第一話 魔術師と従者
灰色の世界が一面に広がっていた。
遥か昔に起こった文明の興亡の後がまだ残る、死と瓦礫の世界だ。天にまで届きそうなほど高く四角い塔が立ち並び、時には傾き、倒壊している。その隙間を縫って青々と茂る草木が風に揺れている。灰色の世界にアクセントを効かせる差し色のように。
そんな旧世界の廃墟の中を死に物狂いで駆ける人影が一つ。体格からしておそらく男、それも成人男性だろう。なぜ体格から性別を判断しなければならないのかというと、その男の身なりが少々――いや非常に特殊なものだからである。
都市迷彩柄のフード付きマント、肩から斜めに掛けている小銃、魔術付与――魔術により依代を強化されているため淡い青色に発光する胴当て、そして腰には剣。かろうじて魔術師と名乗ることが許されている者たちの恰好であった。いや、そこは特殊などではない。本命は違う。最大の点は魔術師崩れの男がつけているペストマスクだ。リベットが撃ち込まれ補強された鳥のくちばしのようなそれにより、男の顔が一切伺えない。怪しい、不気味、不審者と辞書を引けばこの男が出てくる、そんな外見であった。
そんな彼は後ろを振り返ることもせずにただ全力で走っていた。振り返る余裕がなかった。逃げるので精いっぱいだったからだ。
――何から?
背後の瓦礫が轟音とともに天高く舞い上がった。それが進行方向上にある邪魔な瓦礫をものともせずに突っ込み、蹴散らしたためだ。
「くそっ!今日はついてねぇ!」
ペストマスク姿の魔術師が悪態をついた。それと同時に濛々と立ち上る粉塵を突き破って、見るからに固そうな鱗で頭を覆った巨大なトカゲが飛び出してきた。頭から尾の先まで全長八メートルはあるだろうか。この旧世界の廃墟群のなかで構成される異質な生態系の頂点に君臨するものの一体で、ミュータントと呼ばれる規格外のバケモノである。もちろん肉食性だ。
「なんでこんなところにリザードがいるんだよっ!」
魔術師は灰色の石のようなものでできた塔の瓦礫を飛び越え、斜めに倒れた太い柱と地面との僅かな隙間をすり抜けるとなおも走り続ける。
獲物しか目に映っていないリザードはためらわず柱の隙間に頭を突っ込ませ、間抜けにも柱と柱の間にはさまった。身動きが取れず手足をばたつかせてリザードはもがく。
魔術師が足を止めた。目に浮かぶのは殺意の色。
「爬虫類風情が人間様なめんなよ!その石頭ぶち抜いて脳髄ぶちまけて、その上でタップダンスでも踊ってやらぁ!」
魔術師は小銃を構えると魔力を送る。小銃内に施された術式が作動し、安全装置が解除された。側面の送弾レバーを手前に引き、初弾を薬室内に装填する。照準をリザードの頭に合わせて、引き金を引いた。撃鉄が小銃内の術式に激突したことにより完成した魔術回路が作動、小銃内で爆発の魔術が起こった。その衝撃で弾丸が銃口から発射。弾丸は狙いたがわずリザードの頭に着弾し――
乾いた金属音とともにあっさりと弾かれた。
生身の人間を相手するならいざ知らず、リザードの頭を打ち抜くには口径も弾速も足りない。
余談ではあるがこのリザードと遭遇して万が一敵対行動をとられた場合、熟練魔術師ですら真正面からの対決を避け、まずは逃げに徹する。
なぜか?
答えはとても単純である。頭部の鱗があまりにも固いため、下手な威力の魔術では有効打を与えられないからだ。破壊力のある高位の魔術を使えば真正面からでも殺せるだろう。しかし高位の魔術を行使するにはそれなりの時間がかかるし、その前に餌になってしまう。
「バケモノめ……」
憎々しげにつぶやくと魔術師は腰の弾薬箱から弾丸を一発取り出した。小さなルーン文字が刻まれ、淡く光を放っている魔術付与された弾丸だ。文字通り魔術が施された弾丸であり、術式とは違い魔力を送らなくても弾丸ごとに付与された特定の魔術を放つことができる。すなわちこの魔術師が唱えられないような、より高位の魔術的攻撃が可能なのだ。なお特注品のため非常に高価である。もう一度言う、非常に高価である。
取り出したはいいが魔術付与弾を小銃に装填しようか逡巡し――装填する前にリザードの動きを封じていた瓦礫が、その巨体の運動エネルギーに耐えきられず木っ端みじんに粉砕された。
リザードの容赦のない突撃が再開する。
素早く小銃を巻き上げると、弾丸を握ったまま魔術師は一目散に駆けだした。心なしかリザードの動きが先ほどよりも早い気がする。銃撃が原因か瓦礫が原因か、ともかく廃墟群の主を相当怒らせてしまったようだ。
「キャシー!キャシーは何をしているっ⁉」
はぐれた相棒の名前を叫びながら牽制に数発銃撃するも、ことごとく外すか弾かれる。リザードの勢いが削がれる様子など見えず、まったく意味がない。弾代がもったいないだけだ。いや、今は費用の話をする余裕なんてないのだけれども。
