第二十七話 施療院の怪 その四
指でなぞってみるが埃は付けども土の痕はない。
「じゃあいったい犯人はどこから現れてどこへ消えたんだ?」
「そうですね……案外まだ近くにいるんじゃないですか?例えば――すぐ後ろとか!」
キャシーは振り返ると同時に裏拳を放つ。
びゅおう!と風をきる音。
今まさに振り下ろさんとしていた触手があっけなく飛散した。
ダリルは驚きのあまり言葉を発せないでいる。ただただ視線は吸い込まれるようにそれに向けられている。
驚いているのは裏拳を放ったキャシーも同じである。
まさか自身の身の丈ほどのスライムが、うじゅるうじゅると触手をうならせているとは夢にも思わなかった。
「なぜにスライム⁉」
ダリルの声が若干裏返った。
「知りません!」
スライムはよほど興奮状態にあるのか、ゼリー状の体の中心にある目のようにも見える核を血走らせて、さらに触手を増やしてキャシーを打ちにかかる。
キャシーは冷静に触手の軌道を読んで掻い潜り、スライムへと肉薄する。そして核へ向けて渾身の右ストレートをお見舞いした。
拳は正確に核を打ち抜き、スライムの体に風穴を開ける。核が壁にぶつかり破裂した。同時にスライムの体は崩れ、気が付けば透明な煮凝りのようなものが廊下一面に広がっていた。
院長がスライムだったものの中に沈んでいるのは見なかったことにしよう。
「やったか……?」
「はい。そして犯人の正体も分かりましたね。まさかスライムだったとは。たしかに聖ローレンス施療院は石造りですから、その隙間に隠れたりすれば誰にも見つかりませんね」
ダリルは明かりを壁際へと近づけた。するとやはりというべきか、石壁に僅かではあるがスライムのようなゼリー状のものが付着している。まるでここから滲み出てきたかのように。
「しかし……下水道ならまだしもどうしてこんなところにスライムがいるんだ?しかもいきなり襲ってくるだなんて……」
キャシーは真剣な顔で、言う。
「もしかして……誰かがスライムをペットとして飼育しているのでは。そして餌やりを忘れて凶暴化して……」
ダリルは大きくため息をついた。妄想もそこまで行けば大したものである。
「そんな物好きが院内にいてたまるか。まあどうせ野良スライムでも侵入したんだろう」
「ペットも野良も両方とも間違いみたいですよ」
どういうことだ?と聞こうとしたダリルの表情が固まった。
キャシーはまっすぐ廊下の闇を見つめていた。
明かりを飛ばさなくてもわかる。何かが蠢いていることくらい。そしてそれが一匹や二匹では済まないことも。
人の腰ほどまでの高さがあるスライムが廊下を埋め尽くさんばかりに群がり、皆一様に血走った核を二人に向けていた。しかも先ほどキャシーが倒したオーソドックスなものだけでなくゲル状の体の一部を羽のような形にした個体やワームのように長い個体など、多種多様なスライムの大博覧会である。なかには痺れスライムやグミスライムの姿も見られる。
「ここはスライムの培養施設かなにかですか?」
スライムの群れを前に恐れを抱くよりも先に呆れかえってしまう。キャシーはじろりとダリルを見る。ダリルは心外だと言わんばかりに両手を振って否定する。
「施療院だといっているだろうが……たしかに解熱や毒素の抽出用に小さい奴は何匹か管理しているが。それでもこのサイズにこの数なんてありえんぞ」
一番手前にいたスライムが、ぐぁばっ!とまるで口を広げるかのように触手を広げて飛び掛かってきた。キャシーはそこへカウンターでパンチを入れる。右腕全てがスライムに飲み込まれるも、拳は核をあっけなく砕く。ぼたぼたとスライムだったゲルが床に落ちていく。
それが呼び水になったのか、次々とスライムがうじゅるうじゅると触手を唸らせ襲い掛かってきた。
所詮スライムとはいえこの数でこの大きさであれば侮れない。キャシーは腰を落としてファイティングポーズをとり、油断なく迎え撃とうとする。
