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第一部 陽成天皇

この作品は「いささめ(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki)」で2008年10月11日から2009年1月31日に渡って公開された作品です。

 「それが大臣おとどたる者の言葉とは思われません。」

 「どのように言われても構わない。ちょうにはそのような力などなく、民にはそれを受けるだけの力などないのです。」

 元慶七(八八三)年、陽成天皇を迎えての会議、「陣定じんのさだめ」の場は紛糾した。

 通常、陣定は午前中のみの開催であり昼には終わる。

 また、天皇や太政大臣、左右大臣の参加はないのが原則である。

 しかし、この日は違った。陽成天皇が出席すると言ったのである。これには太政大臣藤原基経もとつねも慌てた。

 基経もとつねは急遽自分も出席すると表明。さらに、右大臣源多みなもとのまさるが参加を表明し、態度を不明瞭としていた左大臣|源とおるも最後には出席を決めた。

 ここに、時の朝廷の最高権力者が集うという、通常ではあり得ない陣定が成立した。

 朝から始まった陣定は、昼はおろか夕刻になっても終わらず、日も暮れだすという長いものとなった。

 陣定は大納言以下の貴族が集まっての会議であり、そこでの議決はあくまでも参考意見に過ぎなかった。本来ならそこでの意見をもとに天皇が大臣たちや摂政と相談した上で最終結論を下すのである。

 今回も当初はそうした通例の会議となるはずであった。

 だが、陽成天皇が出席している以上、この陣定は参考意見に留まるはずなど無く、事実上の最終意志決定会議となった。

 陽成天皇はこのときわずか一五歳。前年に元服を迎えたばかりの幼さの残る少年であったが、すでに何かをしようという大人の気概は表に現れていた。

 この陽成天皇の参加は驚きを持って迎えられたが、その意味は誰もがすぐに察知した。


 陽成天皇の母である藤原高子たかいこ基経もとつねの実の妹である。そのため、陽成天皇にとって基経もとつねは伯父である。しかし、この兄と妹の関係はお世辞にも良いとは言えず、それは伯父と甥という関係にも影響を与えていた。

 高子が清和天皇と結婚したのは一八歳。これ自体は別に不都合なことではない。

 問題はその清和天皇の年齢。九歳である。自分の半分の年齢の男の子のもとに一人、家のためだと嫁に出された高子は、それを命じた実の兄に対する憎しみを日々募らせていった。

 それでも成人を迎えた清和天皇の子を産み、その子は陽成天皇となった。そして高子は天皇の実母、すなわち皇太后という高い身分に上り詰めた。

 しかし、それでもなお高子が兄に対する憎しみを打ち消すことはなかった。しかも、その兄は、夫から、そして我が子から権力を奪い、事実上の独裁者として君臨している。その状況下では皇太后という地位など意味はなかった。

 陽成天皇はこの環境の中で育ったのである。

 この高子には味方がいた。反基経もとつねの勢力である。

 そして、この勢力が結合すれば、基経もとつねの勢力をはるかに凌駕することは誰の目にも明らかであった。


 基経もとつねが全くの孤立無援であったわけではない。ただ、藤原家という血筋しか基経もとつねに味方する要素はないも同然であった。

 それは陽成天皇を取り巻く空気にも現れていた。基経もとつねにとっては妹との争いであっても、現実には貴族間の派閥争いであり、宮中の空気を重苦しいものとさせるものであった。

 それでも基経もとつねは関係改善に心を配っていた。息子の時平ときひらを何度か宮中につれてきたのも、大人ばかりという環境の中にいる陽成天皇の心の支えにさせると同時に、関係改善のきっかけとしてでもあった。また、陽成天皇の乳母であった紀全子きのまたこの子、源すすむも宮中に出入りさせるようにし、若者三人が常だって行動するという図式を成立させた。

 学ぶのも一緒、遊ぶのも一緒という取り合わせは、ほほえましい若者の光景であった。

 そしてそれは陽成天皇にとっても数少ない心の安らぎの時間であった。

 家にあっては詩を詠み、外にあっては馬で野原を駆け巡る。それは健全な若者の光景としてみられていた。

 ただ、それも表面上にすぎなかった。


 「これは!」

 陽成天皇が目の当たりにしたのは、橋の下に逃れた者の姿であった。

 これには時平も源すすむも言葉を失った。

 服はボロボロ、髪はバサバサ、痩せ細ったそうした人たちが、木をくり貫いて作ったか、土をこねて乾燥させたのか、明らかにちゃんとしたのではない器を手にしていた。

 彼らは列を作り、大きな鍋で炊かれた粥を器に入れてもらっていた。

 「(食料の無料配給)ですね。」

 この中での最年長である源すすむが言った。

 「それはわかっている。なぜこんなことになっているのかと聞いているのだ。」

 「貧しいからです。」

 「なぜそんなに落ち着いていられる!」

 源すすむは終始落ち着き払っていた。

 それが陽成天皇の癪に触れた。

 この三人の関係は、常に冷静でいる源すすむが場を仕切り、常に直情的な陽成天皇が逆らいながらも行動を共にし、最年少でありまだ一三歳の時平が二人の後を着いていくという図式である。

 「コメもムギもないのです。収穫は乏しく、税は高く、家には食べ物などありません。食べ物を買いたくても高くてとても買えません。彼らにはああして施しを受けるしか生きていく術がないのです。」

