おまけ話その一:洛中放火【吉田兼和+織田信長】
吉田兼和の過去話です。
本編よりしばらく前の、彼が自身の生き方について覚悟を決めた話。
元亀四年、四月四日、丑の刻、
織田信長は寝静まっていたであろう京の中心である洛中に火を放ち、逃げ回る民を武装した足軽らが追いすがり、暴力や略奪、所謂"乱取り"を行った。
そんな凄惨な状況を横目に悠々と信長の元へ向かう公家の姿があった。
吉田郷に社を構える吉田神社の神主、吉田兼和である。
当然のことではあるが、力による統治がなされているこの戦乱の時世において武力を持たぬ公家の立身出世は難しい。
どころか、己と周りの者を食わせるのすらままならない困窮した家もそう少なくは無かった。
そんな世を公家の誰もが憂う中、いやむしろそのような時代だからこそ一人虎視眈々と周りを出し抜き自らの家を大きくしようと企んでいた。
それが吉田兼和という男である。
彼は今や押しも押されぬ戦乱の時代の寵児である織田信長がまだその力を見せていなかった頃から我先にと目をつけ媚びへつらい取り入った。
近くに訪れると聞けばいち早く出迎えに行き、馬上から蜜柑を施されると喜んで受け取り、鷹狩に行くと聞けば信長だけでなく周りの者まで行き渡るよう過剰なほどの饅頭を届けた。
その甲斐もあり兼和は織田信長に気に入られ、至極良好といえる関係を築いていた。
それでもやはり燃え盛る京の凄惨な状況を目の当たりにして、身の危険を顧みず信長の元に訪れた彼の行動は突飛であり不可解でとも思える。
なぜ彼が信長の元に訪れたのか、話はその三日前にさかのぼる。
・
(これはこれは……随分と)
その日、別の者との面会を終え帰路に付こうとしていた兼和を織田信長は自身いる陣所へと呼び戻した。
織田信長の御前に出ると、周りの者らは先程の和やかな対面とはうって変わって空気は重く、兼和は居心地の悪さを感じた。
兼和はそんな自身の一挙一動を息を呑み伺う周りの者らの視線を鋭敏に感じ取りながらも表情一つ崩すことはなく完璧な立ち振る舞いで信長に挨拶をする。
周りの空気はいざ知らず、一人涼やかな顔をしている信長は兼和の来訪を歓迎した。
「いやあ、すまんな急に呼び立ててしまって」
「私ごときで間に合うことならいくらでも」
もっともそれは兼和も同様であり、まるでそんな雰囲気を一切感じていないようなそぶりで答えた。
しかし兼和は悟っていた。
"今からこの男に問われることはとても重大なものだ"
そして、
"ここで答えを間違えれば自身の命はおろか、吉田家も滅ぶことになる"と。
彼は織田信長から呼び戻される理由を、陣所の者より事前に伝えられていた。
"南都が滅びれば北嶺も滅ぶ、ひいては王都の災いになる"
昔から伝わるというその言葉の真偽を問う、ということだと。
この言い伝えは兼和の父、兼右がよく信長相手に口にしていたもので、要約すると迂闊に京に手を出せば国自体を亡ぼすことになるだから京の都に手を出してはならぬとそう諌めていたのだ。
事実、織田信長にとって大きな足かせとなっており、この言い伝えさえなければずっと前に彼は京の中心に火を放っていただろう。
だが、その兼右はこの年の正月に逝去しておりその真偽を問うことができなくなったため、兼和に問いの矛先が向けられたのだ。
"この問い、心して答えよ"
という言葉を添えられて。
兼和にとって信長の意図を理解するのは容易かった。
重要なのはこの言い伝えが本当か否かと言うことではない。
恐らく、信長の中でこの言葉の審議に関わらず京に攻め入ることは決定事項であり、父の言葉があろうとなかろうと変わるものではない。
ならばなぜわざわざ自分に問うのか、その意図を慮るのもまた容易かった。
本当に自分が信長の意図を理解し、彼の望む答えを出せるかどうか。
(吉田家が今後自分にとって益となるか否か……それを計る問いとなる)
