日常からの転落 後編
――僕は、どうしてしまったんだろうか。
震える身体。動かぬ手足。声を出そうにも、喉からは空気が漏れだしたような、そんな細かい音しか出てこない。
どくどくと、身体の至るところから何か大切なものが流れていく。全身の血の気が抜けていく感覚に底冷えする。
周りを取り囲む衆人の喧噪が耳に障る。何だってこいつらは僕の周りに集まってきてるんだ?
「カナタ様…………どう、して――」
さざ波の様な耳鳴りに混じって、誰かの声が聞こえてくる。
知っている声だ。でもそれが誰とまでは思い出せないし、そもそも何を言っているのか聴き取れない。
なあ、もう少し大きな声で――って、そういや声が出ないんだったな。
皆何のために集まっているのか。何を見ているのか。僕を取り囲む人々はどんどんその数を増してきているようだった。
仰向けになっているのか、顔がジリジリと暖かい。昼間だった筈なので陽光だとは思うのだが、どうにも眩しさというものは感じられなかった。
そんな僕の顔の、ある一点。どうしてだかその部分だけ、暖かみに影が差していた。
その影の部分に、代わりとしてぽつり、ぽつりと熱い何かが垂れ落ちてきている。
あれ、そういえばあいつ――エミリアはいま、何処で何をしてるんだろう。
(エミリア……? ――っ!)
今まで見てきた夢と現実が一つに重なり、激しい頭痛と同時に記憶が蘇る。
僕――いや、俺がかつて勇者と呼ばれていた頃の記憶。
(全部、思い出した……今更だがな……)
エミリア……それにルシファー……俺はあいつらに話すことが沢山あった。まだまだ教えなきゃいけないことが沢山あった。それなのに、身体が……動かない。そして厄介なことに、堪らなく眠たい。
手を伸ばす。上へ上へと。暗とした闇の中、姿を見せぬ天へ向けて、手を伸ばそうとする。
だが届かない。天蓋は既に閉じてしまっており、掴むべき光にはもう、何をしても届かない。
(……ふふっ。ここで命数尽き果てるなら、俺はそれまでの人間であったということだ。惜しむべき何物もない)
~~~~エミリア視点~~~~
――やっと見つけた。
もう一生会えないんじゃないかと思っていた。
いつの日からか枯れ果てていた私の瞳からは自然と涙が溢れだし、顎を伝ってぽつりぽつり、滴となってカナタ様の頬に落ちる。
数千年ものあいだ朝な夕な想い焦がれ、そして数多の世界を跨いで探し続けていた勇者――カナタ様の転生体。
再会を果たしたカナタ様は身体中から止め処なく血が流れ、意識が遠くなっているのか、目を閉じてぜぇぜぇと荒い呼吸が続き、息も絶え絶えだ。
でも、もう大丈夫。こんな傷、私にとってはかすり傷みたいなものだから。
私は懸命に腕を伸ばそうとしているカナタ様の手を取り、<完全治癒>に取りかかった。
<異世界転移>に魔力を使いすぎて一瞬で完治というわけにはいかないけど、それでもカナタ様の顔からは徐々に生気が戻りつつあることが分かり、私はほっと胸を撫で下ろした。
「カナタ様……お会いしとうございました……」
すると僅かにではあるけれど、確かに手を握り返される感覚があった。
「エミリア……か……?」
目を閉じたまま声を振り絞って訊ねてくるカナタ様。
「……はい。あなたのエミリアです……」
「……………………」
私のその言葉に、カナタ様は懸命に首を横に振った。相変わらず冗談の通じないお人だ。
……いや、本当は冗談じゃないんだけど。
「……こんな時だというのに、変わらんな、お前は……」
掠れた声でそう言いながら僅かに口元を緩めるカナタ様。
あの頃のカナタ様はこんな風に笑う人だった。
普段決して笑うことのないカナタ様が、心を許した人にだけ僅かに見せる、私が大好きな微笑み。
そんな顔が見たくて、こんな状況だというのに、私はつい昔のように軽口を叩いてしまう。
「……ところでエミリア……お前いつから治癒魔法なんて使えるようになったんだ……? 俺の記憶では魔族のくせして碌に魔法を使えぬハナタレだったような気がするのだが……」
