一話 日長石
「来い来い……」
春の穏やかな日差しの下、その屋敷の裏庭では一人の女中が小鳥達に食事で残った米を与えていた。
その行為は日常的なことで、小鳥達も警戒することなく寄ってきて我先にと米をつついている。
女中にとって、退屈に思える日々のささやかな楽しみだった。
「誰かいるのか?」
「!」
女中は驚き立ち上がる、声の主は屋敷の主、明智光秀のものだった。
「ああ、お前は……と……」
「柿でございます」
「そう、柿だ」
名を覚えていないことに光秀は申し訳なさそうにするが、柿はとんでもないと首を振る。
「で、何をしていたんだ?」
「……申し訳ありません、米飯の残りを鳥にやっておりました」
自分の仕事は終え休憩中とはいえ、やはり勝手に小鳥に残飯とはいえ米を与えていたことを咎められるのではと柿は恐る恐る答えた。
「そのようだな」
光秀は柿の背後の米をつつく小鳥を見ると、そちらに歩を進め、しゃがみ込んだ。
そしてそのまま優しく眺めるだけで、特に声を荒げ怒ることは無かった。
「健気なものだ」
そう呟きながら小鳥を眺める光秀の横顔に柿は心奪われる。
柿の印象ではいつも光秀はどこか息苦しそうな、険しい顔をしていからだ。
このような穏やかな顔を見たのは初めてだと思ったが、ふとそうではない事を思い出した。
(いつだったか、届いた文をすごく楽しそうに読んでいたことがあったな)
文であんなに心弾ませることができるなんて、きっと文を出された相手は素敵な方なのだろうと思いつつ、読む側である光秀の心の豊かさがあるからこそだと柿は心で頷く。
「これはいつもやっているのか?」
「は、はいっ!」
上の空だった柿は急に声を掛けられ、驚いた声を上げた。
「いつもこのくらいの時刻にか?」
「そ……そうですっ……だと思います」
柿は言葉に詰まる、咎められるのではという不安もあったがそれ以上に敬愛する光秀と二人きりで話していることに緊張していたこともあった。
二人きりで話すことは光秀の下に柿が女中として世話になることになった時だけで、それきり一度もない。
「ではこの時間、暇があれば顔を出すことにしよう」
「ほっ本当にございますか!?」
「ああ、実に愛らしいからな」
「分かりましたっこれからは米を沢山残しておきます!!」
「いやまあ、残らぬ方が良いのだがな」
柿は光秀の言葉に閉まったと慌てて口をふさいだ。
その様なつもりではとしどろもどろな柿を光秀は苦笑しながら分かっていると宥めた。
「……と」
光秀が小鳥に視線を戻すと、一羽、彼の足元にある米をつつこうとすぐ近くまで寄ってきているものがあった。
「珍しいな……人が怖くないのか?」
柿がいつもあげているのでと答えると光秀はなるほどと納得した。
戯れにその小鳥に来い来いと手を伸ばすと小鳥は全く警戒することなくその手に飛び乗った。
「おお」
確かに来いとはいったがまさか本当にそうなるとは思わず、光秀は驚きの声を上げる。
「すごいな、いつもこうなのか」
「いえ、私の手になど止まることはありませぬ」
柿はその光景にあっけに取られていたが、光秀の声で我に返り大きく首を振った。
「きっと、明智様のお心が誰よりも清いことを鳥も分かっておられるのですよ」
「そうなのか……」
柿は元忍びである自分には到底似合わぬような言葉に驚いたが、それは世辞ではなく本心からの言葉だったからこそ咄嗟に出たのだと柿は明智の手で戯れる小鳥を見ながらそう思った。
柿は自分の顔が綻んでいることには気づいていない。
「ん?」
光秀は小鳥の羽の違和感に気付き、それを覗き込んだ。
それに驚いたのか小鳥は飛び去ってしまう、それにつられて他の小鳥達も一斉に近くの木に飛び移った。
「行ってしまいましたね」
「ああ……あの鳥、羽に傷があった」
「傷ですか?」
「少し羽が荒れていた、だが飛べるなら問題無かろう」
ふと、光秀はあることに気付き、柿を振り返った。
「お前も、ここに傷があったな」
光秀は立ち上がると、自身の右目とこめかみの間辺りを指した、確かに柿のその部分には普段は髪で隠されているが傷がある。