そして、それが否と判断された場合は信長が京に攻め入る際、吉田家も類が及ぶことになるだろうと。
信長の望む答えとは勿論"偽"である。
たとえその答え自体が"偽"だとしてもそう言わねばならない。
しかしそれは父の言葉を否定する答えを出さねばならぬと言うことだった。
兼和は顔を上げ信長と目を合わせる。
父の言葉をそのまま続けるだけの愚鈍ならばいらぬと、信長の目はそう言っていた。
「なに、今年の正月に亡くなられた貴殿の御父上、兼右殿を思い出してな」
信長は本題に入る前に父の話を持ち出す、そしてそれも兼和の予想通りだった。
だが心のどこかで違っていてほしいと思っていたのか、父の名を聞いて兼和は顔をしかめた。
実は父の死は兼和にとって数ヶ月経った未だ心癒えず影を落とし続けている程のもので、それほど思いの深い父の言葉を否定するということは兼和にとって苦しい選択だった。
だが信長は兼和のその表情を見ても気を害することなく、むしろ満足であると目を細めた。
自身の問いの真意を目の前の男はよく理解していると信長もまた悟ったからである。
「……いや、まことに惜しい人を亡くしたものだ」
「なんと勿体なきお言葉……」
苦しむ兼和を気に止めることなく、信長は淡々と続けた。
「その兼右殿が生前言っておられたのだ
"南都が滅びれば北嶺も滅ぶ"……ひいては"王都の災いになる"
……とな、これは確かなことか?」
「………………」
兼和は言葉に詰まり、息を呑み、信長と視線を絡めた。
信長の探りつつも、どこか楽しげにも見えるその目に兼和はやはり自分の推測は正しかったのだと再確認した。
兼和は一度ゆっくり瞬きをし、答えた。
「その話は私も父から聞いてはおり、昔から伝えられているものと聞いてますが……それを書き残した文書はございません」
あえて口には出さなかったが、兼和はあたかも"父が信長様を止めるために言われた作り話でしょう"という意を添えた。
信長は兼和の答えを聞き、まるで"安心した"というかのように胸をなでおろして見せた。
そして兼和に近寄りここだけの話であると耳元で囁いた。
「近日中、洛中へ火を放つ計画があるのだ……だが兼右殿のその言葉だけがきがかりで迷っていた、しかし吉田家の現当主であるお前がそういうなら何の問題はあるまい、予定通り実行するとしよう」
「……!」
まるで自身の答えで京への放火が決定したとでも言いたげな信長に兼和は目を見開いた。
「いやあ、貴殿の話が聞けて本当に良かった」
口を開くことのできない兼和に、信長は目を細め言った。
「安心しろ、吉田の郷には火は及ばぬようにしてやる」
「そ、それは有難き……こと……」
ようやく口を開いた兼和は自身でも何を言っているのかよく理解していなかった。
「それより、将軍義昭殿の評判はいかがか?」
「……は?」
信長の問いも上手く理解できず、聞き返してしまう。
「貴殿の周り……禁裏その他は将軍のことをどのように言っておられるのか」
信長は質問の真意を言うのではなく、分かりやすくかみ砕いただけの言葉を投げかける。
真意は察せよ、と兼和に無言の圧力をかけているのだ。
むろん、それは兼和にも十分伝わっている。
そもそも今回のその洛中への放火は信長と不仲となったその将軍に対する示威行為が目的である。
お前は将軍と自分、どちらに付くのかと問うているのだ。
「……禁裏は勿論、我ら公家ばかりではなく庶民からもどうしようもないお方だと思われております」
将軍を否定するこの言葉は嘘ではなかった。
ただ、兼和が冷静なままであれば「信長様と違って」といった文言を笑みと共に付けたしていたところだろう。
すなわちそれほどまでに兼和には余裕が無かったということである。
「……そうか、答えにくいことをよく答えてくれた! そう言えば吉田社の斎場に不備があると言っておったな近いうちに必ず修繕してやろう」
そう喜び、信長は兼和に金子一枚を与えた。
