第八話 シュレーディンガーの猫
対抗戦の事件があった翌日、自分の部屋で目覚め廊下に出たアルクは、何処か違和感を感じていた。
(……何故、誰もセレス様の部屋へ向かっている人が居ないんだ?)
そう、何時もなら、身支度を手伝うため複数人のメイドがセレスの部屋を訪ねる為アルクの部屋の前を行き来している。しかし、今日は誰一人として居なかった。
「あの……」
アルクは、一人のメイドに話しかける。
「はい、何でしょうか?」
「セレス様は、何処に居ますか?」
「セレス様?それは何方ですか?」
「……」
「?」
アルクは、その答えを聞き絶句してしまう。一瞬、このメイドがセレスの事を知らないと言う可能性を考える程に。
しかし、それはあり得ない。と思考を切り替える。なにせ、この国の次期皇帝だ。知らずに仕える人間が居る訳が無い。そして、メイドの反応を見る限り、アルクをからかっている様子でも無い。本当にセレスティーナ・ジャンヌ・フェルスと言う人間を知らないと見えた。
「いえ、何でもありません。仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、それでは」
メイドは、そう言うと、一礼して去って行った。
「どうなっている……」
アルクは、この状況が不快に思え、ファルミアの下へ向かうため足を運ぶ。
(どうして、こうなった……)
アルクは、内心そう思うと、昨日起こった事を思い返していた。
昨日――
「セレス様、大丈夫ですか?」
「……」
魔族の女を殺したアルクは、セレスの安全を確認しに行く。しかし、セレスは俯いたまま、返事をしなかった。
「セレス様……取りあえず、此処から移動しましょう」
アルクが、そう言いセレスをお姫様だっこの形で抱きかかえた。
すると、破壊された観客席の方から、小さな女の子の声がした。
「助けて……お母さん……」
セレスは、その声を聴くと、顔を上げその女の子の声が聞こえた方を見る。
しかし、その女の子と思わしき子供は……全身に火傷を覆っており、如何して喋る事が出来なのか不思議な程だった。
「た……す……」
その言葉が途中で力なく途切れると、セレスはその女の子に手を伸ばし、涙を流していた。
「……行きましょう。セレス様」
アルクは、その場に居るのは良くないと思い、足を踏み出そうとした。すると、セレスの震える口が開かれた。
「アルク君。どうしてこんな事に……私が悪いんですか?
私が……神に近い存在だから……神の子孫だからなんですか!だったら……私なんて……私なんて!居なければよかった。私を、消して!今すぐ私を殺してください!アルク君!お願いですから……私にこれ以上苦しみを与えないでよぉ……」
セレスは、そう言うと、アルクの胸に顔を埋め泣き叫ぶ。
「……」
アルクは、何も言えなかった。言う資格が無かった。
アルクはそこまで、立派な人間では無かった……強い人間でも無かった。
(此処で、ビンタでもして感情的に訴える事が出来れば、良いんだろうけど……俺には出来ない……)
アルクは、内心そう思い、ただセレスを見つめる事しかできなかった。
「何も言ってくれないんですね……」
目をはらしたセレスは、そう言うと、少し残念そうな顔をする。そして、アルクの手から降り、一人歩き始めた。
そんな事を思い出しながらファルミアの部屋の扉をノックする
「はい。どうぞ」
「失礼します」
アルクは、扉を開け中に入る。
「どうしたの?そんなに血相を変えて?」
「ファルミア殿下はセレス様の居場所が分かりますか?」
「セレス?……」
アルクは、その不思議そうな声に一瞬覚悟した。
「知らないわね。まだ部屋に居るんじゃないかしら?」
「……」
ファルミアの反応を見たアルクは、安心すると共に、払拭できない疑問にぶつかり、思考する。
「どうしたの?様子が変よ?」
「実は、先程部屋を出た時に誰もセレス様の部屋の方へ歩いて行っておらず、違和感を感じ、近くに居たメイドに聞いた所、セレス様を知りませんでした……」
「それは、ただメイドがセレス……いや、これは無いか……おかしいわね……イクス、起きて!」
ファルミアは、隣の机で突っ伏して寝ているイクスの肩をゆすり、起こす。
「ん?何だいファルミア」
「セレスがどこ行っていたか知らない?」
まだ、薄目状態のイクスにファルミアは聞く。当然、先程まで寝ていたイクスが知っている訳が無い。しかし本題はそこではなかった――
「ん?セレス?誰だい?それは……」
その言葉が出るかどうか、それを判断したかったのだ。
「……本気で言っているの?」
「ん?本気だとも。セレスと言う人間を僕は知らないよ?」
寝ぼけているだけだと思ったのか、ファルミアは、イクスの両肩を強く握り、前後にゆする。
「そんな事をしなくても、僕は正気だ。どちらかと言うと、ファルミアの方こそ正気かい?」
と、逆に心配されてしまう。
こうなると、アルクは完全にセレスの存在が人の記憶から消えていると思えてしまう。
