日常からの転落 中編
人と人とが同じ空間で過ごし、平穏な環境を保つために一番必要なもの。
それは『道理』だ。
なにしろこれ以上に明快で単純なことはない。
世界は道理に満ちていて、だからこそ社会というものが成り立っている――
あの日までの僕は、そんな風に思っていた。
だが、実際はどうだろうか。
この世の中は道理を踏みにじる輩が多い。
不条理で曖昧なものを許し、平然とした顔で共存している振りをする。
行き交う人間は誰も止めに入らない、入れない。
相手は一日先の未来も考えない。今を楽しむことだけを考える脳しかない連中だ。
見て見ぬを振りをする者、こっそりと携帯で撮影する者、どうしようかと迷いながら視線だけを送る者。
その場では可哀想と言いつくろい、やがて忘れ去る。
例えそこから救い出すことが正しいことだとしても、見捨てる、あるいは見過ごすことが多勢なら、それが正しいこと。
だから、周囲の人間は異常ではなく正常。
「オラっ、もう一発!」
「がはっ!」
「おい、ボールが痛がってんじゃねーよ」
「う、うぅ……ご、ごめんなさいっ……」
「なあ、そろそろ俺にも代わってくれよ?」
……僕は今日もサッカーボールだ。
彼らは新しい玩具を見つけたように、休み時間になればキックオフ。
とりあえず、頭をボールに見立てて蹴られまくる。
当然ルールなんてないオリジナルだから、ハンドも可。
そして放課後になればPK戦が始まる。一人ずつ僕を蹴って、苦しむ声をより出せたほうが勝ち。
こんなイジメを受けていたおかげで僕の制服はいつもボロボロだ。
そしてある日。
「動くんじゃねーよ、サンドバッグが」
「うぐっ!」
僕はお腹を殴られた拍子に大切にしている小説を懐から落としてしまう。
「おい、コイツ、小説なんて持ち歩いてるぜ」
「どれどれ。『勇者と魔王』? なんだこりゃ」
「……えして」
「ん? なんだよ、はっきりいえよ」
「そっ、それ……大切な小説……かっ、返して……!」
「ふーん、そんな大事なモンだったのか」
痛みを堪えて僕は必死に頷く。
「そんじゃ、こうしてやんないとな。オラっ!」
不良の一人は、手に持った小説を開くと、力の限りそれを引き裂いた。
「そ、そんな……っ!」
「うるせえ! つまんねーもん持ち歩いてんじゃねーよカス!」
『勇者と魔王』
今は亡き小説家だった父が、生前最後に書いた小説。未完という事情で世に出回らず、僕のためだけに一冊のみ製本された父の形見。
「うぅ……うぅ……」
「お、やっと泣きが入ったか。誰が最初にテメェを泣かせるか賭けてたんだが、俺の勝ちみてえだな」
「……ちっ。こんなくだんねーもんで泣いてんじゃねーよ!」
不良たちは床に散らばった小説のページを踏みにじり、そして僕に見せつけるようにして念入りに破き始める。
これが決定打となり、僕は夏休みを機に逃げるよう転校した。
高校入学から僅か四ヶ月足らずして。
◆◆◆
気がつけば高校二年生の春を迎えていた。
転校先の高校でも状況は一向に変わらず、僕は常にイジメの対象となっている。
そしてあの日を境にして、僕は今まで以上に夢を見るようになった。
時代も風景も、何もかも全てがこの世とは思えないような世界。
まるで僕が別の誰かとして生きているかのような、そんな断片的な夢を見る。
人間と魔族の終わりのない戦争。
一定の周期で復活を繰り返す勇者と魔王。
誰からも理解されないまま一人で戦い続ける勇者。
そのどれもが現実離れした、荒唐無稽なものばかり。
――けれど。
血に濡れた剣を振り抜く生々しい感触が、いつまで経っても僕の手から離れることがない。
……僕はいったい、何者なんだろうか。
朝の通学途中、そんなことをぼんやり考えていると――
「そこのキミ! 危ないからホームから離れなさい!」
「…………え?」
不意に背後から声をかけられ視線を上げると、そこにあるべきはずのホームがなく、僕は最後の一歩を踏み出していた。