兼和はただ茫然とそれを受け取る。
そしてようやく帰路に付くことを許され、二度目の帰り道、その途中で兼和は信長のいる本陣を振り返った。
(戦乱の世を渡ることがこれほどのことだとは……)
久々に、肝を冷やしたな、とそう思う兼和の顔はいつもの無表情に戻っていた。
その何食わぬ顔のまま付き人達に心の内を、信長の計画を悟られぬよう思案する。
信長の意を汲み取り、自身を抑え、相手が悦ばせる答えを選び出す……
それは誰しも成し得たことだろうか、いや、誰もきっと成し遂げられず何も知らずにその日を迎えていたかもしれぬ。
(吉田家の現当主が俺で良かったな……)
兼和は天を仰ぎため息を付いた。
自身の天命は分かっている、この戦乱の世においてこの吉田領、ひいてはこの吉田神道を守り抜くことだ。
だからそれができる自分を天はここに産み落としたのだろう。
たとえどんな手を使っても、それ以外の者がどうなろうとも、それを守る覚悟が兼和にはあった。
それでも吉田山より見下ろすことのできるこの洛中が戦火に包まれる姿を想像をするとやはりどうしようもなく後ろ暗くなり、顔をしかめる他無かった。
・
兼和は吉田山に帰宅し、此度のことを誰にも話すことなく一人自問自答を繰り返していた。
(京への放火は初めから決まっていたことだ、決して俺の発言で決まったわけではない)
織田信長は自身に罪悪感を抱かせるためにあえてそう言ったのだと、そう自分に言い聞かせては心の平穏を保とうとした。
そもそも信長は本当に京の中心を焼くつもりなのだろうか、いやそれすら自分を驚かすために言っただけかもしれない。
そうだ、まさかこの禁裏に程近い京の都を焼くなど、できるわけがない。
「……そんな訳なかろう」
兼和は甘い考えに逃げようとする自分を戒めた。
信長は到底実行できないだろうことを実行してしまう男だ。
そしてあの時自分に向けられた目は間違いなくそうすると決めていた目だった。
(止めることは到底できぬ)
例えば人に言いふらしたとて、計画が止まるどころか再びこの吉田山が標的になりかねない。
そもそも、この計画は当の洛中の者の間ですらすでに噂として囁かれている程だ。
止めるために打つ手など兼和には残されていない。
(藤孝、あいつならどう考えるか……)
兼見はふと顔を上げた。
自身の従兄弟である藤孝も今は信長の元にいるはずだ、と。
一つ上の、武家でありながら武術だけではなく文化人としての知識も深く、聡明で機転の利くその男は兼和が一番頼りにしている相手だった。
だが兼和の顔は再び下げられた。
「……あいつがいて止められぬとなれば、もう覚悟を決めるしかあるまい」
あの藤孝ですら手を打てぬのなら自分に出来ることがあるわけがないと
(ならば、どうすべきか……)
兼和は考えた。
実行されるかどうかで悩んでいてもしょうがない、実行される可能性が濃厚である以上、その身の振り方を考えなければならない。
ただ見ているだけでは駄目だ、この機を出世に生かす手はないかと。
その思案は信長が京に火を放つその日まで続けられた。
・
織田信長の発言通り、また、兼和の想定通りに上京への放火は行われた。
武装した足軽らによる民への暴力や略奪、所謂"乱取り"を行う姿も見られる。
周りの制止する声に耳を貸さず、信長がこの放火を決行した理由は単純に将軍に対する示威行為のためのものだった。
「兄上、一体どういうおつもりですか!!」
信長の惨たらしい行いに震え慄き、兄のいる吉田山へと飛んできた梵舜は、その兄の様子を見て思わず呻いた。
兄である兼和は馬を用意し僅かな荷と共に今にもどこかへ出立しようという状態だったからだ。
「京がこんなことになっているというのに何処へ行くというのです!!」
「決まっているだろう、信長様の陣処だ」
「なっ……!?」
さらに顔をゆがめる梵舜とは対照的に、兼和は涼しい顔を崩さずあっけらかんと答えた。
