耳にした。

 「父上、何かなさるおつもりですか。」

 「時を逃してはならない。しかし、時が来ぬのに動き出したらただの愚か者だ。今は時ではない。時が来たら、時平、そなたにも動いてもらう。」

 「承知しました。」


 それから三ヶ月、時平は朝から晩まで宇多天皇の側に待機する身となった。

 蔵人頭は天皇の日々の雑務を引き受ける役職であり、自身の政治的意見の表明や、議論への参加が仕事となるわけではなく、ある程度決まった日々の雑務をこなすのが仕事である。そのため、律令に反対するという時平の政治的意志が表に出ることはない。

 とは言え、自分と考えの一致する者かそうでないかはやはり違う。時平自身の政治的意志が現れなくても、時平に仕事を命じる宇多天皇の意志は出る。

 能有よしありが見込んだとおり時平はやはり有能だった。

 日々の業務はそつなくこなし、自分よりも年上であるはずの部下をまとめあげ、アドバイスは適切で、機敏に動き回っていた。

 そして、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く残って事務処理をこなしていたため、宇多天皇は煩雑な業務に追われることなく、目指すべき政治を突き進むことができた。

 宇多天皇は父の死という事態を受けて即位した身であり、また、正式な即位をした身ではない。つまり、先帝の失政が原因の政権交代ではなく、たとえ先帝の死が予期されうる状況であったとしても、現時点は不測の事態に対する臨時の状況である。こういった場合、真っ先に宣言しなければならないのが前政権の政治の継承であり、それは人事の継承という形をとることが多い。

 この時点の宇多天皇は先帝の人事をそのまま継承しており、基経もとつねは太政大臣であり、学者は相変わらず陣定じんのさだめで議論していて、二派の対立は変わらず続いている状況。そんな中、時平が蔵人頭になったのが数少ない例外であった。

 もっとも、蔵人頭が新帝擁立に伴い交代することは当たり前と見なされている上、若者の就く職務ということで他の職務より交代が多いので、時平を選んだということは注目を浴びても、このタイミングでの交代は特に注目を浴びず、そのため、時平の蔵人頭就任が先帝の人事を覆すものとは誰も考えなかった。

 だが、二派の対立はさらなる深みを生じており、基経もとつねの言葉を借りれば「時が来る」そのとき、そしてそれが人事という点での大変革を招くときは間近であった。


 「陣定じんのさだめは相変わらずか。」

 宇多天皇はため息混じりに話した。

 「はい。議論は一向に進まず、父はもはやその決済を求めてすらいません。」

 「太政大臣がそれでは情けない。時平、そなたの父を侮蔑するような言葉を言うのは気が引けるが、朕としては大臣も陣定じんのさだめも力を合わせてもらいたいのだ。だのに、それがこの対立。どうだ、朕自ら政務を取り仕切れば問題は解決せぬか?」

 「一人で全ての政をこなすことは不可能にございます。家臣に任せられるところは任せることも、帝たるもののつとめにございます。」

 「それはわかっておるが、任せようにも今の状況では任せられん。」

 宇多天皇は、当初利用しようとしていた学者派が頼りにならないことを理解した。しかし、基経もとつねに頼ることもできないと考えていた。能有よしありはよく働いてくれているが、相談できる相手ではなかった。また、時平は相談できる相手ではあるが、実力はともかく、頼りになれるほどの経験や実績がないと考えていた。

 結果、頼れるのは自分だけということとなる。

 それまでは排除すべきと考えながらも自分が手も足も出ない存在ゆえどうにもならないと考えていた基経もとつねのことを、このあたりになると手も足も出る存在と認識するようになり、軽視しだすようになっていた。

