四話 五月雨
『なあ藤孝……俺は思うのだ』
『雨が降り、水を得るから木は美しい花を咲かせ、実をつけるのだと……だが血の雨により育つ木がつける花や実が美しいものだろうか? 俺はどうしてもそうは思えぬ……いっそ、血を降らせる雲をはらうべきでは……』
『……明智よ』
『なんだ?』
その朝、日が昇るより随分早く柿は目を覚ました。
再びまぶたを閉じることなくそのまま起き上がり、早々に身支度を整える。
最近はあの男、藤孝が姿を見せることがないおかげで肉体的疲労はあるが精神的疲労は少なく、このところはよく眠れているのだ。
日が高く昇るより前に、一通り掃除などの仕事を終え、柿は時間を持て余していた。
丁度届いた荷物があるというのでそれを持っていくべき部屋に届ける役目を引き受ける。
迷うことなく部屋を見つけた柿は中に光秀がいることに気付き、浮かれながら入室した。
「ああ、ようやく届いたか」
柿の姿を、というより荷物を見た光秀は明るい顔で柿に寄る。
柿にそのまま持たせ、荷物の中を見た光秀は明らかに落胆の色を見せた。
「これではない……」
「?」
「人を集め、もう一度荷を確認してみます」
「ああ、頼む」
他の従者と一言二言交わすと、その従者は部屋から出て行き柿は光秀と部屋で二人きりになった。
「あの……光秀様」
「ああ、すまないそれはその辺りにでも置いといてくれ」
光秀は投げやりな様子で柿に指示を出した。
その振る舞いに柿は当然気を悪くすることはない。
「何があったのかお伺いしてもよろしいですか?」
「……荷が一つ届かぬのだ」
今度三河から来る徳川家康とその家臣らのもてなしをするよう光秀は信長から命を受けた。
家康らは三河の田舎者である故、見たこともないような珍品、珍味なども用意してやるよう加えたらしい。
一通りは光秀自ら商人の下へ赴き、吟味しその場で調達したが、一つだけ後で届く手はずになっていた物が届かない、とのことである。
まだ届かぬ荷は集めた物の中でも目玉になるような珍品であるようで、どうしてもそれが届かなければ困ると、以上のことを光秀は苦虫を噛み潰したような顔で語った。
「ここまで小さな山を一つ越えるくらいで、一日もかからぬはずなのに……」
恐らくその山で何かがあったのだろうと光秀は地団太を踏んだ。
「……ならば私が、その山へ行き何があったか探りましょう」
柿の唐突な一言に光秀は驚く。
「山に入るのは慣れていますから」
元忍びですので、柿はそう胸を張る、光秀は少し考え、では頼むと頷いた。
それを見て柿は嬉しそうに承知するとすぐに屋敷を発った。
山に入り、柿はまず商人が使うであろう山道をひたすら走った。
勿論目の端に何かあった形跡がないか注意することも怠らない。
「品が無事ならいいが……」
柿はおおよその予測を二つ立てていた。
一つは不安定な道の途中で足を滑らせ転落、もしくはこの辺りの盗賊に襲われ命ごと荷を奪われたか、だ。
ここ数日は晴れていたが、その前日は雨が降っている。
滑り落ちたとすれば、ぬかるみに足を滑らせ転げ落ちたのではと柿は推測していた。
後者だとすると荷の取り戻しようは無いだろう、前者であることを柿は祈る。
「この辺り……怪しいな」
しばらく走ったところで、急に道が細くなったことを不審に思った柿は速度を弛めた。
木は高くうっそうと葉で茂った辺りは薄暗く、道の両端には草が密集していた。
土に戻りかけた枯れ葉と草の間に違和感を覚え、試しに草の部分に足を踏み入れてみると案の定段になっており、随分深い。
この急勾配なら人が足を踏み外し、転落するにはうってつけの条件だと柿は頷いた。
柿は注意深く辺りを見回す。
「あった……!」
そこには人が足を滑らせたような跡があった、周りの草も倒れていてそれが坂の下の方まで続いている。
柿は自分の読みが正しかったのだと確信すると躊躇なく駈け下りた。
途中一度躓き、転がり落ちそうになるが一回転して体勢を立て直す。
その時、地につけた手の先の柔らかい感触が、土ではなく人のものであると悟り、咄嗟に飛びのいた。
その場所は元の場所よりさらに陽が届かない場所で、目を凝らしてもよく見えなかったが、恐らく商人で間違いないだろう。
そう結論付けた柿は改めて商人に手を触れた。
「……死んでる」
頭らしき部分を触ると血の感触があった、落ちる途中どこかに頭をぶつけたのだろう。
商人の着物で血を拭き、辺りを探った。
