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第二部 藤原時平の登場

 陽成天皇は陽成上皇となった。

 一七歳での上皇はあまりにも若すぎた。

 そして、誰の目にも恐れられる存在であり続けた。

 何の恐れか?

 内乱の恐れである。

 このときの陽成上皇は内乱の首謀者としてあまりにも適任であった。若くして帝位を奪われたために隠居生活に送り込まれた不遇な日々。しかも、かつては理想に燃え、太政大臣に辞表を提出させるまでに追い込んだ実績。そして、その太政大臣は今も太政大臣であり続けているという現状。

 今の政権に不満を持つ者が陽成上皇をシンボルに掲げて反乱を起こしたとしたら。それが失敗に終わろうと、それを起こるということを考えるだけでも今の朝廷には恐怖であった。

 国家予算の危急は軍事費にも飛び火していた。この時代は治安維持すら困難なレベルの軍事力しかなかったのである。出羽や上総の反乱は鎮圧できたが、現時点の国家財政はその時よりも悪化している。その状況でもし、人口の一割が集中している都とその周辺で何か起こったらと考えると、その結末に幸福をイメージさせる要素は何一つない。

 この恐れを食い止めるために朝廷がとった方法、それが、陽成上皇の事実上の隔離である。宮中から追い出され、陽成上皇は母高子たかいことは離れて暮らすようになった。これ以後藤原貴子は政界のキャスティングボードから名が消えるようになる。

 生まれて初めての母親からの自立であるが、それは自由の獲得ではなかった。外に出る自由も限られ、名目は上皇の身を守るための警備が屋敷を取り囲んでいる。訪問することが禁じられているわけではないが、誰がいつ足を運んだのかは全て記録され公開される。この状況で陽成上皇のもとを訪ねるのは一握りの人たちだけとなった。

 ちなみに、陽成上皇の「陽成」の名は、この隔離のために用意された屋敷の名である「陽成院」から来ている。

 退位してからは陽成院の外に出ることが少なくなり、詩を詠むか、本を読むかして時間を過ごすのが陽成上皇の日課になった。その日課にほぼ毎日登場する唯一の人間、それが時平である。


 陽成院と藤原家の邸宅とは二条通りを挟んで向かい合っている。そのため、時平が陽成院を訪問することを咎め立てることがあったとしても、隣人宅の訪問であると抗弁することができた。

 時平が陽成院を訪問するのは父の命令でもあったが、仮に禁止されたとしても時平はその禁を破って訪問し続けたであろう。それには時平なりのメリットがあったのだから。

 まずは、その知識欲。

 陽成上皇は退位後、その財産のほとんどを図書購入にあてている。上皇に相応しいだけの財産を得ているが、それを使うには制限があった。武力による帝位奪還が恐れられている以上、朝廷が定めた以上の人を雇うことも、武器になりそうなものを買うことも禁じられた。しかし、本ならば許されていた。いや、推奨されていたというべきか。本ならば内乱の恐れなしとして。

 紙自体が高級品であるこの時代、本を持っているというだけでもその人の裕福さが推し量れた。本の所有量が多い場合は不正蓄財が疑われたほどである。だが、上皇ならばその心配はなかった。何しろ、その財源がどこなのかも、それを何に使っているのかも朝廷が監視しているのだから。

 この世に何冊とあるわけではない貴重な本でも陽成院にならばあるという評判が立った。その評判は、陽成院を訪問する新たな種類の人たちを生み出した。読書家という新たな知識層である。

 体系的な学問を学ばされて試験で振り分けられる大学と違い、読書家の目的は知識を深めることそのものである。読む本の質や量にも左右されるが、こうした読書家は国に不満を持つことが明らかになっていない者であることが多く、朝廷も彼らは無害と判断して、陽成上皇のもとを訪ねるのにこれといった妨害は起きなかった。

 結果、陽成上皇を中心とする読書家という知識層のサロンが形成されることとなり、時平はそこに名を連ねるようになった。そして、時平は、それらの本を読むことも、自宅に持ち帰ることも許されていた。

 そうして持ち帰った本は藤原家に仕える専門の職人や、時には時平自身の手で筆写され、藤原家の図書コレクションを増やすのに役立った。


 次に、いずれは就くことになる執政者としての素養形成。広相ひろみをはじめとする学者派のように律令に萌えるのではなく、現実に対処する能力の形成である。これは父の意向でもあった。