「信長様は世を正すため力を尽くしておられる、ならば陣中見舞いに行く他あるまい?」
数日かけて兼和の出した結論は、ここであえて渦中にいる信長に会いに行くことだった。
「陣中見舞いですって!? どういうことか分かっているのですか京の都が燃えているんですよ!! ここだっていつ火が放たれるか……!」
「落ち着け、ここまで火は及ばぬ」
「及ばなければいいという訳ではありませぬ!! ……なぜ及ばぬと?」
なぜここに火が及ばぬことを兼和が分かっているのか、梵舜は疑問に思い聞いた。
「信長様がそうお約束して下さったからな」
「……兄上は事前に知っていたのですか、京が信長の手によって焼かれることを」
「………………」
兼和は黙って梵舜を見つめる、その目は"お前は知らなかったのか"とでも言いたげで、梵舜は口噤んでしまう。
梵舜とて何も知らなかったわけではない、信長が将軍への示威行為として各地に火を放っていることも、それがいずれ京の都の中心にまで及ぶのではとまことしやかに囁かれていることも信長を止めるため公家らが金品を送りその考えを変えてもらおうとしていたことも、もちろん把握していた。
だがまさか本当にそんな、この京の地を焼くなど、大それたことをするわけがないと高を括っていた梵舜にとって当然兄の所業は衝撃だった。
それを止めることのない、どころかいつの間にか自らに類が及ばぬようあの信長と話をつけ、その上加勢に行こうとまでする兄の行動力や思考は梵舜には到底図りえるものではなく、圧倒された。
黙った梵舜を横目に、兼和は配下の衆に声を掛け手はずを確認する。
梵舜が我に戻ったときにはすでに兼和は騎乗しており、自らを見下ろしていた。
「おっお待ちください兄上!!」
「後にしろ」
事が済んだ後逐一説明してやる、いつものようにと兼和は手で制した。
しかし梵舜は構わず続ける。
「京を焼いている信長に陣中見舞いに行くなど、他の公家衆に知られてはどのような噂が立つか、兄上は分からぬのですか!!」
「……」
兼和はゆっくりとまばたきをし、目を開ける。
彼はいつもの他の者、特に身分の高いものへ向けるうすら寒い笑みとは違う、心穏やかともいえる笑みを浮かべていた。
たまにしか見せないその笑みに圧倒される梵舜を他所に、兼和は答えた。
「その程度、比べるまでもないこと」
「!?」
それだけを言い残し、またも圧倒された梵舜が我に返る前に兼和は出立した。
比べる、とはどういうことか。
何と比べたらこのような判断になるのか、それは当然、自らの地位のためのものだと梵舜は答えを出した。
「……そんなに、出世が大事なのですか……」
既に姿の無い兄相手に、梵舜は一人吐き捨てた。
兼和は自身も巻き込まれぬよう細心の注意を払い急いだ。
悲鳴響く戦火の、その中心で笑う信長の元へと。
・
梵舜の言っていたことは当然兼和も懸念していた。
ただ信長の陣中見舞いにいっただけではあまりにも外聞が悪い。
だが、たとえ信長の元を訪れたとして周りに悪い噂の流れぬようにする秘策を兼和は考え付いていた。
(やはり、禁裏近くにまで火が及んでいる)
恐れを知らぬ信長と言えど天皇のおられる御所、禁裏にまで戦火が広がるのは望みではないはず。
だからこそ兼和は、自身を禁裏へ火が回らぬか心配のあまり駆け付けどうか決して火が及ばぬようにと嘆願するつもりだった。
信長からは陣中見舞いに訪れる健気な者として評価を高め、禁裏の御方々には自信達のために信長に意見できる公家として信頼も厚くなろう。
確かに信長へ意見する形になるため、彼が気分を害す恐れはあるがそれさえ越えれば、まさに兼和にとって一石二鳥と呼べるものだった。
その策を持ち兼和は京が燃える様を悠然と眺める織田信長のいる陣へと向かったのだ。
「おお、兼和殿!! これはこれは陣中見舞いご苦労である!!」
突如陣に姿を現した兼和を信長は快く迎えた。
