第二十七話 施療院の怪 その一
エンディミオンには黒猫の尻尾通りと呼ばれる地域がある。決して揶揄する意図はないのだが、ここに住む人々は大方あまり金銭的余裕がない人ばかりである。立ち並ぶ家々も戸建てではなく、庭と呼べるようなスペースもない長屋だ。
例外と言えば、この地域の住民から幽霊屋敷と呼ばれているお屋敷くらいだ。とはいえ平穏非ざる地域である尻尾のない鼠地区とはその治安は雲泥の差である。そして何より施療院の存在が一番大きい。少なくとも黒猫の尻尾通りの住人は怪我や病気になった際に治療を受ける権利はある。尻尾のない鼠地区の住人とは違って。
黒猫の尻尾通りのメインストリートからやや都市中心方面に、その施療院はあった。
道路に向かって建てられた看板には聖ローレンス施療院「治癒、喀血、縫合、ステータス異常など合法的な当院スタッフによりすべてに対応。実質的安心安全を提供。医師も常駐しています」と書かれている。石組みの二階建てで、そこらの長屋とは造りも大きさも異なっており、いい意味で付近の建物から浮いていた。
その聖ローレンス施療院の一室で男が読みかけの本を閉じた。外見からして三十歳ほどの青年である。開けっ放しの窓へと視線が自然と移る。やけに外が騒がしいのだ。
「急患でも来たかな?」
青年は傍にある椅子の背もたれに掛けられていた白衣を羽織る。胸元には刺繍が施されている。医師ダリル・バートラント、と。
短く整えられた黒っぽい髪をわしわしと掻きながらダリルは部屋を出て、一階にある施療室へと向かう。急患が運び込まれるのはここが真っ先だからである。すると案の定、施療室からひと際騒々しい物音やら声やらが聞こえてくる。扉は閉まっているというのに、今日の患者はなかなかめんどくさそうだ。
ダリルはドアノブに手を伸ばし、一呼吸おいてから開けた。
扉を開けるとそこは混沌であった。
今朝は一人もいなかった八床のベッドが全て埋め尽くされていた。
右足を添え木で固定して横になっている男、爆発にでも巻き込まれたのか全身を包帯でぐるぐる巻きになったアフロヘアーの男、熱があるらしく顔を真っ赤にして額に小ぶりのスライムを乗っけている女性もいる。決して襲われているわけではなく、スライムのひんやりとした感触で患部を癒しつつ、熱も吸い出して体温を下げるのだ。スライムの吸熱性を使った治療法は医療機関では当たり前の治療行為である。ちなみに毒素も吸い出すという優れモノである。
その中でもひときわ目立つのはペストマスクを被ったままベッドに横になっている奴だ。
「ご主人んんんんんんん!死なないでくださいいいいいい!」
「キャ、キャシーか……俺はもうだめだ……。たぶん俺が死んだら直にお前も動かなくなる。けれど、動かなくお前を見るよりは早く逝くほうがましだな……」
「いやあああああ!ご主人がああああ!医者先生、ご主人を助けて!」
ペストマスクを被った患者に縋りつく女の子が、これまたペストマスクを被った医者に涙や鼻水やらで汚れた顔を向け、必死に訴えかける。
診察していた医者はカルテから顔を上げると、
「食あたりですな。あとで腸内環境を良くする薬を持ってきます。明日か明後日にはよくなるでしょう」
キャシーは顔をさらにくしゃくしゃにして、
「ご主人!聞きましたかああああああああ!うわあああああん!」
「あ、ごめん。また腹痛くなってきたから静かにしてくれ……」
「飲み薬を調合してきますので横になったまま休んでいてください」
自分でも顔が引きつっているのがよくわかる。
聖ローレンス施療院に勤務するすべての医者と看護助手がせわしなく動いていた。
基本的に黒猫の尻尾通りでは、病気だとかが多いので自分の出番はあまりない。しかし、この時ばかりはそうもいかないようである。
ダリルは一番近くにいたベテランの看護助手に近寄ると声を潜めて訊ねた。
「えーっとこれはどういうことなんスか?てかいつの間にこんな忙しくなってんスか?」
「都市中央でパン屋ギルドとお菓子屋協同組合の大規模な抗争があったらしくて、その騒動に巻き込まれた人がぞくぞくと運ばれてきてるのよ」
迷惑なことだわ、と看護助手は患者の目の前でため息をついた。
「あのうるさい患者も?」
「タナカさんとこね。あの人はなんか変なモノ食べたらしいわ。キャシーちゃんがちょっと混乱してるけど……かわいいからアリよ」
――皆まで言うまい。
タナカという珍しい名前に少々聞き覚えがある。
「ああ……幽霊屋敷に住んでいる屑拾いの人か」
幽霊屋敷に住みだした怪しい屑拾いの話は黒猫の尻尾通りでは有名な話である。
年がら年中マスクを被った怪しい屑拾いと、顔色は悪いが愛嬌と健気さで水汲み場を支配する女連中に評判のいい女の子。この異色コンビの話を知らない住民などまあいない。
とはいえダリルも会うのは初めてだがなるほど、たしかにあの女の子は女連中にウケがいいのはわかる。
ベテラン看護助手がじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「はいはい、先生も早く仕事をしてくださいませんか?医師が働かないとどうしようもないことだってあるんですから」
「……すみません」
「三番ベッドでタニスさんが準備をしていますから」
そう言うと、ベテラン看護助手は空になった水差しを持って、施療室から速足で出て行った。
あいかわらずここの看護助手はパワフルだなあと思いながら、ダリルは言われた通り三番ベッド――田中の隣にあるベッドへと向かう。そこでは自分の助手であるタニスが治療に必要な準備を進めていた。まだ若い女性の看護助手で容姿は整っているのだが、いかんせん常に憮然とした面持ちで、患者と接する時くらいはもう少し愛嬌があってもいいのではないかと思わなくもない。
「先生、遅すぎます。あとあえて言いませんが考えていることが顔に出ています。ぶっ殺しますよ」
「どこが、あえて言いませんが、だ。どストレートに殺す発言してるし。それにそんなことで殺されたらうちに勤める医師がゼロになってしまう」
タニスは小首をかしげると、
「私は違う勤め先へ行くだけですので」
「……とにかく医術を行う。で、この患者は?」
ベッドの上では全身を包帯に覆われた患者が苦しそうにうんうん唸っている。
タニスは手元のカルテをに視線を落とす。
「パン屋ギルドの下級構成員です。洋菓子店を爆破するために火炎系の術式を仕掛けたところ、発動時に誤って自分も火を浴びてしまったようです」
ダリルとは違い、タニスは眉一つ動かさなかった。
「…………」
色々と聞きたいことが山ほどあるが、あくまでカルテを読み上げているだけなのだからこれ以上詳しい話は聞けないだろう。
この患者、洋菓子店を爆破しようとするとかテロリストかなにかだろうか。
「経緯はともかく、とにかく全身火傷ってことだな」
「はい、そうです」
「や、それだけで十分」
ダリルの眼差しが真剣なものへと変わる。眼下のベッドは隣の田中とはいささか違う箇所がいくつかあった。まず患者を中心にしてベッドの四隅にルーン文字が刻まれた護符が設置されている。また患者の胸元には小さな小瓶が置かれている。
護符は四方を覆うことで魔術を発動した際、その効果を増幅することができる。そして小瓶の中にあるのは特別な液体……というわけではない。触媒として用いるが中身はただの井戸水である。
事前準備はできているようだ。
つづく




