八話 夢中
部屋に戻り、襖を閉め、誰もいないことを確認した兼和は膝から崩れ落ちた。
「まさか……このようなことになるとは…………」
いつもの癖で袂の扇子を探すも、先程梵舜に渡してしまったことに気付き、手で口を押え、息が漏れるのを堪えた。
「明智に付くことで得られるはずだった対価も出世も……これですべて潰えてしまった……」
藤孝の行動は兼見にとっても大きな誤算だった。
「まさかお前が明智を裏切るなどと……そんなこと、俺が読めるはずないではないか……」
兼和は自身が取るべき行動を見誤ったことを激しく後悔した。
「お前は明智の与力であるだけでなく、長年の友でもあったではないか……それを……裏切られるのか……躊躇いもなく、見捨てられるというのか……っ」
兼和の手は震えが止まらなくなり、だんだんと息が荒くなる。
「お前は……本当に……いつもいつも……」
「ふ……ふふふ……ははははははははははははははは!!!!」
兼和はもう堪えきれぬと腹を抱え高らかに笑った。
「織田を裏切った明智をさらにお前が裏切るとはなあ……藤孝、お前というやつは……何処まで俺を楽しませれば気が済むのだ!!」
兼和は含み笑いを続けながら呟く。
「……いつからだ? いつから明智の思惑に気が付きここまで策を巡らしていたというのだ? お前の事だ、唐突に思い浮かんだわけではないのだろう? 意地の悪い奴だ、身内である俺にくらい言えばいいものを……」
兼和は宙に向かって手を振った。
「……いや、いい、分かっている、分かっているさ俺に言えば明智に漏らすかもしれんものなあ?」
兼和は肩を竦める。
「俺の方こそお前に何も言わず明智に付くと決めたのだ、これはお互い様……いや、お前は何一つ悪くない思い及ばなかった俺が悪いのだ」
兼和は考え直す。
「いや、そもそもな、俺は明智の話を聞いた際、此度くらいはお前を先回りして出迎えてやろうなどと考えていたのだ、だがやはり身の丈に合わぬことをするものではないな……」
兼和は続ける。
「ふふ、そうか、明智もそうだ……所詮身の丈に合わぬことだったのだ……お前はそれを分かっていたから、このような行動をとったのだな…………しかし誰もお前の考えを悟ることができなかったとはな……いや、俺すら気付かなかったのだ、仕方あるまい……それほどのことをお前はやってのけたのだ……だが、これで終わりではないのだろう?」
兼和はひとつの結論にたどり着いた。
「あの羽柴の猿に天下が取れるはずは無い、ならば誰が天下を取る? そうだ藤孝お前しかいない……俺はずっとそれを望んでいたのだ、勿論協力は惜しまない、ともに天下を取ろう、藤孝」
兼和はようやく満足したように大きくため息を付く。
「ふふ……そうだな、笑っている場合では無い」
兼和は立ち上がり、障子を開け夜空を見上げた。
「確かにこのままでは明智と共に俺まで沈みかねん、それでは困る、そうならぬようすぐに手を打たねばな」
兼和は振り返る、当然そこには誰もいない。
「ああ、心配することはない藤孝、これくらい俺だけでも対処できる」
兼和は目を細め、首をかしげた。
「お前もそう思うから、俺に何も言わなかったのだろう?」
兼和は照れたように笑う。
「信じられるというのは何ともこそばゆいものだがいいだろう、その期待に応えて見せようではないか……待っていろ、藤孝……ふふ…………」
兼和は再び笑い出した。
部屋の外では弟、神龍院梵舜が兄の様子を伺っていたが、唐突に笑い出したことによりとうとう気が触れたのだ、こうなっては当家は終わりだと頭を抱えていたが、当然兼和はお構いなしに笑い続けた。
織田からの使者だという男が光秀との件について訊問のため兼和の元を訪れたのはその翌日の事である。
「明智様、絶対に戻ります……!」
柿は空を振り返り呟いた。
彼女は敗走する光秀達とは別行動をし、一人山道を走っていた。
その別行動を決めたのは明智が天王山の戦いに大敗し、敗走する日の朝にさかのぼる。
暗闇の中、光秀は座り込み、頭を抱えていた。
「もう、駄目なのか……?」
『おい、何を俯いている?』
「……!」
その声の方向から、一筋の光が光秀に向かって伸びる。
『諦めるにはまだ早いだろうが』
そしてその先にいたのは待ち望んだ男の姿だった。
「藤孝……来てくれたのか……」
光秀は眩しい光に目を凝らし、笑った。
それを見て光の中の男、藤孝も笑った。
『随分と遅くなってしまった、悪かったな』
妨害に合っていたのだと、申し訳なさそうに言う藤孝に光秀は首を振った。
「いいさ……お前さえ来てくれたらそれで……」
それは光秀の心からの言葉だった。
『何を気弱な、諦めるには早いと言っただろう』
「……どういうことだ?」
『俺だけではない、皆が兵を挙げ織田の残党を討とうとこちらに向かっておる、皆、お前の味方だ』
「なんと……」
その言葉に、光秀は目を見開き、顔に色が戻る。
『さあ、行こう明智』
「……待ってくれ」
『どうした?』
「他はどうでもいい、藤孝……お前は、お前は俺の味方なのか」
『ははは、何を言い出すかと思えば何を今更……』
そう言うと、藤孝は手を差し出した。
「味方に決まっているじゃないか」
光秀はその手をためらわずに取った。
「光秀様……!?」
掴んだ手の主の驚いた声に明智は目を覚ました。
「? …………ッ!!」
辺りを見回し、手の先にいるのが柿と分かると、自身が夢を見ていたのだと気付き、明智は血の気が引いた。
「藤孝ッ藤孝は……」
「……!?」
柿のうろたえる顔を見て、返事を聞くまでもなく光秀は察した。
「………………来るわけが、ないよな……すまない、眠っていたようだ……こんな時に……」
自嘲気味に笑い、力が抜け、座ったまま項垂れる光秀の姿を見た柿はその哀れな様に心から憐憫の情を抱いた。
(明智様はそこまであの男のことを……)
柿自身にとっては邪魔な存在でしかない藤孝だったが、光秀にとっては心の支えであったのだと、きっと藤孝がいればこんな事態にはならなかったのだろうと柿は悟った。
「わ、私が長岡様を呼んできましょうか……?」
柿の咄嗟に出たその言葉に光秀はあっけに取られた。
「何を言ってるんだ……」
「私なら長岡様の顔を見知っていますし、居場所もきっと突き止められるでしょう」
元忍びですからと柿は苦笑しつつ、少し自慢げに付け加えた。
その姿を見て明智も苦笑した。
「ああ、では頼む」
「必ず、藤孝を見つけ出し明智様の下へ連れて参ります」
そうすれば助かるはずとばかりに笑う柿を口元に笑みをたたえたまま光秀は何も言わなかった。
そして柿は意を決したように駆け出す。
「……やはり、お前も命が惜しいか……」
柿の去っていく様を見送りながら光秀は呟いた。
「逃げたいのなら下手な言い訳などせず黙って逃げてくれればいいのに……」
柿が明智から離れる少し前の事として、兼和は"新たに書き記した方"の日記に"明智が天罰を喰らうのはもはや眼前であろう"と書いた。
事実、その日光秀の兵に向かって放たれる沢山の銃声が辺り一帯に鳴り響いたのである。
夢中(むちゅう):夢の中、我を忘れること