26 逃避行
(投稿が)まにあわなかった……。
「逃げるぞッ!」
ノードは叫んだ。自分たちの存在が露見した以上、隠密を続ける意味はなかった。一刻、いや一瞬でも早くこの場所を離れなければならない。
ノードが駆け出すと同時に、ニュートも素早く地を蹴って宙に飛び立つ。
その直後だった。
「GUAAAAAAA!!」
魔物の咆哮が、夜の森へと響き渡ったのは。
大気を震わせる轟音が、衝撃となってノードたちの背中に届く。
ビリビリと、耳ではなく身体で感じるその音に込められているのは何であろうか。
配下を殺された怒りか、或いはそれに報復しようという復讐心か──はたまた、単純にノードたちを捕らえよという『食欲』か。
何にせよ、女帝蜘蛛が発したその咆哮は、号令となって蜘蛛たちに命令を下す。
宮殿内で動いていた蜘蛛たちは、その命を受けて、闖入者を追跡すべく、一斉に崖上へと跳躍した。
追跡者と化した蜘蛛の軍勢が、次々と森の中へと雪崩れ込む。月光を浴びて鈍く輝く黒色の体毛は、吸い込まれるように森の影に溶け込み、同化する。
赤い瞳だけが月明かりを反射して妖しく輝き、奔流のようにアルバの森を埋め尽くしていったのである。
§
森の中を、ノードは必死に走っていた。
ガチャガチャと、鎧の音をうち鳴らしながら、ただ脇目も振らずに駆け抜ける。
少しでも早く、そして少しでも遠くへと逃げようと。
「キュッ!!」
その横を、付き従うように飛んでいるニュートから、警告の声が飛んできた。
ノードはその鳴き声に従い、走りながら剣を抜き放つ。
後方、やや上方から飛び掛かるように襲い掛かってきたやや小さめの騎士蜘蛛を、翆玉鋼の刃が切り捨てる。
一撃で絶命したその騎士蜘蛛の身体は、ピクピクと痙攣しながら地面に激突し、落ち葉を飛沫のように巻き上げながら転がった。
その死体はゴロゴロと転がった後、地面に叩きつけられる毎に速度を落とし、そして動きを停めて──グシャリ、と後続する他の蜘蛛たちによって、無惨に踏み潰された。
──ズザザザザザザザザザッ!
蜘蛛の軍勢は途切れることなく続き、濁流のようなその行進に呑み込まれた遺骸は、次々と踏まれ、砕かれ、跡形もなくなって、森の土の一部となった。
「くそッ! 全然振り払えない」
チラリ、と後ろを振り返ったノードの口から、悪態の言葉が飛び出す。
月光を浴びて妖しく輝く蜘蛛の瞳が、ノードの駆けて来た森を呑み込んでいた。
一体どれくらいの数がいるのか、見当も付かないほどの大量の蜘蛛だった。
互いに押し合い、圧し合い、ときには他の蜘蛛が別の蜘蛛の上に乗り上げるようにして、我先にとノードを追いかけてくる。
それはまるで決壊した河川から水が押し寄せるようであり、勢いは一向に絶えることなく、むしろ増すようにしてノードに近付いていた。
それだけではない。
「キュイッ!」
「ッ!」
再び、ニュートから警告の声が飛んで来る。
その導きに従うように、ノードは剣を再び振り抜く。
今度は進行方向から見て、やや前方。斜め前から騎士蜘蛛がノードに襲い掛かる。
翆玉の刃が再び蜘蛛を切り捨て、死体が地面に転げ落ち、やがて先程の騎士蜘蛛と同じ末路をたどる。
「グッ……!」
「きゅ、きゅい!?」
だが今度は、ぐらり、と森を駆けるノードの体勢が崩れた。
先程とは違い、前方から飛び掛かられたことで、死体を避ける為の動作が加わったからだった。
足がもつれそうになり、危うく転倒しそうになったノードに、ニュートが心配そうな声を上げた。
「だ、大丈夫だ! 気にするな」
何とか姿勢を立て直し、そうニュートに声を掛けて、再び森を駆け出したノードだったが、その兜の下に浮かぶ表情には、一切の余裕がなかった。
(不味い……今ので更に距離が詰まった)
焦りから、じっとりとした汗が背中を流れた。
蜘蛛の軍勢は、崖下に作られた宮殿内部からだけではなく、森全体から集まっているようだった。
後方からだけでなく、真横、あるいは割合は少ないが進行方向からすらも、蜘蛛が襲いかかってくる。
このままでは、後ろから迫り来る蜘蛛の軍勢に追い付かれるのは、時間の問題だった。
(せめて、一時的にでも撒くことが出来れば……!)
