『海岸線の守り神』
海辺を宙に飛びながら前に進んでいた。
長く淡い黄色の絹のワンピースの裾がくらげのように揺れている。
足の下には粘っこい空気の塊があって、私は腕を右に、左に大きく動かして、自分の体の舵をとりながら、進んだり、向きを変えたりもっと高く飛んだり、低く飛んだりする。
曲がりくねった岩がちな海岸線の上をまるでレールに沿って進む汽車のように忠実に前進する。
空気は冷たく湿っていて、空は紫がかった灰色だった。
辺りは岩がちで、岩にはコケが緑の染料を吹き付けたかのようにむしている。
海に突き出た岬の先あたりで、霧の合間から無数の笹舟のような細長い船に乗った兵隊達が弓を引き、矢をこちら側に向けている。
矢じりの上に日の光が当たって、ガラスのように輝いている。
弓を引く兵士の動作も、各船に四人だけいる長いオールを持った舟のこぎ手の動きも、一糸乱れず揃っていた。
兵士達は子供のようにきゃしゃで、鈍い銀色の、鎧兜をつけている。
その合間からは獣皮の衣が見え、その上には長く伸ばした淡い色の髪や髭がかかっている。
私がぎっとにらむとふっと切える。
それで安心してまた海岸線に沿ってふわふわと進んでいく。
海を見るとまた船と兵隊の姿が見える。
先ほどより岸辺に近づいていて、また数が増えていた。
残像のようなぼんやりした姿の中、矢の光だけが鮮やかであった。
私は目の奥深くにある、何かを搾り出すようにして力をこめて睨む。
彼らは日のあたる岩の上の水滴のように消える。
また少し行った。
海を見ればもっと勢力を増して近づいてきた。
私がまたねめつけると、また彼らは消えた。
また少し行ってまた海を見る。
また増えて近づいている。
睨む。
消える。
睨む。
消える。
睨む。
消える……
海岸に漁船が幾つか泊まっているのが見えた。
漁船からは焚き火の煙が、霧の中に溶け込むように登っている。
おようございますハムレット陛下、という声が聞こえて、振り向くと網を背負った男が現れ、最敬礼をした。
男が後ろを向いて、みんなハムレット様だ!と仲間を呼ぶ。
わらわらと、若いのから、年寄りまで金髪の男達が黒い岩の上を器用に渡りながら集まってくると、ドミノが倒れるように一斉に私に向かって真っ直角におじぎをした。
地面の平らになった部分に、運んできた枯れ木を集め、焚き火を炊き、側に緑色の毛布を敷くと、私にそこに座るように勧めた。
私は暖かいのがかえってつらかったが、せっかく勧めてくれるのを断るのも悪い気がして、その上に座ると、皆が私を囲み、立て膝をたて、青い目をまん丸くして、私を仰ぎ見ながらしゃがみこむ。
酒や食べ物を差し出されたが、食べる気がしない。
それで皆、遠慮して、自分達の分にも口をつけようとしないので、私から何度も言って、やっと食事が始まった。
私もビールの入った杯を唇につけ、飲むふりをする。
酒が入り雰囲気がほぐれてくると、男達は、小鳥のようにピチクチ、パチクチと、私が死んで寂しい、頼りない思いでいる、とさえずりだした。
男の一人が、実は最近私達はちょくちょく沖合いで隣国の軍艦を見るのです、とつぶやいた。
もう一人の男が、十日にいっぺんは見ます。今に襲ってくるのでないかと皆で噂しています。それなのに今の王様は、単に迷い込んだだけじゃないか? 隣の国とは仲良くしなければいけないのだから、変に疑うことはよそうじゃないか? と呑気にしていらっしゃるらしいです、と不満そうに訴えたところ、海鳥が騒然と鳴き始めた。
轟々たる鳴き声が、冷え冷えとした侘しげな空に響き渡った。
しばらく鳴き続け、やんだ所で、男達が息せき切って、今の王様ぜんぜん頼りなくて駄目です、ハムレット様、ぜひ生き返ってまた王様になって下さい、と海鳥に取って代わって喚きだした。
私は、それは無理だよ、私はもう死んだのだから、あの子だって頑張っているんだ、応援してやってくれよ、と弟を擁護したが、今の王様は王様の器ではありません、貴方にまるで及ばない、ああ貴方さえまだお元気だったら……と口々に言う。