 学者派に対する意識はもっと低かった。議論はするが行動はせず、ただ理想を述べるだけ。メリットがあるとすれば文章を書く能力が優れているぐらいなもの。

 「ならば彼らに国の文書を記す役を命じてはいかがでしょうか。」

 「文章作成係か。」

 「彼らはその能力なら高いものがあります。わけのわからぬ議論をさせて遊ばせておくぐらいなら、筆の一本でも持って手を動かしている方がまだましです。」

 「手厳しいことを言うな。時平は。しかし、その考えはいいだろう。議論させるぐらいなら奴らに文章書きでもやらせておくか。」

 時平の言を受け、宇多天皇は国の正式な文書の作成を学者派に任せることにした。

 しかし、これは時平の仕掛けた罠であった。

 誰一人これに気づくことなく、この状態で一一月を迎える。


 一一月一七日、宇多天皇即位の儀。これで正式な天皇となり、先帝の政治の継承ではなく自身の考える政治の実現を迎える。それから二〇日までは祝賀の宴が設けられる。

 同月二一日、即位に伴う人事刷新が発表される。ほとんどの人事はこれまでと変わらず、これといって注目を集めなかった。

 ここまではこれまでの新天皇即位と同じである。

 ところが、二一日の午後、宮中にいる者の全員が、いや、都に住む者の全員が耳を疑う事態が起きた。

 宇多天皇は先帝の例を引き継ぐ形で、基経もとつねに国政を総覧するように命じた。

 「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし。」

 ここに初めて「関白」の語が世に登場する。

 ところが、これを基経もとつねが辞退したのである。

 基経もとつねの政務ボイコットは先例があった。それを都に住む者は忘れていなかった。基経もとつねの政務ボイコットはイコール物価高騰であることを。

 その知らせが広まると同時に人々はコメの買い占めに走った。結果は米価高騰である。米価暴騰は他の商品の値段も押し上げ、人々はコメ以外の物品の買い占めにも走り、店頭からは商品が消え失せた。

 この知らせは同日の夜にはもう宮中に届いていた。

 宇多天皇は基経もとつねのボイコットの恐ろしさをこのときになって初めて知った。

 思い当たる節はあった。それも自分の責任で。

 学者派の貴族との対立は解決しないどころかかえって混迷を深めるばかり。それでいて自分はその対立を利用して基経もとつねを追い出そうとし、最近では軽んじてさえいる。

 ところが、そうした宇多天皇の思惑とは反対に、事実上の最高権力者として国を支えているのが基経もとつねなのである。物価の安定も、治安の安定も、学者派の専売特許と考えられていた外交ですら、基経もとつねが支えることで成り立っていた。そしてそれを民衆はわかっていた。わかっていたからこそ、基経もとつねのいなくなった瞬間に民衆は自分たちの身と生活を守り始めたのである。

 宇多天皇は、基経もとつねの実の息子である時平を側に置いていながらそれがわかっていない、しかも、ねぎらいの言葉一つかけるでなく、軽視した上に追い出す算段に終始している。

 これでは職を辞したくなるのも当然である。

 今になってそれを理解したのだから遅すぎる。これは宇多天皇にとってあまりにも大きすぎる失点だった。

 宇多天皇は直ちに時平を呼び寄せ父を説得するよう命じるが、基経もとつねからの回答はNo。それどころか、国政の大事を親子関係に頼って解決しようというのは何事かと叱責される始末。

 ならばと、親子の情ではなく天皇の正式な代理として、蔵人頭としての時平に説得を命じる。ところが、これの返事もNo。太政大臣と蔵人頭では身分の差が大きすぎる。息子だからと接しはしたものの、オフィシャルな場面では問題であった。

 宇多天皇にとって基経もとつねのパイプは時平しかない。その時平とのパイプが公私ともに失われたのは痛手だった。

 となると一つしか手はない。

 天皇として直接基経もとつねに接するのである。

 だが、天皇が家臣の元を訪問することは断じてあり得ないこと。つまり、基経もとつねと直接話をしたいから来るようにと命ずるしかないのである。

 そして、二五日。

 宇多天皇は橘広相ひろみに命じて、そのための書状を作成させた。天皇からの公式な文書の伝達である以上、文書作成を担当する者の筆でなければならなかった。


 広相ひろみは推敲を繰り返し、自ら完璧と自負する内容の文書を仕上げた。内容を確認した宇多天皇はその文書を正式な詔勅として基経もとつねへと送る。

 こうした権力者宛の書状は二種類ある。ひとつは受け取った人間だけが読む書状、もう一つは公になる書状である。今回の書状は後者に属した。

 そのため、橘広相ひろみが何を書いたかが一般に公開された。広相ひろみが推敲を繰り返したのもそのためで、古今東西の名著からの引用が随所にちりばめられた文章になっている。一見しただけでも難しく、書いた人間は自分の知性の高さを大いに誇ったであろう内容であった。

 だが、忘れてはならないのは、このときの藤原家には目の前に陽成院という国内で最大の図書館があったことであり、その図書を自由に読める立場にあったということである。

 つまり、広相ひろみが相手を惑わそうと難しい単語を使ったところで、藤原家の人間はその意味を理解できるのである。そして、その文の中に「宜しく阿衡あこうの任をもって卿の任とせよ」との一文があったことが問題になった。