「よく、覚えておられましたね」
「ひどい有様だったからなあ」
本来、柿は忍びであった。
しかし任務に失敗し、山の中で忍び仲間に見捨てられ、瀕死の状態で打ち捨てられているところを偶然通りかかった光秀に拾われたのだ。
治療の甲斐あり一命をとりとめた柿は目立つところに傷は残ったが、そんなことは気にもかけず光秀にとても感謝している。
「女中として良くやれているようで安心した」
「え、ええ……そうですね」
光秀にはそう言われたが柿には女中仕事はとてもつまらない退屈な仕事で、こんな仕事だけではどうしてもそれだけでは光秀に対する恩は返しきれぬと柿は感じていた。
「光秀様、差し出がましいかもしれませんが、もし忍びとしてできる仕事がありましたら申し付けてはいただけませんか?」
柿のその言葉に光秀は驚く。
「だがあんなにひどい目に会ったのだ、忍びだったころを思い出すと辛いものではないか?」
「ですが、こんな女中の仕事ではなくもっと明智様のお役に立ちたいです」
「そうか……なら、少し考えておく」
「はいっ」
光秀の言葉に柿は嬉しそうに頷いた。
その日、多数の来客により屋敷の中は賑やかだった。
柿もあちらのものをこちらに、こちらのものをあちらにと忙しなく動き回っている。
(明智様の元にはいつも沢山の人が訪れるな)
それほどに人望のある御方なのだろうと柿は顔が綻ぶ。
嬉しさに浸っていて気がそぞろになっていた柿は、廊下を曲がった先に立っている男の気配に気付かなかった。
「……っ!」
「おっと危ない」
男が気付いたこともあり、ぶつかることはなく間一髪で避けることができた。
柿は慌てて顔を上げ、ぶつかりかけたその男の顔を見た。
恐らく光秀の客人であろうその男は手に扇子を持ち一見優美で高貴な雰囲気で、公家かと柿は思ったが、それにしては武士のような自らの腕に自信のありそうな挑戦的な目をしている、とも思った。
だが、一番気になったのは別の部分にあった。
(この男、まるで気配がなかった……)
一体何者かということも気になったが、それ以上に自分は元忍びであるのにと、柿は歯がゆい気分になる。
しかし無礼をしたことにようやく気付き、謝罪をした。
「も……申し訳ありません!!」
「気にせずともよい、お前はここの女中か?」
「はい、そうです」
気安く話しかけてくるその男に、柿は拍子抜けた顔で答える。
「名は柿というのでは?」
「その通りですが、なぜそれを」
名を当てられたことに不審に思い、、一歩下がる。
この男は本当に明智の客人なのだろうか、自分と同じ忍びの身でこの屋敷に忍び込み、害をなそうとしているのでは、そう考えると先程気配を感じなかったことも説明がつく。
ならばこの手で始末せねばならないと、一瞬にして自身への死体の処理法まで考えが及ぶ柿を男は知ってか知らずか、淡々と続けた。
「では、明智から聞いていたのは其方のことか」
「あ、明智様が……私のことを?」
その男の一言で柿は途端に警戒を解いた。
むしろ、光秀が自身の話を他所でしていることへの気恥しさの混じった喜びに感情は支配されている。
「ああ、行き場がない者がいたので女中として拾ったと……」
「本当にお優しい方ですから」
「そうだな、素性の知れない者を拾うなど余程だ」
素性の知れない、と聞いて柿は安堵する。
どうやら自身が元忍びであるということはこの男には伝えていないようだ。
「しかし、なぜ私だとお気づきになられたのですか?」
男は無言で自身の額の端を扇子で叩いた。
そこは柿の刀傷の残る場所で、その意味に柿はすぐに気づき、乱れていた髪を直し傷を隠す。
「ふう……ん、なるほど、話を聞いていた時からそうかとは思っていたが、やはり……」
「え?」
男は何かを考えるようにこめかみを扇子で軽く叩く。
柿は自身の顔を伺うその男に居心地の悪さを感じ、目を逸らす。
その姿を見て男は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「…………お前、忍びだな?」
日長石(にっちょうせき):太陽の力を宿すと言われる石、石言葉は自信、正しい行い等