ふと視界の端でダリルが一歩前に出たのが見えた。その手にはいつの間に持ったのか小ぶりのナイフが一本――いや、ナイフではない。そういう魔術があるのかキャシーには分らないが、ダリルは放出した魔力をナイフのような形状に固定させているのだ。緩やかなカーブが付いた片刃で細身の独特な形状のナイフである。本来戦闘用でもなんでもなく、外科手術の際に使用されるナイフと同じ使用目的であり、使い捨てにするのがもったいなくて医師たちにより考案された魔術である。もっとも、外科手術ができるような医師など稀有な存在のため、廃れた魔術である。もちろんダリルも魔術は使えても外科手術などできない。
魔術のナイフを構える様は医者先生に似つかわしくない。
「あら、意外とこういう荒事を経験してきた口ですか?」
キャシーは茶化すように訊いた。
「医療魔術師の就職先は病院や施療院だけではないので。怪我をする人間がいる場であればどこでも。それが都市の中だろうが戦場だろうが」
それだけ言うとダリルはナイフを振るった。ダリルに向かって伸びた触手が斬り落とされ、スライムはひるんだように他の触手を引っ込めた。そこに生まれた隙を逃さず、キャシーは拳を振り上げてスライムの群れに躍りかかった。
そして――長い長い夜が始まった。
実際のところ、すべてのスライムを倒すまでそれほど長い時間はかからなかった。
キャシーの戦闘能力はさる事ながら、スライムというモンスター自体がそれほど強いわけでもなく、小さいモノなら野良犬にさえ負ける程度である。残念なことに創作物でよく出てくる粘液状の生物とは別物なのだ。
とはいえ、いくら弱くても十数匹のスライムと殴り合いをしたのだ。アンデッドといえど息が上がるし、集中力も削がれる。
キャシーは荒々しく肩を上下させ周囲を見渡した。
「今ので最後……なのかな?」
初めに遭遇した地点から、次々と現れるスライムを倒しながらどんどん進んでいき、二人は施療室のすぐ前まで来ていた。ここに至るまで、聖ローレンス施療院の廊下は壁や天井を問わずゲル状の物体が飛び散っている。そのせいで足を動かすたびにびちゃびちゃと湿っぽい不快な音がする。あと面倒なので院長はそのままにしてある。
「だろうな。というかそうであってくれ。これ以上魔術を使ったら業務に差し支える」
既にダリルの手から魔術のナイフは消え、顔には濃い疲労の色が浮かんでいる。
「今さら業務の心配するんですか?スライムの残骸で床がべちゃべちゃなの忘れてません?」
「掃除は看護助手に任せるからいいんだよ。それよか治療に回せる魔力が残ってるかどうかが問題なんだが……」
ギイィ……と施療室の扉が軋んだのは、ダリルが言葉を切ったのと同じタイミングであった。ギョッとする二人のことなど意に介さず、ゆっくりと、独りでに開いていく。
初めは騒動に気が付いた患者かと思った。しかしいくら待てどもその隙間から窺う様子はない。そもそも人の気配すらないのはどういうことなのだろうか。
ひたすら想像したくない事が脳裏を過ぎる。
キャシーとダリルは互いに視線を合わせると慎重な足取りで扉へと近づく。
ドアノブに手を伸ばしたのはキャシー。そっと扉を引いて――刹那、床を蹴ってキャシーは大きく後ろへと跳んだ。同時に壁ごと粉砕されて崩れる扉。
言葉を失うダリル、その向こうから現れる巨大な影。
天井まである体をぶりゅりゅと揺らし、血走った核がまるで目であるかのようにダリルに向けられた。先ほどまで戦っていたスライムたちが小粒にすら思える。それほどの大きさのスライムが施療室から現れた。このサイズのものは天然ではそうそうお目にかかることはできない。しかしどうして施療院で大量発生するのか、どうして今日に限って暴れ出すのかが全くもって理解できない。
つづく