 阿衡あこうとは中国の殷王朝時代、優秀な臣下であった伊尹が任じられた官である。この故事を広相ひろみは引用した。

 ところが、「阿衡あこう」がそうした良い意味であったのはその時代だからである。全ての言語は時代とともに変化し、単語の意味も変化するもの。殷王朝時代は良い意味であった「阿衡あこう」もそれから一五〇〇年以上経ったこの唐代では「位は高いが職務はない」という窓際族への侮蔑的な意味を込めた言葉に変わっていたのである。

 それを知っている基経もとつねは、書面を見て激怒する。

 基経もとつねの立場に立てばわからなくもない。今まで一生懸命やってきて、冷遇されても耐えてきて結果を出し続け、そして、追い出されようとしているそのときに、自分の意志を露わにした。そのタイミングで届いた宇多天皇からの書状の文面が「阿衡あこう」。さらに、それを書いたのは、今までさんざん自分を疲れさせていた広相ひろみ

 これでは怒るのも当然である。

 これは単なる言葉尻をとらえての言いがかりと考えてはいけない。限界までストレスで追いつめられた者への最後の一撃であり、例えるならば、表面張力で何とかこぼれないでいるコップに注がれた最後の一滴なのである。

 もはや基経もとつねのボイコットは避けられぬものになった。

 広相ひろみがそのことを知っていたのか、それとも知らなくて書いたのかという問いについては、どうやら後者らしい。つまり、広相ひろみは善意でこの言葉を使用したのであろうと考えられている、と同時に、外へ目を向けることもなくなり、ただ古代の日本を理想としている広相ひろみという人物の能力の限界を示していた。


 さて、時平はこのとき何をしていたのか。

 時平はこうなることを知っていて、それでもなお高みの見物を決めていた。

 時平は基経もとつねと同様学者派と対立している。そして、学者派の追放にかける思いは父より強かった。しかし、基経もとつねほどの権力を持っていれば対立が成立するが、時平の権力では対立ではなく、一方的に危害を加えられる、イジメの被害者と同じ状況にある。それは陣定じんのさだめにおける時平の処遇からも見て取れる。

 今は蔵人頭として天皇のそばにいるから危険から回避できているが、その立場でなくなったときは容赦ない侮蔑と悪口雑音がぶつけられるはず。

 この状況で加害者である学者派にいかにして対抗するか。実力行使にしろ、口論にしろ、時平は多勢に無勢である。となると、無勢であろうと太刀打ちできる方策を考えねばならない。

 すると、先例が見つかった。

 陽成天皇の頃の、基経もとつねの政務ボイコットである。

 あの混乱を再度起こせばよい。そして、学者派の無能を再度公のもとにさらし、あわよくば、そのときより大がかりにして、学者派の追放といきたい。

 この考えに基経もとつねが乗った。基経もとつねにしても日々精神的に追いつめられ続けている状況である以上、追いつめる存在の追放は歓迎こそすれ非難するものではなかった。また、基経もとつね自身、心身ともの休養を欲していた。

 タイミングを狙ってのボイコットを計画し、その下準備を時平は整えた。

 学者派は、議論はすれど実務は全く行なっていない。その代わり、自分や父に対する攻撃だけは続けている。実務があればその失敗を攻撃し、責任をとらせるということで反撃は可能であるが、なければどうにもならない。

 そこで、学者派に実務をさせることにした。それも、学者だから可能であると思わせ、かつ、責任からは逃れ得ない実務を。

 と同時に、父には、宇多天皇即位の直後に政務ボイコットをするよう進言したのである。それも、学者派追放までボイコットを継続するようにと。

 だが、それは危険な賭であった。

 宇多天皇即位後の政務ボイコットはいい。これまでの宇多天皇の行動を見れば、基経もとつねがボイコットに出るのも当然と見てくれるであろう。

 問題はそのあとである。とにかく、基経もとつねの怒りが宇多天皇ではなく学者派へと向かわねばならない。

 そのためには、学者派が何かしらの失敗をしなければならない。なぜなら、その怒りは個人的な怒りではなく、太政大臣という責任ある立場からの怒りでなければならないからである。国の根幹に関わるような失敗の追求は太政大臣として当然の職務であり、その責任は臣下としての義務となるからである。

 となると、学者派が出てくる局面を用意しなければならない。

 では、それにはどうすればよいのか。

 時平は、宇多天皇と基経もとつねとの間に学者派が立つ場面を用意することにした。それは、天皇と太政大臣という二人の間を取り持つ役割を誰かが引き受けざるを得ない状況を作り出し、その誰かというのに学者派の誰かを就けるのである。