 読書傾向は性格形成にも現れる。特に、父という国家最高の実務家がいる藤原家において推奨される本は、実用的な本や、歴史書の中でも事実を記した記録であることがほとんどで、理想や思想は歓迎されなかった。もっとも、時平自身がそうした実用書を好んで読むようになっていたこともあり、特に問題は起きなかった。

 そして、かつては広相ひろみの考えに感化された時平が、今では広相ひろみの考えを一蹴できるまでの思考を持つようになっていたことは父を喜ばせることにもなった。

 そして最後は人脈。

 時平が執政者となったのち、時平の味方をしてくれる者がどれだけいるか。これも基経もとつねの意向であるが、陽成上皇のサロンに集う者を仲間とするよう画策したのである。

 サロンに集う者は単に本を読むだけの者ではない。読書家というカテゴリーに縛ることはできるが、宮中においては各人の役を与えられた政権の歯車の一部である。宮中にあって時平と接するなどまずあり得ないことであったが、ここでなら接することができた。身分の差を超えてとまではいかないが、サロンでは人と人との接触があり、時平はここで自分とともに働ける者を見つけ出した。彼らは後に時平の手足となって働くこととなる。

 だが、時平にとって最大の人脈は何と言っても陽成上皇である。自分に退位を迫った人物の子という思いはなかった。陽成上皇の前にいるのは自分の弟のような者であり、自分の意志を聞き入れてくれる者であった。

 陽成天皇に失格を突きつけた基経もとつねではあるが、陽成上皇は基経もとつねにとって必要な存在であり続け、時平にとっては自身を生涯支えるかけがえのない親友となるのである。


 「今のこの国を省みて感じるのは働かずに生きる者の多さです。」

 時平の性格が形作られていることは陽成上皇にも理解できていた。生前の源益に似た性格になってきたとも感じていた。しかし、その時に感じたような反発心は抱かなかった。

 いくら太政大臣の子とは言え、上皇にここまで親しげに接し、それに対し、上皇も気分を損ねないどころか、むしろ喜ばしげに見ているのは、書を求めにこの陽成院に来た者たちにとって驚きでもあった。

 そして、かれらはそこに、藤原一族の権勢の高さを見た。

 「時平、働かずに生きるというのは施のことか。」

 「いえ、より広いことです。高すぎる税は民を疲弊させ、その結果、民は逃亡し、荘園に逃れ、増収どころか減収を招いています。その減収の穴埋めのために増税し、それがさらなる減収を生む。この悪循環がこの国の問題です。働いて財を得ると高い税が課せられる。働かないと税は課せられず、それどころか誰かが善意で養ってくれる。どちらを選ぶかと問われたら、誰だって後者を選びます。しかし、もし、働いて財を得た者の税をあえて低くし、逆に、働かない者には誰も何の手助けもしないとすればどうなるでしょう。」

 陽成上皇は時平の言いたいことがわかった。

 まるっきり律令の逆である。

 「真面目に働いている者が恵まれた暮らしを送るべきです。その真面目に働いている者の犠牲の上で働かずに日々を送る者まで救ってやる必要はありません。医療の無料はもはや限界を超えました。コメの支給も限界を超えました。手厚い保護という名目のために今の苦しみがあるのですから、捨てるべきは手厚い保護のほうです。」

 律令は手厚い福祉を謳っている。しかし、時平はその逆、福祉を削ることを主張している。

 時平の言うことが正しいかどうかわからない。ただ一つ言えることは、律令は失敗したということである。

 広相ひろみに感化された少年はもういなかった。そこにいたのは広相ひろみを完全に否定する、すなわち、公然と学者派に反旗を翻す若者であった。

 しかも、それは太政大臣の子。つまり、数年後には国政の中心に姿を示す少年である。

 陽成上皇は、これまで幼い弟のように思っていた少年が成長したことを感じていた。と同時に、このままでは時平と学者派との間に血なまぐさい対立が生じることも感じた。

 だが、上皇となってしまった自分にはどうにもできなかった。


 危惧されたとおり、光孝天皇は健康ではなく、健康面から政務に支障が生じることさえ起こるようになった。

 その穴を埋めていたのが太政大臣としての基経もとつねである。光孝天皇即位直後のような両派の友好関係などそこにはなく、事実上、基経もとつねが、能有よしありら数少ない協力者とともに政務を執り行うようになっていた。