ノードは走りながら、森の中を見渡し、利用できるものがないかを考えた。
地形でも、道具でも、魔物でも、何でも構わない。執念深く追いかけてくる蜘蛛の視線を、一時的にでもノードたちから引き離し、追跡を逃れる必要があった。
そうでなければ、
(このままだと……蜘蛛をアルバ村に案内するようなものだ!)
ノードたちを追ってくる蜘蛛の軍勢を、森の外まで引き連れてしまう羽目になるのは確実だからだ。
騎士蜘蛛や将軍蜘蛛はともかく、その蜘蛛たちの上に君臨する女帝蜘蛛は、どう足掻いてもノードの手には負えなかった。
ゆえに、事態の解決を図るには確実に外部の助けが必要なのだが、その助けを呼ぶためにはアルバ村にまで帰還しなければならなかった。だというのに、そのアルバ村に蜘蛛の軍勢を引き連れてしまえば、本末転倒という他にない。蜘蛛の進行を手助けするような物だった。
(何かないのか、何か!)
倒れた枯れ木、窪んだ地形、流れる小川、天候、装備。
蜘蛛の追跡を振り払うための方法を、走りながら思考をフル回転させて、考えようとする。
(煙幕を使うか? 最近雨は降っていないから、木は乾燥しているはずだ。ダメだ、そんな時間はない。なら、大群では通れないような狭隘な場所で迎撃して死体で通れないようにする……適した場所がない、却下だ。他には……他には……)
思い付く限りの案を考え出してみるものの、どれも都合よく上手くはいきそうになかった。
森の中という地形と、限られた資源、そして何よりも追跡してくる蜘蛛の物量が、障害となって立ち塞がった。
やがて、ノードに思い付く、可能性がありそうな方法は無くなってしまった。
八方塞がり。その言葉と共に、もはやどうにもならないのではないか、という考えが代わりに思い浮かんでくる。
このまま、情報を持ち帰ることが叶わず、蜘蛛の群れに飲み込まれてしまうのか。森から餌となる生き物全てを食べ尽くした蜘蛛たちが森の外へと殺到し、何も知らないアルバ村を襲うのを止められないのだろうか。
そんな弱気な心が、ノードの中で鎌首をもたげる。
(……いや、違う)
またしても飛びかかってきた蜘蛛を、一刀両断に切り捨てながら、ノードはその後ろ向きな考えを否定した。
(アルバ村を救う方法なら……一つだけ、ある)
ノードは隣を見た。
そこには自分に付き添うようにして、緑の鱗に覆われた翼を羽ばたかせて、飛んでいるニュートの姿があった。
(あれだけ小さかった身体が、一年で何ともまあ、大きくなったものだ)
その姿を見て、ノードは場違いにもそんなことを考えた。
一年前、飛竜の山から帰ってくる途中で、飛竜の卵が孵化したときは、どうしたものかと頭を抱えたものだった。
そんなノードの気も知らないで、すやすやと眠っていた産まれたばかりのニュートは、まだ両の腕に納まってしまうくらいの大きさしかなかった。
それが、あれよあれよという間に大きくなり、いつの間にかノードよりもでかくなってしまった。
緑の鱗は厚く、美しく光沢を放つようになり、そして翼は力強く羽ばたいて、空を自由自在に駆け回るほどになった。
そして、つい先日には子供であれば背に乗せて飛ぶことが出来るまでになった。
「ニュート、これを頼む」
「きゅ?」
ノードがおもむろに名前を呼んだ。すると、ニュートがどうした、というように反応して鳴き声を返してくる。
そんなニュートの長い首に、ノードは自分が身に付けていた冒険者ギルドの認識票をかけた。
水晶の認識票が細い鎖に接触して、ニュートの首元でチャラリ、と音を奏でる。
ノードはその隣に、手帳から破いた一枚の紙片をくくりつけた。それは女帝蜘蛛と、その群れについて書かれた頁だった。追加で、避難と増援を求める内容を書き込んだ。