そして、どうだ素晴らしい眺めだろうと喜ぶ信長に、兼和は持参した菓子を差し出しつつあいまいな笑顔で首をかしげた。
「信長様……」
「ん?」
菓子を一つ摘まみつつ、信長は返事をした。
「山の上より見ておりましたが、どうも火の回りが早いように思います」
これは想定通りですか、と信長に目を向けた兼和はどっと冷汗が吹き出した。
自分の言葉を聞いた信長の表情が一瞬曇ったのを見止めたからだ。
分かっていた、覚悟していたつもりでもやはりその目は兼和の身体を強張らせる。
「ほう、吉田の神主は俺に指図しに来たのか」
「…………」
「で?」
つい口を噤む兼和に信長は続けるよう促しつつ指に残った菓子の砂糖を舐る、そんなひょうきんな行動とは裏腹にその目は明らかに殺意を含んでいた。
ここからは一言も間違えてはならぬ、懸かっているのは自分一人の命だけではない。
吉田山もこの燃え盛る一帯と同じ有り様になる可能性もある、それを踏まえ兼和は続けた。
「このままでは禁裏にまで火が及ぶかも知れませぬ」
兼和は軽く息を吸った。
「もし、そうなった場合は、我が吉田社で上様の身を匿わせていただくことをお許しいただきたく……」
兼和は頭を下げる。
禁裏の御方々を自身の社に匿うという点には多少の利益が見え隠れするが、これはあくまで公家として当然の言葉の範疇であり、信長の行動に異論を唱えたわけでない。
少なくともこのまま切られることはないだろうと兼和は踏んでいた。
実際、目線を外す直前の信長の顔から殺意が消えており、兼和のその予想を裏付けた。
「もっともな気遣いだな、だが禁裏には及ばぬようこちらからも警護の者を送っているからその心配はない」
「……そうでございましたか」
とんだ杞憂でしたとばかりに兼和は顔を上げ、安堵した表情を信長に見せる。
それに応える信長の顔は特に曇りなく普段通りのものであった。
「しかしまあ、万が一にも及ばすわけにはいかぬ、俺自ら確認に行こう」
「それはそれは……」
「お前も共に来い兼和」
「当然にございます」
これで安心だと深々と頭を下げる兼和に信長はすぐに出立の準備を始めるように言った。
騎馬するため馬へ向かう信長に兼和はへいこらしながらついていく。
その途中で信長ははたと止まった。
「……及んだ方がお主にとって都合が良かったかな?」
もしそうなら申し訳ないとばかりに信長は首をかしげる。
それを口にするかと兼和はしばし固まったが、やがてゆっくりと首を振った。
「無論、及ばぬのなら、それに越したことはありません」
兼和は信長の問いに歯ぎしりをし、信長は微かに笑った。
あの言葉一つで、信長は兼和が完璧に演じきっていた『朝廷に対し従順な公家』ではなく『出世欲に目が眩んだ者』に貶めたのだ。
実際そうであるし、そうでなかったとしてもそれを抗議することもできるはずもなく、ただあのように答えるしかない。
この会話を周りに聞いている者がいたとしてもすべて武家の者であろうし公家まで広まることはない、いや広まったところでいくらでも言訳は立つ。
だが、それでも兼和が受けた屈辱が変わることはない。
あの言葉を受けるまで兼和は自身に打てる最高の手を打ったと自賛していた。
だがしかし、その答えが正解だったとしても容易く安堵は与えない、それが織田信長という男であると兼和は改めて理解した。
それでも兼和はこの場に来たのは間違いではないと自身に言い聞かせる。
(……何を後悔することがある、この程度、比べるまでもない)
それで吉田山が、永く続いている吉田家、吉田神道が守られるなら、これで良いと兼和は自らの身の振り方に腹をくくった。
そしてまた歩み始めた信長から離れることなくついて行った。
禁裏周辺へ向かう途中、兼和は燃え盛る洛中を一度だけ振り返った。
恐らく藤孝は信長の指示を受けてあの中で采配を振るっているのだろう。
その姿を探してみたところで当然見つかるはずもなかった。