 それでも、基経もとつねの政務は国に安定をとり戻していた。コメの値段は落ち着き、収穫の安定も手伝って、都に逃れる難民や土地を売る農民が減ったのである。それは荘園の縮小を、特に、陽成天皇の頃の混乱で所有地を広げた者の荘園の縮小を招き、学者派の貴族に経済上のダメージを与えた。

 そんな中、基経もとつねに味方する若者が宮中に姿を見せることとなった。時平である。

 翌仁和二(八八六)年一月二日、年明け早々に時平に元服をさせた基経もとつねは、元服の場所に宮中、それも仁寿殿という宮中のど真ん中にある最重要儀式のための場所を用意させた。

 さらに、元服と同時に与えられる冠を授けるのは光孝天皇、儀式の場には祝いの金銀で飾られた品々が並び、雅楽が吹奏され、貞数親王をはじめとする上卿の子弟が舞を演じ、おまけに元服と同時に正五位下の位を授けるという異例尽くしの元服の儀となった。

 これは世の中に藤原派の勢力がどれほどのものであるのかを示すものでもあった。

 そして、時平はこのとき広相ひろみと久しぶりの再会を果たす。

 参議となっていた広相ひろみは、位の上では自分よりも下ではあるが、いずれは基経もとつねの跡を継ぐこととなる少年に、相反する二つの感情を示した。

 一つはかつての弟子の成長を喜ぶ顔。

 もう一つは、その少年が憎き基経もとつねの子であり後継者であることを睨む顔。

 後ろに基経もとつねがいるからとは言え、今ここに広相ひろみがいるのは天皇の命令でもある。本心としては従いたくなかったが、拒否することは得策ではなかった。

 自分が基経もとつねと相反する存在であると認識している広相ひろみは、その出世のスピードが明らかに遅いことを気にしていた。いや、気にしていたどころではない。広相ひろみにとっては出世レースこそが人生の全てであったのだ。


 まったく、学者派としての名声を得ていながら、それも学識の高さから絶大な尊敬を集めていながら、参議止まりというのは屈辱以外の何者でもなかった。陽成天皇を弟子にしたときでさえ、出世という広相ひろみの要求が満たされることはなかった。ましてや、その陽成天皇失脚後では出世が厳しくなる。

 ならば、これまでのことを清算して基経もとつねに取り入るか。

 それはできなかった。何と言っても自分の宮中における存在価値は学者派に身を置くことであり、基経もとつねに取り入ること、すなわち、学者としてのこれまでの人生を全て破棄することは、自分の存在理由を消すことでもあった。

 そうなったとき、自分に出世など無かった。

 そして広相ひろみは考えた。基経もとつねとの関係は最悪でも、時平とならばどうにかなるのではと。何しろ、かつての弟子なのであるから。

 時平はそうした態度の広相ひろみに対し、礼節を尽くした態度で応対した。

 だが、このときの様子は陽成上皇にこう話した。

 「宮中には出世目当ての俗物どもが多すぎます。広相ひろみも含め。」

 時平が広相ひろみを下の名の呼び捨てにしたことも、陽成上皇はもう驚かなかった。

 「時平は出世したくないのか?」

 「私が出世することでこの国が豊かになるなら望みます。」

 このとき、陽成上皇は時平の出世欲の無さを初めて知った。

 時平の人生を調べてみて感じるのは、その個人的な欲望の無さである。出世にも、蓄財にも興味がなかったのではないかと考えざるを得ないほどに、時平には個人的な欲望が欠落していた。

 しかし、それは無欲ではない。むしろ貪欲である。その欲望の矛先が物欲ではなく名誉欲に向かっていると考えればよい。

 「広相ひろみも所詮は出世を望む人間の一人にすぎなかったということか。」

 「ええ。」

 藤原時平一六歳、陽成上皇一八歳、この若い二人はもう広相ひろみから決別していた。


 時平が元服する前と後とで、陽成院のにぎわいは激変した。名目は陽成院にある書であり、あるいは陽成上皇への拝謁であったが、本音は時平にあった。

 基経もとつねの後を継ぐことが既に決まっているとあって、今ここで時平に接しておけば、時平が権力を握った後にいろいろと便宜を図ってくれるだろうという打算である。

 もっとも、時平は礼儀を守って接しはしたが、それ以上はなかった。それは陽成上皇も同じで、時平元服前から陽成院に足を運んでいた者や、純粋に書を求めに来た者でもない限り、彼らの満足いく結果は得られなかった。