 そんなことは陽成天皇にもわかっている。

 しかし、求めている答えはそうではなかった。なぜこのような事態になったのかが求めている答えだった。

 それは源すすむにもわかっていた。しかし、答えようがなかった。答えがわからないのだから。


 「主上(当時の人が天皇を呼ぶときに用いた敬語)、それは律令をないがしろにしているからです。」

 答えを求められた橘広相ひろみは喜びに満ちあふれた表情で応えた。広相ひろみは三人の直接の教師ではないが、学者出身の貴族であり、周囲からはその博識で一目置かれていた。

 広相ひろみは藤原兄妹の権力闘争が渦巻いている中を生き抜くために、藤原高子と手を組んでいた。基経もとつねへの反発という点なら共通しているだけに、目指すところは違っていてもその組み合わせは意外なほどスムーズに実現していた。

 この日、陽成天皇が広相ひろみと会ったのも母の影響が強い。基経もとつねの実子である時平もここにいたが、憎き基経もとつねの子であるとは言え、自分の子を兄のように慕う幼い甥に対する感情は悪いものではなかった。

 「律令はいまのような本朝(この当時の日本人が『我が国』といった感覚で使っていた言葉)を作ることなど書いておりません。律令の精神に帰り、本朝をあるべき姿に戻せば民は豊かになり、本朝はますます栄えるのです。」

 「それだけで良いのか?」

 「律令は正しいのに、それをもとにまつりごとを行なっていないのが問題なのです。」

 広相ひろみのあまりにも単純な言葉に陽成天皇は一瞬にして完全に感化された。

 一方の源すすむは、広相ひろみの考えをあまり聞き入れていなかった。それはまだ、何だか疑わしいぐらいの感覚であり、明確な抵抗ではなかった。

 時平は何となく陽成天皇と同じような感覚であった。陽成天皇のような熱狂的支持といったわけではなかったが、源すすむのように背を向けるのもどうかと思う程度の感じであった。


 それからの陽成天皇は、源すすむと行動を共にする回数が減り、時平を連れて広相ひろみのもとを訪れることが増えた。

 世の中に問題が多いと考えながら、その問題の解決は単純な思想で足りると思うのはいつの時代にもいる。それは、裕福な家の若者にかかる流行病のようなものであり、他者に危害を加えない限り無視すれば済む。ある程度の年齢になって現実を観る立場になると自然と治ることが多いから、暴れないなら放っておいて良い。

 ただし、ここには問題が二つある。一つは治らなかった場合、もう一つは治る前に権力を握ってしまった場合である。

 このときはその二つが重なってしまっていた。

 それまでは摂政である基経もとつねのもとに権力が集中していた。陽成天皇が幼かったからである。しかし、元服した以上陽成天皇は大人であり、摂政職を置く必要はなくなる。なぜなら、摂政という職は「勅ス。天下ノまつりごとヲ摂行セヨ」という勅令により置かれる職であり、それは天皇が年少であるためにその職務を遂行できないと判断されたときに置かれる職だからである。

 即位からこれまでずっと基経もとつねの支配にあった陽成天皇は、元服を期にそれまで心に秘めていた思いを実現させようと画策した。

 その狙いとは、天皇親政。家臣に任せず自ら政治を執り行おうというのである。陽成天皇は野心に満ち、気概に満ちていた。そして、その野心を味方する者が多いこの陣定に意志決定の場を設けた。

 天皇親政のためには事実上の最高権力者である基経もとつねから独立する必要があった。そのため、陽成天皇は基経もとつねの意見には露骨に不快感を示す一方、橘広相ひろみら学者の意見は真剣に耳を傾けていた。


 ここにいる誰もが同じ問題に頭を悩ませていた。

 朝廷の財源不足である。

 現在は借金という形で税収の不足を後回しにする技術があるが、この時代はそうした考えなどなく、税収だけが国庫収入であり、それだけが支出可能な財政あった。

 律令によって定められた理想は素晴らしいものであった。米は安く売られ貧しい人には無料で配られる。全ての医療は無料。それでいて直接税の税率はわずか三パーセント。その他に土地の特産物の納入と肉体労働があったが、それも本来ならば苦痛にならないレベルのものであるはずだった。

 しかし、それはあくまでも理想だった。

 国の支出に比べてあまりにも少なすぎる収入は最初から無理があった。それは国に何も起こらず、特別な支出がないということが大前提となっていたからである。

 だが、最近の二〇年間を振り返ってみても、富士山の噴火にはじまり、死者の出る地震が京都だけでも三度発生。さらに、それよりも大きな地震が東北地方、関東地方、山陰地方に発生。日本全国に拡がる疫病の流行。台風による洪水と土砂崩れ。天候不順による不作。そして、海の向こうからは新羅の侵略。その対策のために国家予算は前年の一割以上の増加を必要とし続けていた。

 支出を抑えるために貴族や官僚の給与削減、あるいは公共事業の削減、さらには新羅からの侵略を目の当たりにしながら軍事力の削減とあれこれと手を打ち出していたが、それはもはや限界だった。

 結果は増税。三パーセントであるはずの直接税が次第に増えていき、ときには収穫の半分を差し出してもなお足らないという事態にまで陥った。

 それでも庶民は耐えていた。しかし、元慶二年(八七八年)からの全国的な不作はその忍耐も破綻したことを示した。収穫はなく、餓死する者多数。生きている者は重い税から逃れようと有力者の庇護を頼るようになった。

