23 恐怖
お久しぶりです。更新! 今回も4000字弱。理由は後書きに。
夜空から降り注ぐ月光に照らし出される森の中を、ノードはひたすらに歩いた。
時には、自身が磨き上げた斥候の技術を駆使して、またある時にはニュートの嗅覚を頼りにして、アルバの森に起きる異変──それに繋がるかもしれない僅かな痕跡を見失わないよう手繰り続けた。
そして、ノードはその場所へと辿り着いた。
その場所は、アルバの森の奥深くにある場所だった。
切り立った崖のようになっていて、北方山脈の麓へと繋がる森が、そこで大きく盆地のように窪んでいて、前回ノードがアルバの森を訪れたときには、丁度その崖までの地図を作っていた。
その場所へと、蜘蛛の痕跡は続いているのがノードには分かった。
(……いるな)
それは確信だった。
周囲に残る真新しい痕跡だけでなく、何よりも風に紛れて聞こえてくる『音』が違った。
森の入り口では分からなかったが、認識してからは明確に理解できた生物が立てる音。
その『気配』が、風の中には紛れていた。
確実にいるであろう、蜘蛛に気付かれないように、ノードは己の存在を気取らせぬよう、自分の存在を殺しながら崖へと近付いていった。
鳴り響く木々の葉擦れの音に紛れるようにして、歩を進める。
音を立てないように、蜘蛛に気付かれないように、夜の闇に同化するようにして慎重に近付いた。最後には、地べたを這うように移動をしながら、ようやくのことで崖の縁まで辿り着く。
ノードはそこで、自分がやけに緊張していることに気が付いた。じっとりと、背中が汗で湿っていて、手が微かに震えている。
何故自分がこれ程に緊張しているのか、ノードには分からなかった。疲労ゆえか、はたまた別の何かだろうか。
理由も分からないままに、ノードは緊張を押し殺しながら、断崖に間際に生えている木の影に隠れるようにして、そっと崖の向こう側を覗き込んだ。
白、白、白。
崖下には、見渡す限りに『白』の世界が広がっていた。
(雪……? いや、違う、これは……)
崖下に広がる森の中に広がる白の景色。
銀色の月明かりを反射して、白く輝くそれは、ともすれば雪のようにも見えた。
しかし、ノードはその正体が何であるかを直ぐに悟り、頭に浮かんだその言葉を打ち消した。
辺り一面に広がっている光景、それは雪景色などではない。森に生える木々を白く彩るその正体は、
(目に見える全てが……糸なのか)
森の中に突如出現した、巨大な蜘蛛の巣だった。
§
ノードは信じられない思いで、眼前に広がる光景を見つめていた。いや、ただ唖然としていただけなのかもしれない。
信じられないほどに大量の蜘蛛の糸が、眼下に広がる森を降雪の如く、純白へと染め上げていた。
森に生える木々は、天辺から根元まで地肌が覗く隙間もないほどに蜘蛛の糸で覆われており、そんな木々の合間にも、橋桁を渡すように蜘蛛の糸が行き渡っている。
その蜘蛛の巣は、森の中に蜘蛛の糸が張り巡らされたというよりも、蜘蛛の糸の中から木々が顔を覗かせている、という方が正しく感じられるほどに広範囲に張り巡らされていた。
──蜘蛛の宮殿。
それが、ノードがその大き過ぎる蜘蛛の巣に抱いた感想だった。
そして、その蜘蛛の宮殿には、ぽつりぽつりと蠢く影が存在していた。
その影の正体は、言うまでもなく蜘蛛だった。八本の肢を自在に動かし、縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の巣の中を移動している。中には糸で丸められた白い球のような何か──おそらく捕らえられた生き餌──を運んでいる個体も多数見受けられる。
(……十二、十三……十四……こいつは将軍蜘蛛より上の個体か……)
蜘蛛の宮殿の中を蠢いていたのは、単なる騎士蜘蛛だけではなかった。かなりの割合で、かつて死闘を繰り広げた魔物である将軍蜘蛛が混じっており、そして中にはそれ以上の数の瞳を持つ個体も多数存在していた。
そんな蜘蛛の軍勢が、うじゃうじゃと、まるで列をなす蟻のように、蜘蛛の糸を移動していた。
一体全体、どれ程の数の蜘蛛がこの巨大な宮殿の中に存在しているのか、見当も付かない。ただ、最低でも百体はいるだろうというのだけは、ノードにも分かった。
(……? こいつら、よく見ると巣の中に餌を運んでいる蜘蛛だけじゃないな……むしろ、逆に)
ふと、蜘蛛の観察をしていたノードが、ある奇妙なことに気が付いた。
宮殿とでも呼ぶべき巨大な蜘蛛の巣の中には、大きな白い塊が集められた場所が存在していた。ノードには、その白い塊が、積み上げられた生き餌であると直ぐに察しがついた。そこは蜘蛛の宮殿における『食料庫』なのだろう。
