第十話 狼憑きと神殿騎士 その五
何かが崩れる音がしてエーミルはすぐさま振り返った。
割れた木箱と古びた小さな樽が転がっているだけであった。廃屋の中は人による手入れがされなくなって久しいのか埃っぽく、一歩歩くたびに床がギシギシと軋む。
あまり外の光が入って来ず薄暗い。グレートヘルムではさらに視界の確保が利かない。しかしエーミルは些細なこととして特に気にしなかった。
それよりも、それよりもだ。
これは主が与え申した紛れもなく絶好の機会である。
負傷した同業者が廃屋を指差した瞬間、エーミルはそう確信した。他の者ではなくこの私に邪教徒を倒せと言っているに相違ない。
エーミルは注意深く視線を走らせ、何もいないことを確認するとゆっくりと部屋の奥へと向き直――振り下ろされたブロードソードを真正面から盾で受け止めた。予想以上の衝撃に腕がビリビリとしびれる。が、歯を食いしばって重みに耐えると、盾でブロードソードを弾いた。そしてエーミルは一切のためらいもなく露になった“彼”の胸部に向けてメイスを叩きつける。魔術強化された鎧だろうが何だろうがお構いなしに、肉を裂いて骨を砕くまさに一撃必殺。
しかし“彼”は上体を軽く逸らして紙一重でメイスの一撃をかわす。
エーミルは舌打ちすると油断なくメイスを構え直した。 “彼”は――冒険者サクソンはボロボロに擦り切れた衣服と返り血に汚れた鎧に身を包み、右手にブロードソードを、左手に刃の長い鉈を持っている。
エーミルはブロードソードを片手で持っていることに驚きを隠しきれなかった。先ほど盾で受け止めた一撃は到底片手で振り下ろしたとは思えないほどの重さだったからだ。
エーミルの背に悪寒が走った。
サクソンは虚ろな目をして、口から唾液を垂らしている。正気ではないのは一目瞭然だ。無論話し合うことなんて不可能に違いない。そして首から下げているアミュレットが怪しい魔術の光を放っている。
あれが例の魔法装置か――エーミルの視線が一瞬だけアミュレットに奪われた。
サクソンはその隙を逃さず、あっという間にエーミルとの距離を詰めるとブロードソードを縦に振るう。型も何もなく、斬ると言うよりは力任せに叩きつけると言ったほうが正しいだろう。
避けられない、そう判断したエーミルは受け止めるのではなく今度は盾で受け流した。
あんなものをそう何回も受け止められるわけがない。先にこちらの腕が折れてしまう。左から鉈が迫る。魔術強化はされてはいるがおそらく錆止めだろう、脅威ではない。エーミルはメイスで軽々と捌いた。
エーミルはすでに確信していた。
たしかに一撃一撃は重い。一発でも貰えば戦闘不能になるだろう。
しかしそれだけである。
剣のキレも足さばきも、神殿騎士として鍛えられたエーミルには遠く及ばない。
問題なく勝てる。
エーミルは半歩踏み出し、ブロードソードの間合を外すと、盾の端で狼憑きの顎を軽く小突いた。どれだけ鍛えられようが、発狂して理性を失ってようが、脳を揺らされては立っていられまい。
案の定サクソンの態勢が崩れた。大きすぎる隙であった。
エーミルは元が付くとはいえ神殿騎士である。神殿騎士とは信仰のためになら容赦はしない。魔術道具のせいで凶行に及んだとしても、信仰と清く強い精神力があればそもそも魔術に屈するわけがないとエーミルは考える。だから信仰を失ったこの冒険者を倒すのは、異教徒や邪教徒を狩るのと何ら変わりがない。
躊躇いなどなかった。
サクソンの胸元を鎧の上から渾身の力で殴りつけた。幾度と聞いた肉が潰れる耳障りな音が響いた。サクソンの動きが止まる。左手から零れ落ちた鉈が音をたてて跳ねた。そして力なくそのまま後ろへと倒れる。
否。
耐えた。
サクソンは体をブルっと震わせると