「ニュート、お前はこれをアルバ村に届けるんだ」
「きゅ?」
「俺は此処に残って足止めをする」
「きゅ、きゅい!?」
「このままだと、追い付かれてお仕舞いなんだ。頼む、理解してくれ」
ノードがしようとしていることを理解してか、ニュートが慌てたような鳴き声を上げた。
そのニュートに、ノードは真剣な面持ちで再び言葉をかける。
「これを、アルバ村にいる兄上に届けるんだ。いいな!?」
「きゅ、きゅい!? きゅい!?」
「このままでは、アルバ村にまでこの蜘蛛たちを引き連れていくことになるんだ。心配しなくても、お前がアルバ村に手紙を届けて、避難出来るだけの時間を稼いだら、俺も逃げるさ」
「きゅ、きゅう……」
ノードは渋るニュートに、言うことを聞かせるように辛抱強く語りかけた。
「お前だけが頼りなんだ、ニュート。俺が生き延びるために、助けを呼んできてくれ」
「……きゅい!」
ニュートは迷うような仕草を見せたものの、やがてノードの指示を理解して鳴き声を上げた。
ノードはその様子を見て、安心したように息を漏らした。
ニュートはまだ幼竜ではあるが、将来的にノードの乗騎として戦うために、既に鉄竜騎士団での訓練を開始していた。
人の指示に従わせるための馴致などだけでなく、万が一竜騎士が負傷して動けなくなったとき、救援を求める伝書を運ぶ訓練など、身体の小さなニュートでも始められる訓練だ。
まだ始まったばかりであったが、一般的な飛竜に比べると人に慣れており、より従順な性質を示すニュートは、砂が水を吸い込むようにぐんぐん指示を覚えていった。
その訓練が、ここに来て活きた。
飛竜が飛ぶ速度は、人や馬の移動速度に比べて格段に速い。
例えまだ幼いニュートであっても、平地を早馬で走らせるより速く飛ぶことが出来るのだ。
そのニュートであれば、蜘蛛の追撃を振り切ってアルバ村へと伝書を届けることが出来る筈だった。
「よし、行けッ!」
「……っきゅい!」
ノードの合図で、ニュートは強く翼を羽ばたかせた。
ぐん、と高度を上げて、森の上空にまで飛び上がる。
一度、心配そうにノードの方を見返したので、ノードは手振りで早く行け、と指示を出した。
それを見て、ニュートの翼が、今一度力強く羽ばたいた。
ノードが走る速さに合わせることなく、飛竜だけが持てる速度を発揮したニュートの姿は、あっという間にノードの視界から消えていった。
「キシャアアアアッ!!」
そんなニュートの動きに気が付いたのか、ノードを追い掛けていた蜘蛛の集団の一部が、別方向に進路を向けようとした。
飛んで逃げたニュートを追いかけようというのだろう。
空を飛ぶニュートが蜘蛛たちに追い付かれることは無いだろうが、匂いを追跡されると少々不味いことになる。その先にはアルバ村があるからだ。
川が支流に分かたれるように、蜘蛛の軍勢の流れが、ニュートを追い掛けるべく分派しようとした、その瞬間に。
「火焔よ!」
その先頭集団へと、ノードの詠唱と共に放たれた、巨大な火焔が炸裂した。
「ギシャアアアッ!?」
「おいおい、連れないじゃないか。お前たちの相手は……俺だろう?」
灼熱の火柱が生まれ、何体か纏めて騎士蜘蛛が燃え上がる。
赤い炎に照りつけられた蜘蛛たちの瞳が、赤い魔石の短剣を構えたノードの姿を、再び映し出した。
よく考えたら、色々事前に描写しておくべきだったアルな……まあ、ええやろ!
というわけで木曜日の筈が金曜日になった更新でした。
ちなみに明日は2月15日(土)。貧乏貴族ノードの冒険譚1巻の発売日です。
詳細は活動報告をご覧ください。