 荘園の始まりである。


 不作であろうと税は課される。しかし、税を課されても払う余力はない。そのとき庶民はどうしたか。自分の土地を売ったのだ。それも有力者に。

 それまでは自分の土地だから税が課された。しかし、これからは自分の土地ではない。税を取り立てに来た役人など簡単にクビにできるだけの権力を持った有力者の土地であり、自分はその使用人としてこの土地を耕しているだけ。税は土地の所有者であるその有力者の所に行って取り立ててくれ。できるものなら。

 無論、所有者となった有力者に年貢は払う。だが、その額は律令に比べれば段違いに低い上、律令では題目にしか挙げられていない様々な保護が有力者より得られる。

 有力者にとっても、手厚い保護を掲げれば土地を渡す農民が増え、納められる年貢が増える。年貢が増えれば豊かになり、豊かさはより手厚い保護を生み出す基となる。手厚い保護は評判を呼び、評判は土地を差し出す農民を増やす。

 豊かさは豊かさを生み、その豊かさを持つ者の元へ逃れて身を守ろうとする者が増える。

 農民は暮らしを向上させることを願い、貴族はさらなる豊かさを実現する。それが荘園制度を生み出した。

 ここに国への負担という概念はない。

 これは律令の定めた税制の崩壊である。富は有力貴族に集中し、国庫財政はたちまち空になった。

 基経もとつねは藤原氏筆頭という最高の貴族でありながら、しかも、自身が最大の荘園所有者でありながらそれを憂慮していた。

 無論、ここにいる誰もがそれを問題だと考えていた。

 しかし、議論を重ねても出てくるのは「律令を再び活かし、律令通りの社会に戻そう」という意見ばかりであり、現実を見つめる意見が出なかった。

 しかも陽成天皇は諸手をあげて賛成した。

 だが、基経もとつねは訴えた。

 「律令に従った結果が今の本朝ではないか。改めるは律令のほうだ。」

 「それはおかしなことを仰る。」

 太政大臣という最高位にまで上り詰めた基経もとつねであるが、自分はこの陣定で孤立しているということを理解した。

 基経もとつねはわかっていた。

 最大の荘園所有者となった自分では、それがたとえ国を思い、民を思ったことであろうと、自分の私利私欲ととられてしまうことを。


 「ときに、時平。そちは今年でいくつになった。」

 「一三です。」

 「すると、忠平はもう四つか。」

 時平には二人の弟がいる。四歳下の仲平なかひらと九歳下の忠平ただひらである。

 「ついこの間生まれたばかりかと思っていたのに、時の経つというのは早いものだな。」

 京の都が視界から消えるあたりまで、時平は馬で進んだ。

 いつもは、家の中では弟たちと、家の外では陽成天皇や源すすむと一緒にいるので、そうではないのは久しぶりであった。

 時平の横には、妻が時平の姉であることから時平にとっては義理の兄にあたる源能有よしありがいた。

 警護の者はいたがあまり近寄らずにいるため、ここは二人きりである。

 能有よしありは陽成天皇の父である清和天皇の兄であるため、陽成天皇から見れば伯父にあたる。

 ただし、能有よしありは母の身分が低いため皇位継承対象者から早々に外され、源の姓を与えられて皇族から外されていた。

 ところが、この者の才能は高かったのである。基経もとつねは早い段階でその才能を見抜き、自分の娘を嫁に出すことで藤原一門に加えた上で、自分の側近の一人に任命していた。