 そして、それは成功した。それも、学者派のボスである橘広相ひろみに仕事をさせることに成功した。それだけではなく、広相ひろみが自分からやりたがるような局面を用意して。

 相当な可能性で時平は広相ひろみの書いた書状を前もって見ていたはずである。そして、その文面を見た基経もとつねがどういった行動を起こすかも前もって知っていたはずである。

 にもかかわらず時平は放っておいた。

 望んでいた以上の結果が得られると確信したからである。


 案の定、基経もとつねの怒りは宇多天皇ではなく広相ひろみに向かった。

 これまで時平の受けてきた処遇が父としての怒りを呼び起こしたということもある。

 だが、理由はそれだけではなく、基経もとつねはどうしても広相ひろみが許せなかったのだと思われる。理想を語っては責任から逃れ、働きもせず文句ばかり、それでいて国から給料を貰っている広相ひろみが。

 基経もとつねはその逆である。理想よりも現実に立ち向かい、責任は一手に背負い、文句も言わずに働き続け、国から給与を貰うどころか国の赤字のために自分の財産を提供し続けている。

 だが、それも限界があった。

 基経もとつねの怒りは激しいものがあった。史書によれば基経もとつねは厩の馬を全て市中に放って怒りを表したというが、これは本当かどうかあやしい。ただし、基経もとつねが治安維持までボイコットしたのは事実であり、意図的に馬を放ったのではなく、暴れ馬を抑えるだけの市中の治安維持もなくなったことに尾鰭がついた噂であろう。

 それでも、前回の時のように急激な経済危機は三つの理由から起こらなかった。一つは季節。収穫を終えたばかりということで作物の備蓄は機能していた。二つ目は収穫の多さ。天候不順から凶作となっていた前回と違い、今回は豊作であった。そして最後の理由、それは能有よしありの存在である。

 能有よしあり基経もとつねの数少ない協力者であると同時に、宇多天皇の政務を支える貴族の一人である。三位に昇進しているため陣定じんのさだめに顔を出すことはできないが、同時に、ある程度の権限を持っている。

 能有よしありはその権限で時平への接近を図った。蔵人頭である時平は本来、天皇の秘書ではあっても政務に口出しできる立場にはないが、やはりというべきか陣定じんのさだめは役に立たず、宇多天皇は混乱の中どうすればいいかわからずに右往左往している。その中にあって時平は明確な意志を持っていて、その思いは能有よしありと共有できた。

 反律令である。

 能有よしありは時平の考えに全面協力することを申し出た。

 今ここですべき事は、基経もとつねがボイコットしていると宣言していても、基経もとつねはやはり動いているのだと思わせることである。

 そのためには時平が全面に立つほうが効果があった。

 時平の掲げた政策は、積極財政ともとれるし、消極財政ともとれるものであった。

 まず、民衆へのコメの無料配給と無償医療を停止した。そして、税率を一気に下げると同時に、貧困ゆえ免税となっている者にも税を課したのである。その代わり、都に逃れてきた者に農地と農機具を援助した。

 現在の感覚で行くと、福祉の削減と失業対策である。福祉は削るが、仕事は与えるし税も安くする。だから、税はきちんと払え、ということである。

 次に、これまでは貴族の独占であった高価な品々、食べ物や衣服、毛皮、陶器などの輸入品、そして図書を一般庶民でも買えるよう市場に開放した。

 さらに、このころから存在が確認できるようになった武士つはもの(「つはもの」は当時の呼び名)を宮中で正式に採用し、都の警備にあたらせた。

 そして最後は公共事業である。道路を造り、橋を架け、建物を建てた。

 これらの政策は、時平自身が生み出したものと、基経もとつねが発案し時平を通じて行わせた政策、そして、能有よしありの考えた政策とに三分できるが、どれが時平自身で、どれが基経もとつね発案で、どれが能有よしありのアイデアなのかはわからない。表面上はあくまでも宇多天皇の政策となっていたからである。

 だが、当時の人はわかったのである。いくら宇多天皇の名の政策であろうと、実際には背後に基経もとつねがいることを。


 そして、これらの政策が、財政も、治安も、景気対策までも改善させたのである。

 財政難については、前述の通り福祉の削減である。福祉はどんなに善意から来るものであっても、他の項目以上に膨らみ、国家財政を悪化させる。その福祉を削ったことで国家財政は一気に赤字から黒字に転換した。