少し目が慣れてきたのか、多少は辺りの様子が分かるようになったようで、商人らしき影がもう一つ奥にあるのが見えたが、恐らくあれも死んでいるだろうと特に意に介さなかった。
それよりもと、さらに辺りを見回すと商人の足元付近に何か黒い影があることに気付いた。
「明智様の探していたのはこれ……?」
商人の足元に落ちていたのは案の定大きな風呂敷包みに入った箱で、それを柿は持ち上げる。
色や模様は見えないが布の手触りは良い、箱は大きいが、そう重くないし、中身も音もほとんどしないので中でも相当厳重に包んであるようだ、恐らくこれが光秀が待っている品物で間違いないだろうと柿は結論付けた。
ただ、中身は軽いとはいえ如何せん大きいので持って上がるのは柿自身でも骨の折れる作業になりそうだ。
荷を開け、品物のみ包み直すことも考えたが、しかしもし不用心に開けて中身が駄目になっては元も子もない。
「仕方ないな」
柿はこのまま持って上がろうと意を決し、荷物を抱えた。
「…………ぅう……」
その微かなうめき声は、柿のものではなかった。
その声のする方に振り向くと、声の主はもう一人の商人から発せられたもののようだ。
「……生きていたのか?」
柿は品物を丁寧に地面に置き、死んだ方の商人をまたぎ、その男へ歩を進める。
やはり先程の声は聞き間違いではないようだ。
「た……た……すけて……くれ……」
絞り出すような声で懇願する商人の男を柿は見下ろす。
そしてゆっくりと振り返り、光秀が待っている品物を見た。
(男一人と品物……同時に持って上がるのは無理だな)
柿は今の自分に出来ることを冷静に分析した。
(男を置いて行ったら死ぬだろう、だが、荷物を置いて行ったら誰かが見つけ持って行ってしまう可能性もある)
そもそも、このうっそうとした分かり辛い場所に目印をつけておいたとしても戻るのは難しいかもしれない。
ただ駆け下り、その途中で商人らを見つけたことはほとんど奇跡に近かった。
(それに、多少小柄とはいえ死なさずに上まで運ぶのは難しい)
元忍びとしての答えを出すのは簡単だった。
任務はあくまで光秀の求める品を届けることだ。
「はあ……はあ……」
一歩一歩、足場を確かめ坂を上っていく。
「……あ……うぅ……」
耳元で聞こえる男のうめき声や微かな礼の言葉を柿は煩わしく思っていた。
先程から何度もしゃべるなと言っていたのに男は聞かず、声を出し続けている。
(やはり荷にすればよかったな)
そっちにしておけば寒かった、暗くて怖かったなどという男の愚痴を聞かずに済んだだろう、すんでのところで留まったことを柿は後悔した。
思っていたより人一人を運ぶのは大変なことで、今の今でもこの男を放り出して荷を取りに戻ろうかと迷うほどだ。
なのになぜ柿は男を背負い登ることを選んだのか、それは小鳥に米をやっているときのそれを慈しむ光秀の優しい目を思い出したからだった。
(明智様はどんなに小さな命でも大事にしておられた……!)
小鳥に餌をやっていた自分を咎めることなく、その行いを肯定してくれた。
忍びとして生きていた頃は褒められることのなかった自身を光秀は唯一認めてくれたのだ。
「た、助けてくれて……ありが……」
「いいから、声を出すな」
私でなく、明智様に感謝しろと柿は唸った。
あの人がいなければお前など絶対助けなかったのだからな、と。
あの方ならば絶対助けたであろうから、私も助けるのだ、と。
「っ!」
確認したはずの足場がぬかるみ、柿はすぐ傍の木に手をついた。
男とは紐で繋げてあるから転げ落ちることは無い。
しかし、その木はとげのある種類だったようで、いくつかのとげが掌を貫く感触がした。
「……痛いな」
手を一度握って、離す。
柿は小さくため息を付き体勢を整えるとまた昇り始めた。
とげが手に残っている感触はあるが今はそれに構っていられなかった。
「あれは……」
柿は降りるときに付けておいた目印を見つける。
顔を上げると、その先に陽の光がはっきりと見えた。
「おい、あと少しだぞ」
「………………」
男は何も言わなかった。
そういえば先程から男は声を発していない、柿は一瞬で青ざめた。
「おい死ぬな! せっかくここまで連れてきたんだ!!」
「う……うぅ」
柿の声に男はうめき声で返した。
男としては、柿に声を出すなと言われそれに従っていただけだったが、柿がそれに気付くことはなく、うめき声とはいえ声が聞けたことに安堵し、最後の十数歩を力強く登った。