 基経もとつねはこの能有よしありに、父が憂慮していることを学ばせる教師役を任せたのである。

 その能有よしありが連れてきたのは小さな村だった。

 ただ、村ではあるのだが人の気配はなく、ほこりのかぶった民家があるのみだった。

 二人は馬を降りて近寄った。

 「誰もいませんね。」

 「なぜだかわかるか。」

 「いえ。でも、もう誰もいなくなってからかなり時間が経っているのではないでしょうか。だとすると……」

 時平はそこまで言って言葉を詰まらせた。

 このとき、時平は口に出すのもはばかられるような考えを浮かべていた。

 一人残らず死んだのではないかと。

 「だとすると、何だ?」

 「いえ、何でもないです。」

 「全員死んだとでも考えたか。」

 能有よしありの言葉に時平は敏感に反応した。

 「……、はい。」

 「安心しろ。この村の者が一人残らず死んだのではない。」

 「そうですか。」

 「ここは都に近い。この村の者は一人残らず都に逃れた。都に行けばまだマシだと考えたのだろう。」

 このとき、時平は陽成天皇と源すすむと三人で行った貧しい人たちのことを思い出していた。

 「村の暮らしが厳しいからだ。時平はこうした村の暮らしがどのようなものであるか知っておるか。」

 「学んでいます。」

 「学んだだけか。見たことはないのか?」

 「はい。」

 「ついてこい。村に残った者がどんな暮らしか見せてやる。」

 そう言い終わったか終わらないかのタイミングで能有よしありは馬に乗り、馬を駆けさせた。

 時平はついていくのがやっとだった。


 その村は無人の村よりさらに活気がなかった。

 人はいた。しかし、誰もかもが痩せこけ、骨と皮だけの有様であった。

 道ばたには生きているのか死んでいるのかわからない人が座っていた。気力は全くなく、ただ時の過ぎるのを眺めているだけであった。

 人の死体も転がっていた。埋葬する者もおらず、野良犬に食べられるがままにされているのを止める者は居なかった。

 「な、なな……」

 時平は言葉を失った。そのおぞましい光景に時平は吐き気さえ覚え、視線を逸らした。

 「目を逸らすな!」

 能有よしありは一喝した。

 「は、はい。」

 「ここにいる者も時平も同じ人間だ。暮らしだけが違っている。それだけだ。」

 時平は正面を見据えた。

 誰もが疲れ果てていてこちらを見ようとしない。

 生涯目にすることの無いであろう豪華な服に身をくるんだ貴族のことなど、気にとめる余裕もなかった。

 ここに比べれば、都で施しを受けている者など天国の暮らしではないかとさえ思われた。

 時平は馬を降り、自分の襟をつかみ、服を脱ぎながら近寄っていこうとした。

 「どこへ行く。」

 能有よしありの言葉に、時平の歩みは停まった。

 「着ているものをくれてやるのか? それとも、銭でも与えるのか?」

 「いけませんか!」

 「誰か一人に与えればその一人は助かる。しかし、貰えなかった他の者はどうなる。この村の者全てに渡せたとしても、こんな村は本朝のいたるところにある。本朝の全ての民に銭と服を差し出せるのならそうしろ。時平にそれだけの財はあるかどうかは知らんが。」

 「……、ありません。」


 「無いのは時平だけではない。藤原の全ての財をかき集めても、本朝の全ての財をかき集めても、そんなことはできない。」

 「まさか。本朝の全てを集めれば行き渡る……」

 「無いのだ。服も銭も。本朝の全ての財を集めても、全ての民に行き渡らせることなどできん。時平はまさか、誰かが隠し持っているとか、誰かが不当にたくさんかき集めているとか考えていないか。全ての人に行き渡らないのは誰かのせいだとでも考えていないか。」

 「考えています。」

 「では、それは誰だ。」

 「我々です。我々貴族です。」

 本来なら時平は何も言い返せなかいはずだった。しかし、何かは言い返したかった。特に、陽成天皇ほどではないにせよ、時平もまた広相ひろみの影響を受けている。

 一三歳という若さからくる無鉄砲さからか、経験も実績も申し分ない相手に、広相ひろみの理論を借りて逆らおうとした。

 「では、我々貴族が全ての財を差し出せば、この世から貧困は消えるのか。」

 「消えます!」

 「そうか。」

 能有よしありはそう言うと唇をゆるませた。

 「貴族はせいぜい百人。本朝の民は百万とも一千万ともいう。貴族から全ての財を召し上げて民に配っても、麦飯一杯ずつ配って終わりだ。」

 「……」

 時平は黙り込んだ。

 自分は貴族として贅の限りを尽くしているという思いは、広相ひろみに出会ってからずっと抱いていた。

 自分の着ている服も、自分の食事も、読み散らかした本でさえも、庶民には一生目にすることのない贅沢品だと知っている。

 だからそこに負い目を感じていた。そして、そのせいで苦しんでいる人がいると感じていた。

 その感じは、今日のこの日にはっきりとした。

 そしてこう考えた。

 想像を絶する貧困が現実に存在している。だからこれをどうにかしなければならない。

 最初は自分たちが贅沢をしなければ彼らを助けられると考えた。

 だが、それを無くしても麦飯一杯にしかならないことなど考えも及ばなかった。

 「どうすればよいのか、考えが浮かんだか?」

 「すぐには……、思いつきません。」

 「簡単なことだ。本朝の財を増やせばよい。」

 「!」

 「収穫の五割が税だとして、一石いっこく(この当時の一石は約六〇キロ)しか収穫できなかったときと、二石収穫できたときとでは、手元に残るのは倍になる。どちらが豊かは言うまでもない。」

 時平は黙って聞いていた。

 「財の総量は決まっているものではない。増えるときもあれば減るときもある。財の総量が増えれば貧しい人も減る。時平、我々の仕事は財を分け与えることではない。財を増やすことだ。」

 「では、それはどのようにすれば。」

 「ついてこい。これが最後だ。」

 能有よしありは馬を引き返した。

 時平は能有よしありのあとをついていった。


 別の村に着いた。

 「にぎやかな村ですね。」

 時平は村に近寄った。

 村には活気があった。

 「時平、そなたは知らないだろうが、この村はかつて道ばたに人の死体の散乱する生き地獄だった。さっきの村のようにな。それが今ではここまで戻っている。」

 「そうですか。」

 能有よしありの言葉は一三歳の少年には少なからず希望を与えた。豊かになりつつある村があることは、素直に喜びを感じられることであった。

 「そちの父の所領となったのが四年前、それから四年でここまで持ち直した。そなたの父が彼らを守り、そして、時を経ればそなたが村を守るようになる。」

 「この村を……」

 「この村は律令ではなく藤原が守っている。律令は素晴らしい考えのもとに作られた掟だが、その考えはもはや民を苦しめるだけでしかない。時平、財を増やすために求められること、それは、民に無理をさせないということだ。できること以上のことを求めず、できることだけを求める。そうすればおのずと財は増える。時平、父を継いでこの国を掴め。そしてこの国を改めよ。全ての村をこの村のようにするために。」

 「この国を……、掴む……」


 「律令の精神に則り、律令の理想を成す。」

 「異議なし。」

 この決議に異議を唱えたのは一人しかいなかった。

 基経もとつねである。

 陣定の結論は日が暮れてやっと固まった。

 基経もとつねの意見は無視されるようになり、最後には基経もとつねも黙り込むようになった。

 陽成天皇の親政はこのとき始まった。

 「(命を懸けてでも止めるべきであっただろうか、それとも、私が間違っているのか)」

 基経もとつねの失脚と誰もが考え、その喜びは誰もが隠せなかった。

 ある者は正義の実現と考え、ある者は理想の現実化と考え、ある者は自分たちの時代の到来と考えた。

 陽成天皇の側近の特長。それは学者揃いであるということ。それも、自分の理想を昔の日本、この時代から見ての昔、つまり、律令制が樹立されて間もない頃、天武天皇の時代の日本に理想を求める学者揃いであるということである。