「ごめんなさい。少し、頭を冷やしてくるわ」
「うん。それが良いよ」
そう言い、ファルミアは執務室を出る。その後ろにアルクもついて行く。
「これは、どういう事……」
「取りあえず、セレス様本人を探さないといけません。僕は個人的に探してみます」
「お願い。私も、出来る限り探してみるわ」
「それとファルミア殿下、一応紙か何かに。セレス様の事を書いておいてください」
「そうね……」
明らかに、暗い表所をし、返事をするファルミア。
「それでは、失礼します」
「えぇ、お願い」
ファルミアは祈る様な気持ちでアルクにそう声を掛ける。
「取りあえず、セレス様の部屋に行ってみるか……あまり、朝には行きたくないが……」
そうして、アルクはセレスの部屋の前に着く。
当然と言って良いものか、セレスの部屋の前には騎士はもちろん、メイドの一人も居なかった。アルクは、気を引き締め扉をノックする。
「セレス様。アルクです。入ってもよろしいでしょうか」
そう言ったが、中から返事は返ってこなかった。
「入りますよ」
アルクは、そう言い、扉を開く。
中に入ると、暗く周りの状況が把握できない程だった。
「……」
そして、暗さに目が慣れ部屋の中が確認できるようになると、アルクは異様な光景を目にした。
それは、泥棒にでも入られたのかと思うほど、荒らされた部屋だった。椅子は壊れ、机は、傷がつき、床には、ボロボロになった服や、本が散乱していた。
「これは……」
そうして、目線をベッドに移すと、そこには小さく丸まったセレスの姿があった。
「………………………………………………………………………………………………………」
セレスは、小さな声で何かを呟いているのか小さく口が動いていた。
「セレス様……」
アルクは、セレスに近寄る。そして、セレスの言葉が聞き取れるようになり、アルクは、愕然とする。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
セレスは、狂ったようにそう言い続けていた。
(あぁ……これは心が壊れてしまっている)
アルクはそう思った。
人間は、心が壊れると自己ですべてを完結させ、自己防衛をする。それは、声を発し、耳を塞ぐ。焦点を合わせず何処か遠くを見つめ、眼を塞ぐ。そうする事で人間は、現実から逃げるのだ。
(此処で、綺麗事を言うのは簡単だ……でもそれで本当に良いのか?5年前の俺と同じ様になるんじゃ無いのか?いや、もっと酷い事になるかも知れない……これ以上、俺はこの人に関わるべきではないのかもしれない……)
セレスの心が壊れた原因が自分に有るとアルクは思ってしまったのだ。
それは、『知識』『感性』『精神』が根本的にセレスとかけ離れた存在であるアルクに関わる事で、セレスはアルクと出会う以前よりも速いスピードで精神が育ってしまったのだ。その所為で、セレスは普通の人間が気にする事の無い所まで考えてしまう。自分が何で出来ていて、どんな存在なのか……と。
そして、アルクが何もできず呆然としていると、ファルミアが部屋の中に入って来た。
「ファルミア様……」
「セレス!ごめんね。大丈夫だよ。もう大丈夫だから……」
うずくまり、ひたすら謝り続けるセレスを、ファルミアは優しく抱き締めた。
先日の後悔を噛み締める様な思いで強く抱き締める。
「お…母さん……私……わたし……もう、消えたい……」
抱きしめられ、乾いていた瞳に涙を浮かべセレスはそう言った。
そんな、セレスにファルミアは何も言えなかった。それは、自分の娘がそんな事を言ってしまう程、追い詰めてしまった自責。それは、自分が何もしてあげられなかったと言う自責。
「ごめんね……」
ファルミアはそう言い、再びセレスをギュッと強く抱き締める。
それで、セレスは完全に正気に戻り、目に光がさしていた。
「もう、大丈夫だよ、お母さん」
セレスはそう言うと、ニコリと笑う。
「そ、そう……」
ファルミアは、そう言われ思わず手を放す。しかし、ファルミアはセレスの言葉が嘘である事は分かっていた。だが、ファルミアには、抱きしめる以上の事は出来ないし、セレスを苦しみから解き放つ事も出来ない。
それは、9年前から急速に活発化したイルミナティは何故かセレスを誘拐しようとし続けているからだ。それも、両手では足りない程の回数だ。
そして、数年前までは適当な傭兵や、スラムの人間だったが、最近はイルミナティの信徒が直接動き始め、国家の問題ともなっている。
そして、昨日の事件だ。その事件の所為で亡くなった人の遺族は、セレスに敵意を向けている人が多い。その為、セレスはこれからさらに危険にさらされ続けられる事になる。
そんな状態から助け出せる人間はこの世には居ないだろう……助かる方法が有るとすれば、それは逃げる事だけだ。
(いっそのこと、皇帝の座なんか捨てられれば良いのに……)
ファルミアはそう思った。しかし、それは出来なかった。