「申し訳、ございませんでした!!」
柿は泥だらけになった身を清め、汚れた着物を着替えたにもかかわらず、光秀の前で勢いよく地に頭を付けた。
「荷を今すぐ取りに戻ります!!」
「いい、いい」
今にも夜の山に戻りそうな柿の首根っこを掴むような形で光秀は柿を止めた。
「荷は新しいものが明後日にも届く」
「へ?」
話を聞くとどうやら柿が発ってすぐに光秀は他に使いの者を出して商人の店に行かせており、話を聞いた店の主人が慌ててこの屋敷に来てすぐに新しく品を届けるよう約束したらしい。
「そう、だったのですか……」
荷物を持ってこなくても大丈夫だったことに安堵しつつ、柿は自分の浅はかさを悔いた。
「山に探しに行くよりも、使いを出す方が重要ですよね、考えが至りませんでした」
「いや、そんなことはないだろう」
人を一人助けたのだからと光秀は穏やかに笑った。
男は何とか一命をとりとめたらしい。
「お前が助けたあの男は店主の息子で、今回初めて品を届けに遠出させたそうだ」
店の主人は随分とその息子を可愛がっていて、大事に育ててきたらしい。
正直、自身の首や店の心配より息子の心配をしていたくらいで、今のお前のように山に飛び出しそうな勢いだったからな、と光秀は苦笑した。
「お前にもとても感謝しているらしい、離れに寝かせてある息子の下から離れんからあとで行ってやってくれ」
そう光秀に勧められるが、柿は気が進まなかった。
それよりも荷を届けられなかった不届きものにも優しくされるとは、と柿は光秀に感動していた。
「……明智様」
「どうした?」
「元忍びとして、自分の役立つことは誰かを殺すことや秘密を盗むことだけだと思っておりました」
「だが、今回は違うな」
柿は手を握り、顔を赤らめながら頷いた。
「はい、私の忍びとして生きるために得た力がこのように人助けとして役に立つ日が来るとは思いませんでした」
嬉しそうな柿の姿を見て、光秀も目を細めた。
「俺は、そんな世が作れたらと思っている」
「え……?」
「力を持っているものが人を殺めたり傷つけるために使うのではなく、今日のお前のように人を助けるために全力を注げる……そんな世だ」
柿は光秀の言葉に感動し、何も言えなかった。
しかし正直そんな世が来るとは到底思えない、だがもしそんな世が来るのだとすればそれはきっと彼の手によって訪れるのだろうと柿はそう確信した。
「ふうむ、そのようなことがあったのか」
「はい」
柿は頷いた。
藤孝に届けた光秀の文にはどうやら今回の事もざっと書いていたらしい。
「お前なら荷を選ぶと思ったが」
「私もそう思います」
柿はまた頷いた。
そして光秀がいたからこそ、人の命を選べたのだと柿は自分の選択に誇りを持った。
「今回もお返事をすぐにいただけますか?」
「いや、すぐには文を返せぬ、悪いが手ぶらで帰ってくれ」
「……そうですか」
柿は諦めるほかないとしてしぶしぶ了承した。
渋柿だと藤孝が呟いたが、柿は聞こえぬふりしてさっさと帰ろうとする。
「なあ」
「はい?」
「俺の文を読む時だけ穏やかな顔をしているというのならば、つまりそれ以外は険しい顔をしているということだろう?」
「ええ、そうですね」
「ならば、なぜ明智はいつもそんな顔をしていると思う?」
「……?」
柿はきょとんとした顔で振り返った。
その顔を見て藤孝は呆れたように何でもないと返し、手を払う。
柿は首をかしげつつ、その場を後にした。
柿が去り、誰もいない庭の夜空に浮かぶ月を見て藤孝は以前の明智との会話を思い出していた。
『それは……歌の話か?』
『は?』
『連歌興行が近く練っているところなのは分かる……が、貴殿は一体どんな句を詠もうとしているのだ?』
あまり奇をてらい過ぎると、かえって逆効果だぞと藤孝は首をかしげた。
『っ…………相変わらずだなお前は……いや、いい……時が来ればきっとお前にも分かるはずだ』
『ふむ、そうか』
何のことやらと、肩を竦め、視線を他所に移し自身の読む歌を考え始めた藤孝の背中に光秀は呟いた。
『ああ、時は……近い』
藤孝はその言葉が聞こえていたが、振り返らず木のうろをただ見つめていた。
「…………お前は例えが下手だな、明智よ」
明智の言葉の意図を理解している藤孝は一人ため息を付いた。
五月雨|(さつきあめ/さみだれ):梅雨の時期の雨、弱い雨がだらだら降り続けること




