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第二十九話 蠢く影と彼の決意 その一

 聖ローレンス施療院のこじんまりしたエントランスの一角で、田中とキャシーは荷物の最終チェックを行っていた。


 荷物と言っても着替えくらいなので小さいカバンに収まる程度である。しかし、田中と違って、なぜかキャシーは廃墟街へ行くとき用の大型バックパックを用意してきた。しかも不思議なことに探索時よりもパンパンに膨れ上がっている。


 キャシー曰く乙女の秘密だそうだ。


 何が乙女だと喉元まで上がってきた言葉を寸前で飲み込んで、田中も無事に退院だ。


「それにしても……医者に完治したと言われてまだ半刻もたっていないのに退院なんて、早すぎやしないか」


 すでに荷物をまとめ終えた田中はペストマスクの下で不満そうに唇を尖らせた。しかし口を尖らせつつもどこか嬉しそうな感情が僅かに見える。たぶんクソマズい薬を飲まなくて済むからだろう。大の大人が涙目になったのだから。


 また施療院にあるベッドには限りがある。そして患者はベッドの空きがあろうがなかろうが構わずやってくる。だからこそある程度治った患者にはすぐさま出て行ってもらわなければならない。そういう施療院都合という事情もある。


「まあまあ、退院できただけでもいいじゃないですか。何事も健康が第一ですよ!アンデッドの私が言うのもなんですけど」


 なんやかんやで田中の入院中ずっと泊まり込んでいたキャシーは鼻歌混じりである。実際、田中と同時期に施療院へ運ばれてきた全身やけどの患者はまだまだ入院が続きそうだ。それでも医療魔術のおかげか、数日しかたっていないのに会話できるくらいまでは回復していた。


「それは俺の医師としての腕がたつからだな」


 そう言って近寄ってきたのは聖ローレンス施療院勤務の医療魔術師であるダリルだ。平平凡凡な顔立ちながら唯一薄く伸ばしたあごひげが特徴的か。密度があまりなくみすぼらしくも見えるけれども。


 なぜか先日のスライム事件以降、やけに田中と親しくしている。治療用スライムの管理体制の甘さから引き起こされたあの痛ましい事件は、田中の退院を三日ほど遅らせた。若干根に持っているのは否定しない。


 彼のすぐ後ろには看護助手のタニスが相変わらず仏頂面で立っている。なんとなく田中はこの看護助手が苦手である。なんか怖いし。


「医療魔術師なんぞ数が少なすぎて腕の良し悪しなんて誰も分からないだろ?」

「そうでもないよ。一応医療魔術師同士の交流会だってあるし、自分の実力がどういうものかというのは客観視しているつもりさ」


 ほんとかなあ。医師なんてエンディミオンだけでなく、周辺の城塞都市ひっくるめてそう何人もいない魔術師である。こんな施療院に医師がいること自体あり得ないことだというのに。


「ほれ、食あたりも全身打撲もほぼほぼ治ったんだから、さっさと家に帰るんだな」


 ダリルは片方の手を白衣のポケットに突っ込み、残る片手をひらひらと振る。面倒だが仕方がなく見送りに来てやっていると態度が物語っている。


 田中は荷物を持つとダリルとタニスの顔を見てから大きくため息をついた。


「患者が退院だってのに、見送りが胡散臭い医師と仏頂面の看護助手ってのは悲しいもんだわ」

「るっせぇ。さっさと帰れ。俺も忙しいんだよ」


 言葉はきついが怒っていないのは彼の表情を見ればわかる。そして大して忙しくなさそうなのも見ればわかる。とはいえ、いちいち指摘する気もないので放っておく。


 田中はドアノブをひねり、両開きのドアを開けた。途端にひんやりとした空気がなだれ込み、ペストマスクをしているというのに鼻の奥が痛くなる。


 それほど長く入院していたわけではないのに、いつの間にか肌寒い季節になっていた。あと一ヶ月もたたないうちに雪がちらちらと垣間見えるだろう。


「じゃあ――世話になったな」

「ではお世話になりましたー」


 そう言い残して田中とキャシーは施療院を後にした。


 ダリルとタニスは並んで、二人の背中が見えなくなるまで小さく手を振っていた。





 そんなこんなで久方ぶりの我が家である。


 相変わらず古びた二階建ての建屋の外壁には正体不明の蔦が好き放題に伸び、絡み合っている。そもそも近隣住民に幽霊屋敷と呼ばれる所以はこの蔦に他ならない。しかし全部駆除するのはめんどうなのでまたの機会にする。


 庭の雑草も生い茂り、玄関まで続いている石畳のアプローチが覆い隠されている。加えて剪定もされず放置された庭木は枯れ葉の一大産地となっている……普段から手入れをしていないのでこれもまたの機会にする。


「うわー、ちょっと見ない間にすげー荒れてるなあ……」


 むしろ感嘆したように言う田中とは対照的に、そんな庭の惨状にキャシーは渋い顔をした。


「ほんの一週間程度なのに……掃除、どうしましょう?」


 火炎系の魔術で燃やしてもらいましょうか、などと物騒なことを口走る。魔術師に燃やしてもらうか田中の魔術付与弾で燃やすか。どちらにせよ、なぜか家まで焼け落ちるビジョンが脳裏にチラついてしまう。よって却下だ。


「庭師でも雇いませんか?月額2980エンくらいで」


 価格崩壊も甚だしい。


「まあ考えておく。とにかくまずはお茶でも飲みたいな。そんで昼飯だな。味気ない病院食には飽き飽きしたし」

「承知しました!ご主人のために、腕によりをかけた料理をお作りしますね!」

「うむ、頼むわ」


 二人は並んで石畳のアプローチを歩き、玄関の前に立った。田中は上着のポケットから鍵を取り出すと、錠前に差そうとして――その手が止まる。


「どうしました?」


 キャシーが首を傾げ手元を覗き込んでくる。田中は何も言わずに鍵をポケットに戻すと、そのままおもむろにドアノブを握り、回した。ギイィ――と軋む音とともに扉が少しだけ開いた。


 あり得ないことである。


 田中はキャシーに顔を向けた。ゆっくりと、まるで建付けが悪いドアを開けるように。


「カギ、閉め忘れただろ?」


 間髪入れずキャシーは首を横に振って否定する。


「そんなはずありません!ご主人の着替えを取りに帰った時にちゃんと閉めましたよ!神に誓って!」

「いやアンデッドが神に誓ってどうするんだよ。真っ向から喧嘩を売ってる存在じゃねえか。いや、それはさておき、じゃあどうして開いてるんだ?」

「知りませんよそんなこと」


 頬を膨らませたキャシーは田中を押しのけると自らドアを勢いよく開けた。

つづく

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