 学者に限らずインテリを自認する者が現在の社会を憂うこと古今東西変わりがない。そして、自分の理想を外に求めることも今と同じである。ただ、五〇年前を最後に遣唐使が事実上途絶え、唐に内乱(黄巣の乱)が起きて以後、学者は唐を理想としなくなった。理想が国境の外ではなく時間を超えた書物の中に移ったのである。

 言うなれば復古であり、今の日本人の感覚で行くと護憲である。スタートの理想は正しいのだから、その理想が実現していない現在の社会のほうがおかしいと考える人間がいるのは昔も今も変わらない。

 一方、基経もとつねは学者ではない。学者たちとは交流を持っているし、学者たちの学んだ書物も一通り学んでいる。また、自分の子供たちへの教育は学者の家庭と変わらぬ、時には学者以上の教育を施している。そのため、学者たちと対等に話ができるだけの素養を身につけている。

 ただ、基経もとつねは実務家なのである。実務家の前には常に現実が横たわっている。理想と現実とが食い違っているとき、現実が間違っていると考えていられる学者と違い、現実のためには理想を捨てなければならないことを実務家は知っている。


 「(時平はそろそろ戻った頃か。時平の時代にはこんな時代でなくなってくれることを願うが……)」

 帰りの牛車の中で、基経もとつねは自分の無力を悟っていた。

 基経もとつねは藤原氏の当主であるが、それは血筋ではなく抜擢による。

 基経もとつねは藤原北家藤原長良の三男として生まれた。本来なら藤原の当主となれる家系ではない。だが、ときの藤原家当主の良房は、この若者の才能に目をつけた。基経もとつねを養子に迎え、自分の後継者、すなわち藤原家当主の座を用意したのである。

 基経もとつねは目をつけられただけあって有能であった。ただ、欠点もあった。気が弱く我が強いのである。

 他者の考えを聞き入れる能力はあった。しかし、それが自分の意見と異なるときは従わない。ただ、そこに強烈な自信はないから、自分の意志を通した後で、自分のしたことが誤りではないかと思い悩むようになる。

 こうした人間が権力を握るとどうなるか。ひとたび自分の意志が通らなくなると何もしなくなるのである。自分の役割は無くなったと考え引きこもるようになるか、引きこもらなくても無気力になる。

 それまでは最高権力者も同然であったから別にそれでも良かった。何しろ、自分と異なる意見に従わなければ意見のほうが勝手に立ち消えになるのである。

 だが、今はそうではない。自分がいくら摂政で太政大臣だと言っても、天皇に対しては一臣下にすぎない。そして、天皇とは意見が合わなくなっている。

 養子となり、養父の跡を継ぎ、摂政となり太政大臣となった。しかし、その後は何が起きたか。

 飢饉であり、疫病であり、戦乱である。

 こうした社会不安は自然がもたらす不幸とする考えはこの時代無かった。そうではなく、執政者に対し天がその地位に相応しくないと判断した結果の天罰だという考えが一般的であった。

 たしかに自然災害が起こったときの対処が正しければ被害を少なくすることは可能であるからこの考えは一理ある。

 だからなのか、基経もとつねは自分の執政者としての能力に疑いを持つようになった。いつものように我を通したがそれは受け入れられなかった。しかも、自分と異なる意見がこれからの政治だと決まった。

 家に着いた基経もとつねは、一足先に家に戻っていた子供たちに迎えられた。

 子供たちは父の思い詰めた様子と、一言もしゃべらずに奥に籠もったことに不安を抱いた。

 「兄上、父上はいかがなされたのでしょうか。」

 時平は仲平なかひらの問いに答えられなかった。


 子供たちの不安は翌日明らかとなった。

 藤原基経もとつね、太政大臣辞任を表明。

 これを聞いた高子は狂喜乱舞した。しかし、陽成天皇のほうが現実を見たのである。

 それは、基経もとつねの居なくなった宮中でまともに働いているのが伯父の能有よしありただ一人だという事実である。

 陽成天皇は辞表の受けとりを拒否。

 これに対し、基経もとつねは出勤ボイコットで応える。

 太政大臣のいなくなった内裏は、基経もとつねに出勤を要請するが基経もとつねはあくまでも辞任を主張し、二者の関係は平行線のままとなる。

 陽成天皇は自分の理想のために働くよう基経もとつねに求める。

 基経もとつねはそのためには働けないと主張する。

 陽成天皇は基経もとつねからの独立を望んでいたが、有能な実務家を必要とはしていた。そして、基経もとつねがいなくなって初めて気づいた。

 今の宮中には基経もとつね以上の実務家がいないという事実である。議論をさせれば活発な討論をする貴族なら掃いて捨てるほどいる。しかし、基経もとつねのように話を聞き、基経もとつねのように決断し、基経もとつねのように働く者はただ一人、能有よしありしかいなかった。

 いかに能有よしありが懸命に働こうと、能有よしありは数多くの貴族の一人という立場。太政大臣という地位を利用できる基経もとつねの力には及ばなかった。

 遅すぎる考えではあったが、陽成天皇にとって基経もとつね以上に頼れる側近などいなかった。

 ただ、自分の理想を捨てる思いは全くなかった。

 その間も政務は執り行わねばならない。

 結果、陣定の開催回数が増え、会議の時間も回を重ねるごとに長引いていった。

 それまでは基経もとつねがしていた決断を彼らに求めるしかなかったからだが、彼らに決断を求めるのは無謀だった。

 長々と議論を繰り返したあげく、結局は結論の出ぬまま日没を迎える。たまに結論が早々に出ることがあったが、それは良くない内容の報告への回答で、うまくいかないことがおかしいと結論づけ、律令を守れと命令するのである。