「カナタ様」
「……ただの意趣返しだ、真に受けるな……」
訂正。カナタ様は冗談が通じないだけじゃなくて、もっと意地悪になっていた。
やがてカナタ様の顔から笑みが消えると、ゆっくりと目を見開いた。
かつて勇者だった頃、左右の眼で虹彩の色が異なる、翡翠と黄金のオッドアイとは違い、今は両眼とも普通の黒目だった。
「………………」
その視線が私に注がれる。
宝石のような翡翠色と勇者の象徴である神眼の黄金色は失われたものの、やはりその本質は何も変わっていない。
私の瞳を通して、その奥にある心を推し量っているような、そんな色が見て取れた。
「……エミリア、念のため確認をしておくが……魔王――いや……ルシファーはどうなった……?」
「そ、それは……」
その問いに私は言葉を詰まらせる。
カナタ様の言うようにハナタレだった私が<異世界転移>や<完全治癒>などの高位魔法を使えるようになったのは、魔王・ルシファー様が強く関係していたからだ。
しかしそれを一から説明するには時間が掛かりすぎる。私はひとまず事実だけを答えることにした。
「……ルシファー様の肉体は、カナタ様と共に消滅されました」
「そうか……いや……そうだったな……」
カナタ様は再び瞳を閉じ顔を背けると、握られた手から徐々に力が抜けていくのが分かった。
勇者・カナタと、魔王・ルシファー。
世界の歪んだ仕組みに気づいたこの二人は、数万年という人種族と魔族の血塗られた歴史に終止符を打つため、互いに手を取り合い、共存の道を歩もうとした。
けれど――
「人間というのは……どこまでも愚かだ……いつも最後には俺を裏切る……」
まるで何かを悟ったかのようにそう呟くと、カナタ様の全身を漆黒の闇が覆う。
「あ”あ”あ”あ”あ”――」
魔族である私ですら背筋が凍るような禍々しい魔力が暗闇となって辺り一面を支配し、こちらの様子を遠巻きに伺っていた周囲の人間は皆喉を押さえ血を吐きながら地面をのたうち回っている。
「か、カナタ様っ、いったい何を――くっ!」
握りしめたカナタ様の手を通して流れる『怒り』と『悲しみ』の感情が混ざったような魔力の奔流に耐えきれず、私の視界は徐々に暗転していく。
「カナタ様…………ルシファ様の魂魄は…………私のなかに…………」
その言葉を最後まで紡ぐことは出来ず、私は意識を手放しそうになる。
けれど、このままカナタ様の魔力の暴走を食い止めなければ、なにか取り返しのつかないことになるような気がして、私は目を瞑り必死に意識を繋ぎ止めようと唇を強く噛み締める。
「……………………」
やがて周囲から悲鳴が聞こえなくなると、同時に辺りを支配していた禍々しい黒い魔力も徐々に鳴りを潜めていった。
私はゆっくりと立ち上がり、そして瞼を開く。
「――ッ!?」
視界に入ってきたのは、まるで皮と骨――干からびた老人のような死体が無数に横たわる光景だった。
中には幼子を抱いた母親らしき亡骸もあり、誰しもが一様に絶望した表情を浮かべたまま絶命している。
「あ…………あ…………」
そしてこの惨状を引き起こしたのは他でもないカナタ様であると私は理解し、私は声にならない声をあげながら、その場に崩れ落ちてしまう。
口は多少荒くも誰よりも慈悲深い優しき心を持ち、そして誰よりも人種族のために戦い続けてきた、あのカナタ様が、どうして…………
「エミリア」
背後からカナタ様の呼ぶ声が降りかかる。
しかしその声色は恐ろしいほどに冷たく、私は身体を震わせながらゆっくりと振り返った。
「……………………」
顔を見上げると、カナタ様は感情を感じさせない眼差しで私を見下ろしていた。
「か、カナタ様っ!? その眼は……!」
カナタ様の左眼から、どろりとした血液が流れ落ちる。カナタ様は手でその血を拭うと、深紅のような赤い瞳が妖しく輝いた。そしてよく見れば髪も伸び、黒色から銀色に染まっている。
それはまるで――
「……魔族、か」
カナタ様は抑揚のない声で、そうぽつりと呟いた。