しかし、どうにもその食料庫の中に入る蜘蛛よりも、むしろ担いで出ていく蜘蛛の方が多いように見受けられた。
何処かに食料を運び出しているようだった。
では、それは何処なのか。
ノードは蜘蛛の動きを追った。
宮殿内には縦横無尽に蜘蛛の糸が張り巡らされ、その構造は複数階になっている場所もあった。
騎士蜘蛛がもつ生態からすれば、これは奇妙なことだったのだが、目の前に広がるありとあらゆる光景が、ノードが知っている騎士蜘蛛の常識から逸脱していた。
そのため、途中から感覚が麻痺して、何が起きても驚かないという謎の自信すら、ノードには存在していた。
蜘蛛たちは、宮殿の内部を通って北方山脈へと向かっているようだった。
いそいそ、と蜘蛛の糸で丸められた生き餌を担いで、宮殿の北端まで移動する。そして、北端に存在している小山の前まで辿りつくと、その麓に生き餌を積み上げ、また元来た道を引き返して行く。
はじめ、ノードはその行動を訝しみながらも、新たな食料庫に生き餌を移動させてでもいるのだろう、と結論付けた。
その山の影がゆっくりと動き始めるまでは。
何が起きたのか、直ぐには分からなかった。
月に雲がかかったのだろうか、と空を見上げた程である。
そして、夜空に浮かぶ月が丸々と輝いているのを見て、ようやく、目の前にあるそれが何であるのかを認識した。
「………………うそ、だろ」
思わず、といった具合にノードの口から驚愕の声が漏れる。全くの無意識の行動だった。
山が、動いていた。
否、それは山ではなかった。
そこにいたのは、山と見紛う程に巨大な蜘蛛の姿だった。
何故、その存在に気が付かなかったのか。
内心で自問しながらも、ノードは直ぐにその答えに辿り着けた。
カタカタ、と震える音がした。
自分の身体から発せられる音だった。
──恐怖で、ノードの身体が震えていた。
本能が、その存在に目を背けていたのだと、ノードは心の底から理解していた。
森の中に生き物の気配が存在しなかったのも、これで説明が付いた。
目の前に屹立している巨蜘蛛のために、配下の蜘蛛たちが、森の中から生き物を捕らえていた──それもある。
しかし、それは本質ではなかった。もしそうであれば、何故に餌にならないほどに小さな小鳥や虫までもが森の中にいないのか。蜘蛛たちの痕跡が無かったアルバの森の入り口ですら、何故生き物の気配を感じなかったのか。という点に説明が付かないからだ。
だがその疑問の答えは、ノード自身が今まさに、身をもって思い知っていた。
──恐怖、それが答えだった。
この目の前の巨蜘蛛の存在に、小鳥や虫たちは一早く気が付いていたのだ。生存競争の激しい森の中で、狩られる側である小動物たちはどうやって生き延びるのか。鋭い牙も爪も持たない小動物たちの最大の武器は、恐怖心だ。
その驚異を鋭敏に察知する恐怖という本能こそが、小動物を危険から遠ざけて、生存を可能にする。
逆に、狩る側の生き物は恐怖には鈍感だった。だからこそ大型の角鹿はまだ森の入り口付近にも存在していたし、眼下に広がる蜘蛛の宮殿に捕らえられた獲物たちは、逃げ出す前に捕らえられたのだ。
そして余りにも大きすぎる恐怖は、恐慌と焦りを生み出してしまう。蛇に睨まれた蛙が身動きが取れなくなるように、近すぎる場所に来てしまったノードもまた恐慌で身動きが取れなくなりかけていた。
ノードが巨蜘蛛の存在を認知しなかったのは、防衛本能によるものだったのかもしれない。
(……っく、震えが、止まらん……不味い、このままだと震えで音が……!)
「きゅう」
「!」
温かな感触が、ノードの掌へと伝わった。
突然のことに驚いて、視線を傍らに向ける。
そこには、ノードの掌に顔を擦り付けるニュートの姿があった。
(お前……)
ニュートもまた、震えていた。
ぷるぷる、と寒さに耐える仔猫や仔犬のように。ノードと同じように恐怖に必死に耐えているのが、掌から伝わる。
そして、そんな中にありながらも、ニュートはノードを元気付けようと、精一杯いつも通りに振る舞っていた。
掌に、ニュートのすべすべとした鱗の感触と体温が伝わった。
人間よりも少しだけ高い飛竜の体温を感じて、まるでその温かさがノードの全身に巡るようだった。全身の震えは、いつの間にか止まっていた。
(すまない……助かったよ、ニュート。ありがとう)
今度はノードが、優しい手付きでニュートの頭を撫でた。
ノードはニュートを落ち着かせるように撫でながら、再び視線を蜘蛛たちの宮殿へと向ける。
のっそりと、小山ほどの大きさの蜘蛛が身体を動かしている。
その姿を見て、ノードは再び本能的な恐怖を感じた。しかし、今度は震えはこないようだった。