だがしかし必ずいるであろう従兄弟に兼和は呟いた。
「この罪、共に背負おう」
・
京の都を燃やすよう指示を出し終わった藤孝はその光景を目を逸らすことなく眺めていた。
「ひどい光景だとは思わぬか」
その声に振り向くとそこには自分と同じ立場である光秀が立っていた。
「我らが命じた結果だ」
「元々は信長様の命だ、誰も逆らえまい」
だから気に病むなと光秀は藤孝の肩を叩いた。
そして手のひらに収まるほどの包みを差し出す。
「その信長様の使者より届いた」
「菓子、か」
こんな状況でも、いやだからこそ甘いものが欲しい所ではあったと藤孝は手を伸ばしかけた。
しかし菓子とは、どこのどいつが持ち込んだのか、どこぞの公家が差し入れたのではと思い及んだ時に光秀からその差出主の名を告げられた。
「吉田の神主からだそうだ」
その名を聞くや手はぴたりと止まり、菓子を掴むことは無かった。
「兼和が……?」
「ああ、この戦火の中自ら信長様に届けたと聞いている」
(あいつが……これを……)
光秀は菓子を取るよう促したが、藤孝はいらぬとそれを拒否した。
「食わんのか?」
「お前こそよく食えるな……出世のために届けた菓子など」
「そう言ってやるな、あいつにも真意があってのことだ」
「真意?」
「ああ、この菓子は信長様でなくきっと我らに宛てたものだろう」
「我らに……?」
「きっとあいつは心を痛めている我らを労う為に、汚名もいとわずあえてこの火の中届けたのだ……お前も分かってやってくれ」
「そうか、あの吉田の神主がそのように気の回る奴だとは知らなかった」
藤孝がうなずいたのを見て光秀はもう一度菓子を藤孝に差し出した。
(そんな訳が無かろう)
光秀の言葉を聞いて藤孝は菓子を手に取ることはせず内心で吐き捨てた。
藤孝は兼和が戦国を生きる公家として、完璧な振る舞いを行ったことが気に入らなかった。
そんな藤孝の様子を光秀はどう解釈したのか、仕方のない奴だと肩を竦め、自身の口に菓子を運んだ。
・
永遠に続くと思われていた夜が明け、その陽の眩しさと目の前に広がるあまりの悲惨な光景に兼和は顔をしかめた。
しかしその光景を見てもなお兼和にとってこの吉田山が無事で済んだことへの安堵が大きかった。
だが油断はできぬと兼和は身を正した。
これからこの戦乱の世を渡っていくにあたってこのような事態は幾度となく起こり得る。
想像はできぬが信長が討たれることもあるやも知れぬ。
それに乗り遅れぬように情報網を張り巡らせ此度のように動けるようにしておかねばならぬと兼和は気を引き締めた。
あのようにうろたえるだけで時が経つのを待っていてはならぬ、と兼和はうろたえるばかりだった弟の姿を思い浮かべた。
決してそんなあいつが悪いわけではない、ただこういうことには向かぬ気質なのだと兼和は考えていた。
「俺が当主で良かったな」
そう兼和は天に向かって呟く。
その顔には不満も苦しみの色も無かった。ただ淡々と自身の在り方を受け入れた表情だった。
だが、いっそのこと、自身の従兄弟である藤孝が信長を討ち、天下を治めでもすれば世は平和になりこの吉田家の地位もさらに安泰なのにと、そんな絵空事を描きつつ兼和は吉田山へと戻ったのだった。
この後は本編通り明智が織田信長を討って藤孝が裏切り……と続いて行きます。
その際兼和は信長を見捨て明智に付く形になりますが、結局天下を取ったのは猿と呼ばれた男秀吉。
当然それは全く想定しておらず兼和は取り入り遅れた感はありますが色々あって取り戻します。
(ここからが本題)
その秀吉の使いが吉田山に徴兵に訪れた際、兼和は信長より貰っていた徴兵回避の書状を提出しました。
いくら死んだとはいえ信長様の命には背けぬと結果吉田山の者達は無事徴兵を免れることに。
にしても見捨てた男から貰った安堵状を何食わぬ顔で差し出す辺り、やっぱり彼は強かだなあと感心します^^