狙うなら頭ではなく首元。そこならまだ肉が柔らかい。柔らかいと言っても弾丸が通るかどうか保証はない。そして付け加えるなら、問題はこの状況下でどうやって狙うかである。
「無理に決まってるだろーが!」
やはりリザードの頭を正面から撃ち抜く必要がある。それも石頭をぶち抜けるくらいの圧倒的破壊力で。
やるしかない。
「こんなところで――」
魔術師は急制動をかけ、右足を軸にカラダをひねるとリザードと対峙する。魔術師との距離はリザード一匹半ほど。その右手には淡く光る弾丸。
「こんなクソみたいな世界で――」
小銃の側面から装填されている弾丸を抜き取り、代わりに魔術付与された弾丸を入れる。送弾レバーを引き装填。小銃を構えて、引き金に指をかける。
「元の世界に帰るまで、死んでたまるかぁぁぁ!」
引き金を引いた。
弾丸に刻まれたルーン文字が発光し、術式が展開、眩い光の奔流となってリザードを直撃した。至近距離での閃光に魔術師の目がくらみ、視界がホワイトアウトしてしまう。この弾丸に付与された魔術の威力は相当なものであった。周囲の瓦礫が融解、蒸発しているものも見られる。
白煙が、肩で息をしている魔術師の目前に立ち込めている。
「一発、86000エンの高級品だ。さすがにくたばっただろ糞トカゲめ……ざまあみろ!」
ほどなくして煙が晴れる。
魔術師の目に映ったのは見るも無残に破壊しつくされたリザードの死骸――などではなく表面の鱗が赤くただれ、焦げた臭いを漂わし、なおもこちらを見据えるリザードであった。
もちろん存命である。
まさか弾丸に付与されたものとはいえ、高位の魔術的攻撃に耐えられるとは思っていなかった。
「ははっ、まいったなこりゃ」
魔術師は銃口を下した。
口の端から血を垂らしながらもリザードが歩を進ませる。獲物を追い詰めたことに満足したのか、それとも相当なダメージのせいか、ともかく緩慢な動作で前足を振り上げた。人など簡単に引き裂けるほど鋭利な爪がギラギラと凶悪な光を放っている。
傍から見たら絶体絶命としか言えないだろう。しかし、この魔術師はまだあきらめてはいなかった。魔術師は大きく息を吸い込むと、
「キャシー!今日はおやつ食べ放題でいいからなんとかしてくれぇぇぇ!」
絶叫と同時に、傾いた塔の屋上にゆらりと小さいシルエットが立ち上がった。それはリザードと、今まさに引き裂かれそうになっている魔術師との姿を捉えた。そして屋上の縁を蹴ると躊躇なく地面に向かって飛び降りた。
太陽を背に急降下するのは巨大な剣と――それを大上段に振りかぶる少女が一人。
リザードに影が重なる。そこで接近する敵の存在にやっと気づいた彼は顔を上げた
しかしもう遅い。
「よっしゃぁぁぁぁぁ!揚げた芋ゲットォォォォォッ!」
リザードが反応するよりも早く振り下ろされた大剣の一撃。高位魔術すら耐えきったリザードの頭部がそのインパクトに耐えきれずはじけ飛び、骨が砕ける音とともに肉や脳漿をあたり一面に飛び散らせた。位置エネルギーの圧倒的な暴力であった。
頭部を失ったリザードはなおも数歩進むが、ほどなくして力なくその巨体を横に倒した。
「今回は……今回は本当に危なかった……」
フードを脱ぐと魔術師は額の汗を拭うような所作をした。しかしペストマスクはつけたままである。安全装置を施し小銃を肩からななめにかけると魔術師はリザードの死骸へと近寄った。
正確には死骸に、ではない。死骸のすぐそばで這いつくばる少女の元にである。
その両足は落下時の衝撃に耐えきれなかったのか、かろうじて筋でつながっているがほぼ千切れている。左手はもちろん関節が決して曲げることのできない方向に曲がり、なおかつ皮膚を突き破って骨が飛び出ていた。右手はひじから先がない。どこかと探してみれば大剣の柄を握りしめたままぶらさがっていた。
魔術師は目を覆いたくなるような惨状を臆することなくまじまじと見た後、小さくため息をついた。そして少女の傍らにしゃがむと落ち着き払った声で言った。
「助けてくれとは言ったが、そこまでやれとは言ってないぞ」
少女が血の気のない顔を魔術師に向ける。その顔には斜めに大きな縫合痕があり、左目は黒い眼帯で覆われている。痛々しい姿ではあるがどうにも人の視線を捉えて離さない、そんな風貌である。
「何をおっしゃいますか。ご主人の危機ですよ。従者たるもの多少の無茶はするに決まっています」
そう言って少女は明るい笑顔を魔術師に見せた。嘘偽りがない、心の底から思っているのだろう。
魔術師は、今度はあからさまに大きなため息をついた。
「まったく、だからと言ってこんなに壊していいとは……っつたく、直す身にもなれよ」