しだいに男達の声は大きくなり、皆が争うように私がもうこの世にいないことの寂しさと、弟への悪口をがなりだし、それが折り重なって、ただ声をはりあげているだけで、何と言っているか、わからなくなった。
私はあまりにもうるさくて両手で耳をふさいで目を閉じた。
男達のけたたましい声が私の耳の中でこだました。
私にはそれが人間の声というよりも獣か鳥の鳴き声に聞こえた。
目を開くと、男達は目の前から消えていて、岩場を見下ろすと私は見渡す限りの白や灰色の海鳥に囲まれていた。
とがったくちばしの先を空高くに向け、一心にがががががと叫んでいる。
私は空気の台に足をつけ、それを蹴ると舞い上がり、吼え続ける海鳥達の上をよたよたと飛び抜け、群の端まで来ると海に向かって右斜め上に空気の階段を上った。
海と陸の境までたどりつくと、鼓膜に叩きつける鳴き声を背に、また海外線に沿ってふわりふわりと進みだした。
空気の塊を踏み踏み前に進みながら、私は男達の言葉を反芻した。
私は決意した。
可愛い国民達をなんとしても敵から守らなければならない。
海外線をその通りに忠実になぞりながら飛び、一息ごとに海を見据えて、霧から透けて見える敵の船を、眼力でおっぱらった。
船に乗った兵隊達は、私が眼光を飛ばせばすぐ消えるが、瞬く間に現れて、そのたびに数が増えて、近づいてくる。
海岸線は長く入り組んでいて、永遠に続いているかのように見えた。
私は自分が、終わりなく寄せて返す、波になった気がした。
もう何べんも、いや何十ぺんも太陽が天頂から水平線に落ちて、またそれが昇って、また落ちていくのを見た。
空はいつだって薄暗く、灰色と紫色の間で灰色よりになったり、紫色よりになったりを繰り返していた。
太陽は水平線に半分隠れたかと思うと、すぐにまた上りだす。
濁った色の空の中、太陽の赤く強い光線が目にしみる。
海岸の敵の船が、すっかり消えているのに気がついた。
私は風船から漏れる空気のように長い息をついた後、両手で霧をかき分けながら丘を登って行った。
着いたのは灰色の細長い城で、私が生前住んでいた所である。
その城は古めかしいというよりも、もう崩れかかっていて、塔の先や、城壁の縁、窓の下に張り出したバルコニーなど、建物の端や先は、ほとんど欠けていて、無事なものが無いほどだった。
それだけでなく、壁が半分崩れていたり、屋根が落ちているまま、ほっとかれているような建物も多かった。
生きているうちに建て替えたいと思っていたのに、ついにかなわなかったのでる。
変わりはないだろうか? 妻や息子、仲の良かった家臣に会えるだろうか? と考えながら、城の周りをぶらぶらとしていると、どこもかしこも背の高い草が生え放題に生えていて、そこらじゅうに蜘蛛が巣を作っている。
庭の手入れが行き届いていない様子を苦々しく思いながら歩をすすめると、右半分が、大人の腰の高さから上が崩れた、灰色の壁にたどりつく。
その壁を抜ける門の上の、ドラゴンが三つ並んだガーゴイルが目に留まる。
その内の一番左は、顔がまん丸で目が大きい子供顔である。
私は幼い頃、それが自分の友達のような気がして、気に入っていたのを思い出した。
私は彼にむかって、やあ久しぶりだね! と何十年ぶりかの挨拶をする。
宙高く浮かび上がり、彼を上から見下ろした。
子供の頃は大人に抱き上げてもらって、手を伸ばして、あご先にちょんと触れるのが精一杯だったので、私は彼の頭には両脇にツノが生えていることを初めて知った。
ツノとツノの間には蜘の巣が張っていて、はらってやろうとしたが、私の手は宙をかすめるだけである。
ツノの一本は先が欠けている。誰かに言って掃除とツノの修復をさせようと思い、下に降りていった時だった。
お前は殺されたのだ! という悪夢にうなされたような声が頭の上から聞こえた。私の幼馴染の隣に座る、大人顔のドラゴンがぎょろりとした目をこちらに向けている。