 都の治安を悪くさせる最大の存在は、農地を捨て都に逃れてきた元農民である。彼らが都にあっては犯罪者となり、治安を悪化させる要素となっていることが多々見られた。その彼らを再び農民にしたことで都の治安悪化の要素が減ったばかりか、失業率改善に加え収穫の増加をもたらすことになった。

 中には農民に戻りたくないと考える者もいた。だが、都に残っても犯罪で生活するなどできなくなっていた。都に武士が現れるようになったため、犯罪者が彼らを恐れるようになり、行動を控えるようになった。

 犯罪とまでは行かなくても、何とか生きていこうと都に逃れてきて、結局は都でもどうにもならず、他者の施しで生きる者は多かった。これまではその施しを国がしていたが、時平はそれをなくした。その代わり、工事に参加すれば給与を渡す保証をし、そのためには藤原家の財産の処分までした。その中には陽成院から借りた図書の写しや、服、家具、食器まであった。

 そうして貰った給与を持って市場へ行くと、これまでは見たことも聞いたこともなかった高価な品、ついこの間まで藤原家で使われていた食器や、海外から輸入された毛皮などが売られていた。無論、手軽に買えるものではない。しかし、カネで買える。

 これまでは貴族でなければこのような物がこの世にあるなどと知ることすらなかった。知ったとしても、自分の物にできるなど想像するだけ無駄であった。

 それが今は、カネでどうにかできるのである。貴族と同じ食事だろうと、貴族と同じ服だろうと、働いて得たカネでどうにかなるのである。

 これは未来に対する希望であった。一生懸命働けば貴族と同じ暮らしだってできる。その希望であった。

 景気は数字ではなく感覚である。どんなに数字を列挙して今の景気は悪くないと言っても、景気が悪いと感じればそれは不景気であり、理屈でどうこうなるものではない。

 そしてその感覚の生まれるのは、未来に対する希望であることが多い。昨日よりも今日、今日よりも明日の方が素晴らしい日になると感じれば、景気は良いと感じる。逆に、未来への希望がなければ、どんなに数字が良くても不景気になる。

 公共事業を税金の無駄と断じるのは短絡的すぎる。福祉は今をどうにかするものだが未来への希望はない。逆に、公共事業は工事に関わる者には今の生活を与え、そうでない者でも未来を作る。そういう側面だってあることを忘れてはいけない。


 宇多天皇にとっては複雑な感情であった。

 本来、能有よしありも時平も自分の手足となるべき存在であって、頭はあくまでも自分でなければならないはずである。それが、手足が頭になり、しかも結果を出している。

 政治的意見は同じであるが自分の手足にすぎないはずの時平や能有よしありが、権力の対立軸にあるはずの基経もとつねと手を結び、その合わさった力が国政を動かして結果を出している。

 自分は何もしておらず、憎み見下していた存在が結果を出す。これほど悔しいことはない。

 宇多天皇にも基経もとつねのボイコットでもとりうる策はあった。基経もとつねのやっていた実務を自分で引き受けることである。基経もとつねの政務ボイコットで迷惑を被るのは一般庶民。つまり、一般市民向けの政策に心を配り、結果を出しておけば、基経もとつねがいなくても国政に影響はないとアピールすることができるのである。

 だが、宇多天皇の生涯を見て感じるのは、この人の政治的能力のなさである。政治的意見はあったと思われるが、その場の適切な対処ということがなされていない。

 その代わりにやっていること、それが権力争いである。つまり、まともな執政者であれば権力争いよりもそのときの問題解決を優先させるべきであるが、宇多天皇はそれよりも権力争いを優先させている。

 これは民衆を失望させた。

 いかに宇多天皇の命で行われている政策であろうと、実際には基経もとつねが背後にいることを誰もが知っていた。つまり、宇多天皇は自分たちを見捨て、宮中に籠もって権力争いに終始していると見たのである。

 権力争いなら基経もとつねだってそうではないかとなるが、民衆の感覚は違った。基経もとつねはこれまで自分たちの生活を支えてくれた恩人であり、その基経もとつねがボイコットに出ているのも権力争いの被害者になったからだと考えられたのである。しかも、自分自身はボイコットしているが、能有よしありや、子の時平を通じて自分たちの暮らしを良くする政策を進めていると考えられた。

 その逆に、学者派の、特に広相ひろみの評判は最悪であった。今回の危機を招いている元凶と見られ、広相ひろみの屋敷への落書きに始まり、屋敷への投石、牛車への物の投げ込み、さらには汚物まで撒かれる始末。ついには宮中に籠もって自宅にも戻らなくなってしまった。