 その繰り返しは基経もとつねの耳にも届いていたが、基経もとつねはそれでも動かなかった。


 貴族とは五位以上の者である。厳密には三位と四位との間に境界線が設けられており、三位以上を『貴』、四位以下を『通貴』と呼んで分けられるが、通常は双方あわせて『貴族』とする。

 そして、位に応じた職務を遂行するのが貴族の役目である。言うなれば現在の国会議員や都道府県知事と同じような職務であるが、選挙で選ばれればそれまでの職が何であろうとその地位に就ける現在と違い、この時代は位を持つ者だけがその職務に就けた。

 実績を残した無位無冠の者や一部特権階級の子弟がいきなり職務に就くことがあったが、それとて位を与えられた上でのことである。こうした幸運に巡り会えなければ、六位以下から這い上がり、位を得るしかなかった。

 しかし、六位以下から這い上がってくると言っても、最下位から這い上がることは物理的に無理である。上に上がるチャンスは六年に一回から二回。だいたい七位以上になるとそのチャンスの回数自体が増えるので出世しやすくなるが、それ以下でそうした例はきわめて珍しい。そのため、最下位から出世レースに挑んでも、定年を迎えるまでに七位に達することができるかどうかである。

 そのため、一部の者には特権として、五位やそれに近い場所から出世レースに挑戦できた。

 その一部の者とは二種類。

 有力者の子弟であること。

 筆記試験で抜群の成績を残した者であること。

 日本には科挙が無かったというのは間違いではない。確かに科挙という名称は制度として存在していなかったし、科挙で合格した者が宮中の中心となったわけでもない。

 しかし、有能な人材を試験で選抜しようという概念はかなり前から存在していた。そして、それはこの時代ピークを迎えていた。

 言うなれば、藤原氏を筆頭とする家柄によるエリートと、橘氏を筆頭とする学問によるエリートとの二大政党制が確立されていて、与党であった藤原派が政争に敗れ、野党である学者派が権力を握ったようなものである。


 最高権力者の失脚は市井の噂話にも上り、それは明るいニュースとしてかけ巡った。

 それは、家柄だけを頼りに権力を握った悪の無能な独裁者が、実力で這い上がってきた有能な学者派の正義の鉄槌を食らったという感覚であった。そして、あとは輝かしい未来がやってくるはずだった。

 しかし、時代はもはや律令の理想を叶えられるようなものではなくなっていた。

 税を集めなおそうにも、既に有力者の手に渡っていた土地からは税を集められなかった。

 労働義務を課そうにも、有力者は自らの土地の農民を守り続けた。

 地方の特産品にいたっては考えるだけ無駄であった。何が特産品なのかという記録すら既に失われおり、記録を掘り起こさなければならなかった。掘り起こすことに成功しても律令成立からすでに一八〇年以上経っている。一八〇年前の特産品の記録など役に立たなかった。

 しかし、陽成天皇は結果を求め、陣定は結果が出ないことがおかしいと結論づける。

 その負担は有力者の庇護を受けられない貧しい者に押しつけられた。

 結果、村を逃げ出す者が増え、逃げ出さなくても自分の土地を有力者に売り渡す者がさらに増えた。

 中には確かに自分の土地であることにこだわった者もいた。そして真面目に税を払う者もいた。しかし、その結果は無惨なものだった。

 その高すぎる税を払えずに役人につれ回され、むち打たれて命を失う者が出た。

 家の中の全てのものを役人に奪い取られ、来年の種籾もなくなり、一家全員が餓死する者が出た。

 強制労働は過酷さを増し、道ばたに放置される死体となった者が出た。

 誰もが律令を逃れて荘園の者になることを願うようになった。

 そして、このときもっとも所領を増やしたのが、陽成天皇の側近となっていた学者出身の貴族たちであった。彼らは自分の所領に対して律令を適用するなど考えもしなかった。

 自分の所領は増やす。それ以外は律令を適用する。

 インテリの特権意識が如実に現れていた。


 基経もとつねがこの動きに対して何もしていなかったわけではない。

 まず、自らの保護を求める者を次々と増やしていた。すなわち、藤原氏所有の荘園の増大である。伸び率も伸び数も学者派に比べれば低いものがあったが、もとが大きいために最大の荘園所有者として目立っていた。

 また、藤原氏所有の倉庫からコメを運び出し、税を逃れて都に逃れてきた貧しい人たちに、時には格安で、時には無料で分け与えた。しかもそれを陽成天皇の名で実施したのである。

 はじめは律令の成果と感心した庶民であったが、それが藤原の倉庫から、藤原の指示により、藤原の家臣が行なっていることはすぐに明らかとなった。

 陽成天皇は激怒した。そして、命じた。

 基経もとつねにはただちにコメの支給を停止すること。

 陣定には、基経もとつねがやっていた以上のコメの支給をこれからは国が行うこと。

 結論から言うと、前者は成功し、後者は失敗した。理由は単純で、国にはそんなコメの蓄えなど無かったのである。

 この時代のコメは単なる食料ではない。税の基礎であり、事実上の貨幣であった。確かに銅貨は存在していたが、銅貨の決済は少額に限られ、大きな金額はコメを中継にすることが多かった。