 しかし、そうした者は国家の中枢を知る者がほとんどである上に、これまでは宮中ということでフィルターにかけられていた情報、特に、気分を害するような内容のものでさえ、ダイレクトに陽成上皇に伝えられるようになったことは有意義であった。

 結果、陽成上皇や時平が意識しないうちに国の最新の情報が陽成院に集うようになった。

 「帝の体調は思わしくないようです。」

 本来なら再重要機密として伏せられるべき内容でさえ、陽成院に行けば自由に手に入るようになった。

 「しかし、帝にはたくさんの御子がおられます。帝位に就くとなると御子の中からの即位となりましょう。」

 「上皇の復位はないということですか。」

 「はい。」

 「して、その中のどなたが帝位に。」

 「……、たいへん申し上げにくいのですが……」

 「なるほど。言葉に詰まるということはあの方ですね。」

 時平はその答えが誰なのか想像ついた。

 それは、陽成上皇の逆鱗に触れること間違いない名前であった。

 「困りましたね。私は再び上皇に帝になっていただきたいと考えていたのですが。はてさて、どのように帝にそのことを伝えればよろしいでしょうか。」

 光孝天皇の容態を伝えた者は、時平のその口調に戸惑っていた。決して無礼な口調ではない。むしろ丁寧な口調である。しかし、その口調が礼儀正しいと言えるかと問われると、その答えはNoである。

 「私は父の権勢という重石があり、下手に行動すると色々と勘ぐられてしまいます。おお、そうです。橘広相ひろみ殿ならば適任ではないでしょうか。橘殿は帝であられた頃教えを請うていた方です。いうなれば師匠に当たるのですから適任ではないでしょうか。」

 陽成上皇のことを知り尽くしている時平にはそれをしたらどうなるか理解できていた。その上で行なった時平の嫌がらせである。

 だが、これを聞いた広相ひろみは嫌がらせだとは全く感じず喜びを隠さなかった。

 陽成上皇との悪化した関係もこれで修復できる喜びというのは三割程度しか正解にならない。広相ひろみにとって重要なのは時平が自分を指名したということである。それは未来への展望であった。無論、その未来とは出世のことである。


 一方、基経もとつねはそのころ、光孝天皇の後継者探しに奔走していた。

 自身の後継者については全く問題がなかった。わずか一年というハイスピードで時平を従四位下に昇進させ、右近衛権中将にさせたことで、自分の後継者は時平であると公にしていたからである。時平はまだ若すぎるという面もあるが、成長するまでの間、自分や、能有よしありら自身の協力者の支えも期待できた。

 それとは逆に光孝天皇は皇太子を定めていなかった。そのため、明確な後継者が存在しなかった。

 光孝天皇自身には意中の後継者がいたが、それを公表できずにいたのは基経もとつねの一言が理由であった。

 『姓を賜った者が帝位についた例はない。』

 基経もとつねがこう宣言したから自分は帝位に就けたのである。

 しかし、自分の考える後継者は姓を持っていた。

 光孝天皇の即位前から国家財政は破綻にあった。そのため、いかに皇族であろうと天皇になる可能性の低い者は経費削減から皇族を外され、「源」の姓が与えられて家臣の一人として処遇されるようになった。これを「臣籍降下しんせきこうか」と言う。

 能有よしありもその中の一人である。

 光孝天皇は即位と同時に大勢の子を臣籍降下させた。

 ところが、その中に後継者に適任の者がいたのである。第七皇子の定省さだみ親王、今は源定省さだみ(みなもとのさだみ)と名乗る二十歳の青年であった。

 光孝天皇の即位当初はそれでも良かった。臣下となった源定省さだみ基経もとつねも一目置かざるを得ない有能な家臣であったから。

 だが、後継者選定となると困るのである。源定省さだみの能力は問題ない。また、光孝天皇の実の息子なのだから血筋でも問題ない。年齢も二十歳と若く、光孝天皇のように健康面の不安もない。しかし、源定省さだみ定省さだみ親王は源の姓を受ける身である。

 それが問題となったのである。

 制度を選んで能力を捨てるか、能力を選んで制度を捨てるかという問題はなかなか解決できず、皇太子、つまり、帝位継承者を指名できずにいるという状況が続いていた。

 だが、いつまでもその状態を続けることは許されなくなっていた。光孝天皇の体調がより一層悪化したのである。

 後継者問題は危急であると判断した基経もとつねは、光孝天皇の推す源定省さだみをバックアップすることを決める。この時点ではまだ、特に源定省さだみに対し問題ありと考えていなかった。