 もし、この時代に普通選挙があり、藤原党と学者党とで一議席を争う選挙があったら、藤原党の候補者は開票開始から五分で当選確実を手にしていたであろう。


 「状況は時平に有利だな。」

 陽成上皇は時平に打ち明けた。

 「定省さだみは何をして良いかわからず、広相ひろみは動くに動けず。一方で太政大臣は閉じこもりながら、伯父君(=源能有よしあり)や時平を通じて動き続けている。朕の頃は都に混乱を招いたが、今の都に混乱はない。それどころか民衆は宮中のこの騒ぎを楽しんでいるかのようではないか。」

 陽成上皇は、即位した後の宇多天皇も「定省さだみ」と呼び捨てにしていた。それは、表面上はともかく、内心では宇多天皇の即位を拒否していることを示した。

 「それは民衆の正しい行動にございます。確かに国政は混乱しておりますが、民衆の血は一滴たりとも流れておりません。だとすれば、暮らしが守られれば騒ぎを楽しむこともできましょう。」

 「しかしな、時平。国政の混乱は長引いて良いようなものではない。何とかして安定させねばならんとは思わぬか。」

 「広相ひろみが追放されれば解決します。」

 「そう簡単に言うな。」

 「いえ、簡単でございます。民衆の怒りが集中している人間を庇うことは得策ではございません。それに、誰かは責任をとらねばならないのです。今までありとあらゆる責任から逃れてきたのですから、今回のことぐらいは責任をとってもらわなければ割に合いません。」

 「なかなか意地の悪い。」

 混迷の続くさなか、陽成院は一つの声明を出した。今回の騒動に対する基経もとつね支持と、広相ひろみの責任追及である。ただし、宇多天皇の責任に対する声明はなかった。

 宇多天皇はこのとき、時平が陽成院との関係を切っていないことを知った。

 手足が頭に変わっているだけでも納得していなかったのに、ここにきて陽成院が自分に反旗を翻したことは怒りを呼ばずにいられなかった。

 「おのれ! 裏切りおったな、時平め!」

 その怒りは時平に集中した。

 声明を読んだ宇多天皇は、その紙を丸めてたたきつけただけでなく、周囲にある物を手当たり次第に投げて怒りをぶつけた。

 だが、それでも腹の虫が治まらず、時平に対し出仕するよう命令。

 しかし、時平はその命令を拒否。それだけではなく、陽成院の提言が受け入れられるまで、父と一緒にボイコットに参加すると宣言した。

 さらに、能有よしあり基経もとつねのボイコットに同調すると表明。

 能有よしありのボイコット表明は、それまで態度を不鮮明にしていた貴族達を行動させるきっかけとなった。

 宮中を見ると、ボイコットに入った者が数多くいるのに気づかされた。その全員が陽成院のサロンに顔を出している者だった。

 陽成上皇の復讐が始まったと宇多天皇は考えた。

 この状態のまま年を越す。


 基経もとつねだけでなく能有よしありも時平も失った宇多天皇は静かだった。本来なら祝宴の繰り広げられる新年だというのに、宇多天皇は宮中の奥に籠もったまま出てこなくなった。

 宇多天皇は宇多天皇なりに状況解決を図っていたのである。だが、そのどれもがうまく行かなかった。

 「阿衡あこう」という語は本当に基経もとつねの言うとおりの意味なのか調べさせたが、何度調べても基経もとつねの言うとおりという答えしか出てこなかった。

 怒りを解いて出仕することを願う手紙を持たせたが、学者派の、特に広相ひろみの追放がなければ復帰はしないと宣言され、宇多天皇はそれから先の言葉を詰まらせた。

 このときの宇多天皇を救ったのは学者派と目されていた一人の貴族であった。

 菅原すがわらの道真みちざねである。

 このとき、道真は讃岐守として讃岐国(現在の香川県)に赴任していた。その讃岐から道真は基経もとつねに書状を送ったのである。

 書状は、「阿衡あこう」という語は元来優秀な家臣に与えられる称号であること、今の基経もとつねの主張が政治の混乱を招いていること、それによって起こるであろう地方の混乱は都では想像もできない惨状となるはずであることが記されていた。

 問題はこの最後の訴えである。

 基経もとつねの政務ボイコットが始まってから打ち出された政策は、都とその周辺にターゲットを絞ったものであり、それ以外の地方には影響を及ぼさなかった。デメリットだったのではない。ただ、都では感じられたメリットも地方では感じられないのである。