 すなわち、銅貨の所有は市場での物の購入を可能とさせるものであり、庶民にとってはその多少が財産の大小を示す。しかし、貴族や国家にとっては貨幣の多少など財産とはさほど関係が無く、コメの在庫量こそが財産の大小である。そして、国にコメがないということは、単なる食糧不足ではなく、国家財政がそこまで逼迫しているということである。

 基経もとつねが陽成天皇の命令に従ったことは、都にパニックを引き起こした。これまで何とかやりくりできたのは基経もとつねのコメのおかげであったのにそれが無くなった。

 その途端、コメの値段が急騰。前年末には一升で四〇文だったのが、五月には六一文、七月には八九文にまで跳ね上がった。これはインフレなどというレベルを越えた経済危機である。

 これに対し陣定は無力であった。コメの値段を下げるよう命令を出すが、これは完全に無視された。


 ここにきてはじめて基経もとつねが内裏に現れた。

 いまだ摂政であり太政大臣である。だから、基経もとつねが内裏にいることは驚きをもって迎えられたが、法に触れるわけではない。

 「これ以上民に負担をかけると言うのであれば、民は暴れだし、都に限らず、本朝の全てが血にまみれることとなりましょう。」

 実際、この数日前には上総国(現在の千葉県)市原で高すぎる税に対する暴動が起きたとの連絡が都に届いていた。

 「何を言われる。貴公の持つ土地からどれだけのコメが穫れ、どれだけのコメが貴公の蔵に蓄えられたのかご存じないのですか。」

 「左様。貴公の土地から税が納められていればこのような事態にはなっておらん。」

 「律令を否定するのは、自らの財をため込むためであろう。げに豊かなるは……」

 「その全てはとっくに都で放出しました!」

 それは宮中で初めて見せた基経もとつねの怒りの声であった。

 自分は身銭を切って救い出そうとしているのに、ここにいる者どもは身銭を切らないどころか蓄えを増やすのに懸命になっていた。それが基経もとつねには我慢ならなかった。

 「律令を守るというなら、まず自分が範を示しなさい! 範を示せないならそんな律令など捨ててしまいなさい! 主上! なぜこのような愚か者どもの言うことを聞くのです! いま必要なのは民の貧しさを救い出すことです! それができないのなら退位なさい!」

 宮中は静まり返った。

 それは場の勢いで出たような言葉であったかもしれない。しかし、太政大臣が他の貴族を愚か者と罵倒し、天皇に退位を迫ったのである。

 本来ならば、いくら太政大臣であろうとその場で命を無くしてもおかしくない状況である。

 だが、そうはならなかった。


 基経もとつね復帰の一報は、コメの値段を落ち着かせた。

 それはいくら基経もとつねを嫌っている人であろうと認めなければならない事実であった。

 反基経もとつねの急先鋒であった高子ですらそれは認めなければならなかった。

 基経もとつねはその経済の信頼に応え、税を安くし、労働義務を大幅に減らすことで、暫定的ではあるが庶民の負担を減らす処置をとった。

 陽成天皇の陣定出席については、律令で定められていないとして反対した。ただし、大臣であるため基経もとつねも参加できない。

 そこで、能有よしありに従四位下の位を与えさせることで陣定に送り込み、議決をコントロールすることに成功した。

 基経もとつねの権力奪取である。

 だが、これが陽成天皇の精神に暗い影を落とした。

 理想を実現させようとしたら失敗した。

 その理想に反対した者がいま権力を握っている。

 しかも理想と異なる行動をしているのに結果を出している。

 これは自分の無力さと悔しさをたたき込まれ続けるということである。

 陽成天皇はまだ一六歳の少年であった。その少年にこの現実は受け入れがたいものであった。

 それでも何とか自分自身の精神の安定を取り戻そうとはしていた。しかし、安定して見えるそれは豪雨に晒され決壊寸前の堤防のようなものであった。

 友人として行動を共にしていた二人のうち、源すすむとは広相ひろみの考えを受け入れるか否かで対立して以来顔を合わせていない。時平は父と行動を共にして宮中に顔を見せていない。

 その代わりに毎日のように会っているのが、失望のただ中にある母高子や、同じく茫然自失としている広相ひろみらの貴族たちである。

 彼らもまた自分たちの理想が費えたことに失望していた。そして、彼らの失望は源すすむや時平と過ごしたときのような楽しい日々とは無縁であった。

 そして、一一月、陽成天皇の心の堤防は壊れた。


 源すすむの突然の死である。

 それも病死ではなく、明らかに外傷を加えられての死である。しかも、場所は宮中。

 陽成天皇に源すすむの死を伝えたのは母の高子である。そして高子からはただ一言、「源すすむは死んだ」とだけしか伝えられなかった。

 それを信じなかった陽成天皇も、現実の死体となっている源すすむの姿を見てそれが事実であることを悟る。

 それを目の前にしても何の感情も示さぬ母。

 この母の態度が最後の一撃となった。

 陽成天皇が半狂乱になって暴れ出し、周囲が何とか留めるものの、ケガや破壊の様子から、どう言いつくろうと人が暴れた痕跡は隠すことができない有様となった。


 源すすむが誰かに殺されたのか、それとも事故死なのかは今でもわからない。しかし、一つの噂が立ち、それを打ち消すことはできなくなっていた。

 陽成天皇が源すすむを殴り殺したのだという噂である。

 それはこの後の陽成天皇の行動が輪をかけることになった。

 馬好きの源すすむを偲ぶため、源すすむの飼っていた馬を引き取った陽成天皇は、宮中に厩を造らせ、源すすむの馬の手入れをしていた者も宮中に住まわせて世話をさせた。

 しかし、これが噂になると、馬小屋を宮中に造り、馬を宮中に解き放って暴れさせたことになり、その馬の世話をする者を招き入れたことは卑しい身分の者を宮中に入れたことになるのである。そして、源すすむを殴り殺したのはその馬を手にするためであり、馬を暴れさせるのと止めたからであったと、噂の肉付けがされた。