「それはいつも申し訳なく思ってはいます。ですがご主人、私としては妙齢の女子のカラダを隅々まで文字通りいじくる行為はとても役得ではないかと思います。しかも合法的。ご主人でなければあっという間に都市警の犬どもがやってきます」
「ばかいえ。そんなマッドで変態みたいな趣味はない。それに妙齢なのは見た目だけだろ」
魔術師は立ち上がると地面に突き刺さったままの大剣に近寄る。剣の柄から強引に右腕を外すと、少女めがけて投げてよこした。右腕は生々しい音をたてて少女の眼下へ転がった。
「な!乙女に対してその言い方、さすがにご主人といえど許せませんぞ。といいますか実年齢も片手で数えられるくらいですからね。って、この状態じゃ数えられませんね。よいしょっと」
少女のねじ曲がったはずの左腕がボキボキと音をたてて元の向きへと戻る。いや、戻しているのだ。彼女自らの意思で。痛々しい傷はそのままに、少女は左手を握ったり開いたりする。まるで元から怪我などしていないような動作である。
「これで数えられますね。ひーふーみー……えーっと、何年目でしたっけ?」
「さあ。忘れた。というか集中したいからちょっと黙ってろ。今直すところだから」
言うや否や魔術師の両手が発光する。これほどの重傷を負った人間を回復させるためには、とてつもない高位の医療魔術が必要だということは想像に難くない。しかしその光はとても医療魔術のそれとは思えない。もっと禍々しく、もっとおどろおどろしいものである。
魔術師は光を纏った右手を半壊した脚部にかざした。かざした部分から傷口が蠕動、糸を引き、絡み合い、肉同士が再結合を開始する。とてもじゃないが見ていて気持ちのいい光景ではない。ミンチ肉をこねて成型しているかのようだ。
自分の足のことなど全く気にしていないのか、少女は右腕をつかむとひじ先の傷口同士を合わせた。
その部分にも魔術師は先ほどと同じように左手を振るう。すると、みるみるうちに傷口がくっ付いた。それだけではなく大小問わず、カラダの破損個所が治っていく。魔術師の手から光が消えるころには少女のカラダは傷一つないもとの姿へと戻った。
「どうだ?どこか動きがおかしいとこはあるか?」
魔術師の問いかけに少女は手足をぶらぶらさせたりストレッチをしたりしてから、
「さすがご主人だ、なんともないぜ!」
ならよかった、と魔術師。若干あきれたような口ぶりである。
「それにしてもご主人の能力はすげーですね!自力で直せない傷も一瞬ですし!」
「こんな廃墟街のど真ん中で死なれたら俺も困るからな。そりゃ全力で直すさ」
「ちょ。ご主人何言ってるんですか。マジウケるんですけど」
少女は腹を抱えて笑いながら魔術師の腰のあたりをビシビシと叩く。
「私、常に死んでるんですけどね。アンデッドなだけに」
青白く、血の気のない顔。体中に見え隠れする縫合痕。中身のない眼孔を隠すための眼帯。見た目はどこにでもいる、とは決して言えない危険な外見だが、いわゆる可愛い部類に属する二十もいかないほどの少女。
しかしその実態は、この怪しいペストマスクの魔術師のネクロマンシーにより生み出された特製のアンデッドである。
「ご主人、そこは笑うところなんですけど。アンデッドのカラダを張ったネクロマンシージョークなんですけど」
少女は立ち上がると、地面に突き刺さったままの大剣を軽々としかも片手で引き抜いて見せた。長方形で幅広の刀身を持つ大剣である。淡く赤い光と刻まれたルーン文字から魔力剣であることは一目瞭然だ。刀身は少女と同じくらいの長さで、軽量化の魔術が施されていたとしてももちろんこんな少女が片手で持てるはずがない。リミッターがはずれたアンデッドゆえの人間離れした怪力である。
そしてその切っ先を魔術師に向けているのは如何なものだろうか。
「すまん笑うところがどこかわからん。というか剣を向けるな、危ないだろ!ちょっとはゾンビやスケルトンみたいな寡黙さとか従順さを見習ってくれよ、マジで」
「何をおっしゃいますか。私はご主人に従順ですよ。ベッドの上なら特に」
「マジで土に返すぞ」
「あら、ご主人。私に力で勝てたことがありまして?」
「このアンデッド、ネクロマンサーに歯向かいすぎだろ……」
魔術師は顔に手を当てこの日何度目にかになるかわからない大きなため息をつく。少女――否、少女姿のアンデッドはそれを嬉々とした表情で見ている。心の底から楽しそうである。
「ほら。キャシー、探索はお終いだ。そろそろ帰るぞ」
「はい、ご主人。仰せの通りに」
大剣を背負うと、先を歩いている魔術師の半歩後ろをキャシーはついていく。自我を持つアンデッドとネクロマンサー能力を持つ魔術師、非常に不釣り合いな二人組である。やがてその二人組は死と瓦礫に埋め尽くされた灰色の世界へと消えていった。
これは異世界からの来訪者とアンデッドによる、剣と魔術と役人が支配する妙に俗っぽい世界で繰り広げられる物語。