 しかも、中央政府の混乱が地方に飛び火した結果、地方の民衆の暮らしは、今はまだいいが、そのうち悪化することが明らかとなった。そう道真は主張した。

 その地方の混乱の根拠となったのは、中央の統制が効かなくなったことによる地方貴族の武士化である。時平もこの新たに誕生した武士という人々に注目していたが、時平の目に映る武士とはあくまでも武力を持った集団ということに過ぎないのに対し、道真が現実に直面している存在としての武士は、中央の権力が及ばない隙をつき自らの権力を形成する存在であった。

 この新たな権力の台頭を抑える必要を道真は説き、そのためには中央政府の混乱を収束させることが欠かせないという主張をして、書状を結んだ。


 このときの道真の貴族としての地位は従五位上。再難関の国家試験である「方略試」に合格したことで貴族の一員に列せられたという、典型的な学者派の貴族である。

 現在は学問の神様として受験生の信仰を集めているが、方略試の試験結果は「及第中上」という結果であり、世間の注目を集めるような結果ではない。もっとも、方略試の合格者は二三三年間でわずか六五人という超難関試験であり、それの成績内容はともかく、合格したというそのことが道真のプライドを形成していた。

 しかし、それ以前から道真はなかなかの有名人であった。

 まずはその美貌。

 若いときの道真は美少年として名を馳せ、文章生もんじょうせい(現在の大学生のような身分。ただし、ごく一部の知的エリートしかその地位になれない)に一八歳で選ばれたときには都中の女性がその美少年の姿を一目見ようと文章寮もんじょうりょう(現在の大学のような機関)に押し寄せたという。

 また、この当時の道真は在原業平と一緒に行動することが多く、当時、遊女あそびめが数多くいることで有名であった京都大山崎を二人で何度も訪れていることが目撃されている。

 その美貌は三十路を迎えても衰えず、数多くの女性と浮き名を流していた。資料によってばらつきがあるが最低でも十四人の子をもうけていることは確認できている。

 次に、運動神経。

 道真に限らずこの時代の貴族とスポーツとではイメージが結びつかないが、スポーツはわりと盛んであった。蹴鞠や相撲、弓道、乗馬といったところが行なわれており、それが女性からの評判を獲得するに多いに役だっていた。

 道真はその中でも弓道を得意としており、一説によれば、百回射って全てを的の中央に命中させたと言う。この話は誇張を含んでいると思われるが、弓道の競技大会で優勝していることや、庭には弓矢のための施設を設置していたことは記録に残っているので、弓道に対する深い思い入れはあったと思われる。

 ちなみに、この弓道趣味は晩年の道真の運命を支えることとなる。


 最後に、その国際センス。現在の日本では英語を自由自在に操れると国際人であるという風潮があるが、当時は中国語の文章を自由自在に操れることが国際人であるとの認識であった。

 道真はその達人だったのである。

 その道真の能力が如何無く発揮されたのが元慶六(八八二)年の渤海ぼっかい使の来日であった。

 その前の渤海使の来日の折にも道真は渤海使の相手をしているが、そのときはまだ末席であり、将来を期待できる成果は残したものの、全体から見ればさほど重要な役を果たしたとは言えなかった。

 しかし、それから十二年の時が経ち、三八歳になって貫禄もついた道真は、このとき、日本側の最高責任者に任命された。

 渤海は日本海の向こう、現在の沿海州から韓国北部に掛けて存在していた国である。この国の扱いは中国史では中国東北部に存在した中国の一部を成す地域国家、韓国史では韓国の北半分であったということで南の新羅と北の渤海という南北朝時代となっている。

 渤海はこの当時の日本の最大の同盟国であり、使節の来航も定期的に行われていた。

 その供応役は常にその時代最高の知識人が勤めることになっていた。

 なぜか。

 この時代のアジアにおける教養とはすなわち中国語であり、中国語の古典を読み、中国語の文章を書き、中国語の詩を詠むことが教養ある知識人としての証明のようなものであった。

 実際、唐が関係しない外交であっても、その文書は常に中国語で記されているし、意志の疎通も中国語の筆談である。中世ヨーロッパにおけるラテン語や、近世でのフランス語のような地位に、この時代の中国語の文章は君臨していた。

 となると、自分の国の文化を示すときの手段も中国語になる。「自分の国にはこんな立派な中国語の文章を書けるのがいるのだぞ」「うちの国なんかこんな素晴らしい詩を詠めるのがいるのだぞ」という感じで。