 関係が最後はこじれたとは言え、ともに時を過ごした親友を失って以後の陽成天皇は、周囲が声を掛けるのもはばかられるようになった。

 世間のそうした噂に対処するため、基経もとつねは、厩を宮中の外に移設し、馬も世話役もそちらへ移転させた。そして、その馬の飼育は公用のためであるとアピールさせた。現在で言うと黒塗りの公用車とその運転手である。

 これは多少なりとも噂を和らげる効果があった。

 しかし、肝心の陽成天皇の行動が現状のままではどうにもならないと判断。

 前回は言葉の勢いであったが、今回は熟慮の末に基経もとつねはこう言った。

 「今のままでは退位させねばならない。」

 時は年末。世間が新年の準備にいそしむ頃、基経もとつねは次年度の政局に頭を悩ませていた。

 この状態で元慶八(八八四)年の正月を迎える。


 陽成天皇の退位は、基経もとつねの中ではもはや既定路線になっていた。

 久しぶりに陽成天皇に会った時平は、ついこの間まで三人で行動していた頃の面影もなくなっていることに驚きを隠せなかった。

 オフィシャルな場でしか接することのない基経もとつねは、せめてプライベートな場だけでも陽成天皇が明るさを取り戻してくれていることを望んでいたが、自分よりも陽成天皇を知る時平の愕然はプライベートの陽成天皇もまたオフィシャルな場でのそれと変わらないことをこれ以上無く教えてくれた。

 その上、陽成天皇に対する世間の評判は最悪だった。

 このまま帝位に居続けることは、陽成天皇にとっても、国民感情にとっても不幸だった。

 だが、誰を帝位に就けるのか。

 最初の候補者は仁明天皇のときに廃太子された恒貞親王であったが、親王は既に出家し、還俗(僧を辞めること)の意志もないため立ち消えになった。

 続いて候補に挙がったのが、仁明天皇の第三皇子である時康親王であった。時康親王の母は藤原総継の娘である沢子で、基経もとつねの母の乙春とは姉妹であることから時康親王は基経もとつねの従兄弟にあたる。

 穏和な性格で人望も厚く、また、すでに五十五歳という落ち着きある年齢にあるために陽成天皇のように若さを暴走させる心配もなかった。また、和歌や音楽をたしなむ文化人であると同時にスポーツにも深い理解を示していたために、オフィシャルでは意見の違う者でもプライベートでの交流を保つなど、人間関係の構築と維持の能力が高かった。

 つまり、一つを除けば特に問題はないように思われたのである。

 ただし、その一つが問題であった。

 病弱である。

 そして、その一つが親王の帝位就任に関する最大のネックであった。

 実際、廷議(大臣も出席する貴族の会議。ただし天皇は参加しない)では賛否両論噴出した。


 最も強硬な反対意見を述べたのが左大臣の源とおるである。源とおるが協力に推薦した天皇候補、それは自分自身であった。

 源とおるは嵯峨天皇の十二番目の子であり、臣籍降下して源姓を名乗るようになったが、嵯峨天皇から観て孫にあたる時康親王よりも自分のほうが天皇家の血筋が濃いことは、源とおるにとって立派な理由となった。

 源とおるは延々と自説を主張し続けた。

 病弱な天皇ではこの局面を乗り切れないが、自分にはその心配が無いと。

 源とおるに味方する貴族もまた、自説を主張し続けた。

 先に私はこの時代が藤原派と学者派という二大政党時代にあったと記したが、現在と違い明確な政党が形作られているわけではないため、誰がどちらの政党の所属なのかを明確に記せるわけではない。

 また、その二政党だけが勢力を持っていたわけではない。

 拮抗する二つの勢力の間でそのどちらにも荷担しない第三の勢力というのはいつの時代にもどの世界にも存在するし、それはこの時代の日本でもそう。そして、源とおるの意見を支持しているのがその第三勢力であった。

 強いて挙げれば、家柄はあるが藤原派のような現状認識力はなく、理想に燃えるが学者派ほどの理論はない、そんな勢力である。

 となれば話は早い。

 何よりもまず優先すべきことは何かという問いに、同じ答えを導き出した両派が手を結ぶ。

 最後は基経もとつねが「姓を賜った者が帝位についた例はない」と退けることで、長かった会議はこれで決した。


 二月四日、陽成天皇退位。


 同日、時康親王が天皇に即位した。光孝天皇である。


 光孝天皇は自身の体調を理由とし、基経もとつねに国政を総覧するように命じる。「関白」の名称が誕生したわけではないが、事実上の「関白」職の誕生である。

 だが、その他の大納言や中納言、参議などの役職には数多くの学者派が名を連ねており、そこからは藤原派の単独政権ではないことが読みとれる。

 言うなれば、藤原派と学者派の二大政党の大連立政権である。そしてそれは、国家の危機に対する挙国一致内閣のようなものであった。

 そのため、学者派の勢いが消え失せたわけではない。


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