これからの国家が……と言う問題では無く、この帝国の皇帝は基本的には女系であり、女帝なのだ。そして、それは帝国の成り立ちにも関係し、帝国創立記にこう書かれている為だ。『フェルス家が代々この地を治めよ、さすれば異界との**の困難を乗り越えられる』と書かれていた。これは、この世界存在する宗教組織の大半が預言書として認定している書物であり、セレスを含むフェルス家が神の一族と呼ばれる所以でもある。
その為、ファルミアは皇帝を辞める事は出来ない。そして、その書物や、肩書の所為でフェルス家は常に狙われ続けても居る。
「大丈夫ですか?お母さん」
「だ、大丈夫よ」
「そうですか?では、私は朝食をとってきますね」
そう言い、セレスは部屋を出て行った。
「そうだ、セレスちゃんの事……」
「恐らく、大丈夫だと思います。僕と、ファルミア殿下がセレス様の存在をきちんと観測しましたから……」
セレスが出て行った扉を見つめアルクがそう言った。しかしその意味はファルミアには理解出来なかった。
アルクが、大丈夫だと言った理由は、シュレーディンガーの猫が理由だ。
と言うのも、シュレーディンガーの猫と言うのは、思考実験の事で、何らかの事象が起きると起動する毒ガス発生装置と猫を箱の中に入れ、その猫は箱を開けるまで死んでいるのか生きているのか分からないと言う矛盾を実証するための実験だが、その矛盾の状態では、二つの事象が起こっている可能性があり、それを確認する為には。誰かが箱を開け猫の状態を観測する必要があり、観測が行われた時点でその猫の状態と言うのは確定されるのだ。
これを、セレスに置き換えると、セレスをアルクが観測するまでは、アルクとファルミアの記憶が偽りと言う可能性と、二人の記憶が正しいと言う状態になる。そしてその状態を解決するためにはセレスと言う人間を観測する。もしくは二人がセレスの事を忘れる事のどちらかしかない。そして、部屋に居たセレスをアルクが観測した事により、セレスの存在はこの世界に固定されたのだ。
「そう……それで、アルク君も大丈夫?」
「え?何が……」
そう指摘され、アルクは初めて自分が涙を流している事に気が付いた。
「大丈夫ですよ。ただ、目にゴミが入っただけですから……」
アルクは苦しい言い訳と分かりながらもその言葉を口にし、涙を拭う。
「アルク君も、ありがとうね」
そう言い、ファルミアはアルクを抱きしめる。
暖かく、優しく、安らぐ……そんな感覚に陥るアルク。
「ファルミア殿下……僕はセレス様の傍に居ない方が良いのではないのでしょうか……」
ファルミアの胸の中でアルク唐突にファルミアに問う。
「どうして、そう思うの?」
「僕は、セレス様にいい影響は与えません。恐らく悪い影響の方が多いのではないですか?例えば、僕の存在そのもの……」
「存在が……何で?」
「例えば、僕は存在するだけで、魔力をかき乱します。これは僕が、自分の魔力と親和性が悪く、魔力が言う事を聞かない為に起こる現象です。恐らく見て貰えば分かると思います」
アルクは、そう言うと、ファルミアに自分の魔力を見るように言う。
「確かに、アルク君の魔力は初めて会った時にしか見た事が無いけど……今まで変な事を感じたことは無いわよ?」
と言いつつもファルミアは、アルクの言う通りアルクの魔力の色を見る。
「これ……色は透明だけど……空間が歪んで見える……」
そう、アルクは、魔力を漏らしているだけでは無く、空気中に存在する魔力にも影響をあえて居るのだ。その為、魔力が色で見る事が出来るファルミアには歪んで見える。
「そして、これは魔眼持ちで精霊と契約を交わしている者ならば、僕の事をどこに居ても見つける事が出来るでしょう……精霊は、世界に満ちた魔力に敏感ですから」
俯き自嘲するようにアルクは言う。
「アルク君は、イルミナティに魔眼使いが居ると言いたいの?」
「恐らくそうでしょう。なにせ、僕がこの城に来てからですよね?イルミナティの信徒が直接手を下すようになってきたのは……」
「え……えぇ……」
「そう言う事です。恐らく今までは、騎士たちが決死の思いで対処してきたおかげで、セレス様の居場所が確定しなかったのでしょう。なにせ、母親が魔法、魔術の天才ファルミア殿下何ですから。幻覚や、偽物と言う事も疑ったのかもしれません。しかし、僕がセレス様を救出した時にイルミナティの魔眼持ちに情報が行ったのでしょう。そして僕がセレス様の騎士になったと分かると目印に使われた」
アルクはそう言い、ファルミアの腕の中から逃れようとした。
しかし、ファルミアは更に強く抱き締める。
「でもね、セレスちゃんはアルク君が居たからこそ、今まで精神を保っていられたのよ。私やイクスだけだったら、とっくにセレスちゃんは壊れちゃっているわ……あの子は優しい子だもの。そして、アルク君。君もね」
そう言い、優しくアルクの頭を撫でる。
「……」
「だから、これからもセレスちゃんの傍に居てあげて、そして居なくなったら、また見つけてあげてね……」
「……はい」
何処か自身がなさそうにお願いをするファルミアに、アルクは小さく答えた。