 そして、時平の助言を受け、基経もとつねはその情報を陽成院に伝える役割として橘広相ひろみを推薦。広相ひろみはそれを、嬉しさを隠しながら受諾した。


 「定省さだみはかつて、朕に仕え、朕にかしずいていたものではないか!」

 次期天皇が自分ではなく源定省さだみであることを聞いた陽成上皇は怒りを露わにした。天皇であった頃たびたび見せた直情的な行動が舞い戻ってきたかのようであった。

 「帰れ! 貴様の顔など見たくもない!」

 広相ひろみはかつての弟子の暴れぶりに身をすくませ動けなかった。

 陽成上皇は周囲の制止を聞かず、内裏へと足を運んだ。


 それと入れ替わるように、呆然と立ち尽くしていた広相ひろみのいる陽成院にもとに牛車がやってきた。

 見たこともない牛車に戸惑っていた広相ひろみは当初こそ警戒していたが、その中に乗っている人を見て感激の涙を流した。

 一方、内裏へと向かった陽成上皇は入り口で止められた。

 陽成上皇が入り口で立ち往生していることを聞きつけた時平は内裏の中から走って入り口に向かった。

 「なぜだめなのか!」

 「ここより先は、上皇であろうと神であろうと、帝の認めた者しか立ち入ることができません!」

 そのとき、陽成上皇の後ろから牛車がやってきて、陽成上皇に見せつけるように隣に停まった。

 牛車から降りてきた集団は何の咎めもなく内裏へと入れた。

 その先頭を歩いている者の顔を陽成上皇は知っていた。

 「定省さだみ!」

 陽成上皇は源定省さだみとしてその名を呼んだ。

 定省さだみ親王は陽成上皇に視線を投げかけたが、侮蔑を込めた笑いをした後、すぐに正面を向きなおした。

 その代わりに応対したのが、前から三番目を歩いていた広相ひろみである。

 「皇太子殿下を呼び捨てにするとは不敬にもほどがございますぞ。」

 「上皇を罰すると言われるのですか。」

 「上皇と言えど、不敬は不敬。律令によれば遠流の刑です。今回は目をつぶりますが、次にそのような処遇に出たときは私でも目をつぶれませんぞ。」

 広相ひろみはそう言って中に入る人々の一人として宮中ヘと消えていった。

 このとき、時平は広相ひろみが思いの外手強い人物だと思い知った。


 姓を捨て、皇籍を再び手にした定省さだみ親王は基経もとつねの考えている問題なしの人物ではなかった。臣下としては問題なしでも、トップに立つ者としては、基経もとつねにとって問題ありだったのである。

 それは定省さだみ親王の取り巻きを見れば一目でわかった。

 源定省さだみであった頃の行動の中に学者派を思わせるものは無かった。それどころか、基経もとつねに近い考えの現実主義的な人物と思われていたのである。

 それが、帝位が見えたと同時に学者派に鞍替えである。

 それを知った基経もとつねは後悔した。自分の選択にである。

 定省さだみ親王の鞍替えも、定省さだみ親王の立場に立てばわからぬものではないのだから。

 天皇とは名ばかりで実際の権力は基経もとつねの手にある。それに逆らおうとした陽成天皇は退位させられ幽閉同然の暮らし。しかも時平という後継者の育成にも成功しデビューさせているだけでなく、退位させたはずの陽成上皇との関係を、時平を通じて良好なものにさせている。

 これを黙って耐えているような人間ではなかった。そして、定省さだみ親王の考えたアイデアが、基経もとつねと対抗する勢力である学者派への接近であり、そのトップである広相ひろみとの接近だったのである。

 ただし、これには大きな葛藤があった。自分の目指す政治が、学者派よりもむしろ藤原派に近いのである。

 考えを選んで基経もとつねに屈するか、考えを捨てて基経もとつねを屈服させるか、定省さだみ親王の回答は後者だった。

 仁和三年(八八七年)八月二五日、源定省さだみ、親王に復帰。これに伴い、生後間もない長男の源維城も皇族に加わることとなった。後の醍醐天皇である。

 翌八月二六日、定省さだみ親王、皇太子となる。

 同日、光孝天皇崩御。定省さだみ親王が宇多天皇となる。


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