 つまり、これは、外交であると同時に、文書や詩という競技を競う国際試合なのである。サッカーやバレーの日本代表の試合のようにホームに相手を迎えての試合であり、道真はその日本代表のキャプテンを務める人材だった。そして、国中の期待を一身に背負うだけでなく、その期待に応えた結果の貴族入りだったというわけである。


 道真の手紙を受けた基経もとつねはここで条件を出した。

 広相ひろみを遠流に処すれば直ちに復帰するという条件である。

 そして、基経もとつねはこの書状を時平に届けさせた。

 これは基経もとつねからの妥協である。書状の内容はともかく、時平の出仕を回復させたことは、自分も早期に復帰する準備でいるというアピールであった。

 しかし、その一点の条件が宇多天皇の譲れぬところであったのである。しかも、この書状の読み上げられた場には広相ひろみがいた。

 名指しで非難され、追放を求められるという場面で、平然としていられるわけはない。

 「大臣ともあろう方が何という言いぐさか!」

 広相ひろみは、言葉こそ基経もとつねへの苦言ではあったが、その視線は時平を睨みつけるものであった。

 「いったい私が何をした!」

 「何もしていないのが問題なのです。」

 「何を言うか! 私がこれまでどれだけ苦労したかわからないのか!」

 「わかりません。わかる価値もありません。」

 「何だと!」

 「あなた自身がこれまでの自分はいかに苦労をしたかを語ろうと、そんなのは何の関係もないことです。あなたがどれだけのことをしてきたのか、いや、するべきであったどれだけのことをしないできたのか、それが問題なのです。何かあるとすぐ律令への回帰を叫び、うまくいかないときは現実を否定し、後は他人のやることなすこと文句ばかり。陣定じんのさだめに籠もって議論して日々をやり過ごし、働きもせずちょうより禄をもらうことのどこが苦労ですか。」

 時平は基経もとつねと共有している思いを、隠すことなく口にした。

 広相ひろみも黙ってはいなかった。

 「恵まれた家系に生まれ育ったというだけで地位を掴み、何もかも一人で決めるのがそれほど偉いのか。」

 「それが問題だというなら太政大臣を罷免なさればよろしいでしょう。太政大臣なる職務が神代の頃からあったわけではありません。今の太政大臣は帝に従わぬ者なのですから、律令に従って太政大臣を罷免なさい。」

 これは意地の悪い返答であった。

 律令に従えば時平の言うとおり罷免されるべきは基経もとつねなのである。だが、そんなことできるわけがないとここにいる誰もがわかっていた

 基経もとつねの持つ権力は言うまでもないことであったが、理由はそれだけではない。

 基経もとつねには都の庶民の支持があった。

 それは、広相ひろみには嫌と言うほど理解できていることであった。

 律令に従って基経もとつねを罷免したら、後に残るのは混乱程度では済まない。下手をすれば内乱である。

 「どのようにお決めなさろうと、それは主上次第にございます。」

 時平はこう言って場を退出した。

 宇多天皇は覚悟を決めかねていた。


 四月、宇多天皇は左大臣源融みなもとのとおるに命じて博士らに阿衡あこうに職掌がないか研究させた。とにかく、「阿衡あこう」という単語の用法に問題点とならないような前例が見つかれば、それで基経もとつねの主張を覆すことができる。これは最後の賭であった。

 さらには、古典文書の改竄も検討された。だが、これは始める前から失敗に終わった。陽成院という最大の図書館が藤原側に存在する以上、改竄はすぐに判明すると悟ったからである。

 もはや「阿衡あこう」という単語の問題ではなかったのだが、宇多天皇にしてみれば、問題の原点に立ち返り、問題提議が間違っているとするしか、基経もとつねの要求を覆す手段はなかったのである。

 だが、一ヶ月かけた研究の甲斐も空しく、回答は基経もとつねの言うとおりであった。

 広相ひろみはこれに反発し、そのような思いで書いたのではないと激しく主張する。

 しかし、その反発を聞く者はもういなかった。

 六月二日、宇多天皇はついに広相ひろみの追放を決定した。

 その上で「阿衡あこう」の文書を取り消した上で、再び「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし」の宣下を行ない、基経もとつねはその内容を受諾。

 ここに、世に言う「阿衡あこう事件」は終わりを迎え、「関白」という新たな地位が誕生した。

 宇多天皇は無念の思いを日記に記したが、都の庶民はその決定に狂喜乱舞した。


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