「おおおおおおおおおおおッ!」
咆える。
すでに人の言語などではなく、獣のそれ。
狂人などではない。これが狼憑き。
――ありえないですわ⁉
メイスの一撃に耐えたことにか、それとも彼の咆哮にか。ともかくエーミルは恐怖した。信仰をものともしない彼に、エーミルは紛れもなく恐怖した。
空気を切り裂く音をたててブロードソードが横なぎに振るわれた。とっさにガードするがメイスで抑えられるような威力ではない。火花とともに弾かれるメイス。がら空きになるエーミルの腹部。そこへ狼憑きが強烈な蹴りを叩きこんだ。
一瞬意識が飛んだ。
そして僅かな浮遊感。
蹴り飛ばされたのだとエーミルが理解したときには、自分の体は調度品を巻き込み地面にはいつくばっていた。
「かはっ……」
肺の中の空気が一気に抜けて息ができない。蹴りというより鈍器による一撃としか思えないほどの威力であった。エーミルはすぐさま立ち上がろうとするが、どうにも四肢に力が入らない。
神殿騎士は死すら恐れない。
異教徒相手に降伏などしない。
しかし、
迫りくる足音にエーミルはぎゅっと唇を噛み締めた。
狼憑きがブロードソードを振り上げる。
その切っ先が振り下ろされるより一瞬早く、耳を塞がんばかりの轟音が屋内に響いた。それが銃声だと理解するまでには幾ばくかの時間が必要だった。狼憑きの、鎧に守られていない左肩が爆ぜ、血が噴き出した。
顔を自分が突き破った入口に向けた。邪教徒に助けられたという事実がそこにはあった。
田中は装填すると再び照準を狼憑きに合わせた。こちらも躊躇なく引き金を引く。弾丸は狼憑きの鎧がないちょうど首元を撃ち抜いた。吹き出す鮮血。しかしみるみるうちに銃創が塞がっていく。田中は信じられない光景を前に目を見張る。
「なにが発狂だよ。適当なこと言いやがって。マジで狼憑きというか人外のバケモノになってるじゃねえか!」
魔術の気配を感じ、狼憑きの首元へと視線を動かした。そこには怪しく光るアミュレット。
「あれが件の魔法装置だな」
三度目の装填。狼憑きがエーミルから標的を自分に変えたのが痛いほど伝わってくる。接近戦は性に合わない。
「キャシー、やむを得ない場合はやれ」
「仰せのままに」
田中の声に応えて、キャシーが窓をぶち破いていて屋内に躍り込んできた。
狭い屋内の中で大剣などむしろ邪魔である。よってその手には一振りのショートソード。キャシーの物ではない。負傷した冒険者から拝借してきた武器である。
――それでも動きにくい。
倒れた机や椅子に顔を顰めながらキャシーは一気に距離を詰める。狼憑きの照準が田中からキャシーに移り変わる。
先手を取ったのはキャシーだ。ショートソードを槍のように構えながら狼憑きの間合に飛び込んだ。キャシーが喉元を狙って繰り出した鋭い突きを狼憑きは難なく受け流す。キャシーはさらに半歩前に進み、ブロードソードの間合のさらに内側に入り、左腕を下から上へと振るい、上から下へと返した。狼憑きの右手首が裂け、左の袖裏に仕込んでいたダガーの刃が首元に食い込んだ。
僅かにたたらを踏んだが、狼憑きは咆え、無茶苦茶に剣を振り回す。
――――⁉
銃創が塞がる瞬間はキャシーも見ていた。しかし健や頸動脈を切ってもまだ動くのは予想外だった。いや、動かされているのか?
「なんだか人と戦っているというよりは、廃墟街のバケモノを相手にしている気分ですね。いろいろと甘いです」
狼憑きの縦からの振り下ろしを受け止め、その腹を思いっきり蹴り飛ばした。机を巻き込みながら吹き飛ばされた狼憑き。もうもうと埃が立ち込め視界が埋まる。キャシーは油断なくショートソードを構える。手ごたえがなかった。当たる寸前に後ろに跳んで蹴りの威力を殺したようだ。
つづく




