屋台町にて
薔薇色の素晴らしい夕焼けを見せた後、日が落ちた。かすかに紅く焼け残った西の空の上には星が一つ二つ瞬いていて、東の空から夜が滲んでいた。学校帰りの私は夕焼けの余韻に浸りながら、あんな素晴らしい夕焼けを見ることができるのならば、幽霊だって見ることができるだろうと半ば期待して、屋台町をぶらつくことに決めた。
八幡宮を分厚く囲う屋台町は人で賑わい、それがまた迷路のように入り組んでいた。黄色いアーク灯が真っ赤な屋台を照らす様などは毎日縁日をしているようなもので、ここに来ると訳もなく心がうきうきしてくる。きっと幽霊に出会えるだろう。
そう思っているそばから幽霊を見た。
結城小夜子の幽霊が豆腐料理の屋台で揚げ豆腐を食べていた。生前、食いしん坊で知られた彼女ならさもありなんといったところ。学校指定の夏服を着た結城小夜子の幽霊はプラスチック製のレンゲを手に薬味のたっぷりかかった煉瓦大の揚げ豆腐をもりもり食べていた。彼女の豆腐を食べるその美味しそうな様を見ていると、生と死のあいだに横たわっていた厳然たる深い溝が物凄い勢いで埋められている気すらしてくる。
結城小夜子はまだ死んで間もないから、成仏していないに違いない。きっと豆腐はこの世の食いおさめ。そう思い、私は彼女が美味しそうに豆腐を食べる様子を見守った。今日見た夕焼けが素晴らしかったから、きっと結城小夜子も今日で成仏するだろう。豆腐をたいらげプラスチック製の白いレンゲを皿に置いた途端、ぽうっと白く柔らかな光に包まれて、彼女は消えてしまうに違いない。私の成仏観である。
結城小夜子の幽霊は豆腐を食べ終わった。そして、レンゲを皿に置いた。レンゲがカチャンと鳴った。ついに成仏するぞと身構えたが、しなかった。結城小夜子の幽霊は立ち上がって、豆腐料理屋を出て、右に歩いていった。私は後をついていった。結城小夜子の成仏を見届けるべく、後をついていったのだが、そこでハタと気がついた。結城小夜子の服装が学校指定の夏服から白い小袖に真紅の袴の巫女姿に変わっていたのだ。うっかりしていた。スクリューポテトなる竜巻状に薄く切られたじゃがいもが丸揚げにされているのを横目でちらりと見た隙に結城小夜子の幽霊は衣を変えてしまっていた。
だが、これで一つ腑に落ちた。どうやら結城小夜子は死後、巫女として八幡さまに仕えることでこの世をうろつくことを許されたらしい。うろつくといっても、そこはおそらく八幡さまのこと、境内と鎮守の杜と屋台町までと決めさせたに違いない。だが、それは結城小夜子にとってちっとも不利な条件ではなかった。なぜなら彼女は食いしん坊だったのだから屋台町をうろつければ、それで結構。万々歳。
しかし、結城小夜子も隅におけない。一女子高生が一体どうやったら八幡さまと取引できるのだろうか。私は彼女の食いしん坊な面ばかりを見ていたから、結城小夜子をあなどっていたのかもしれない。きっと彼女は私が考えるよりも数段知恵のまわる少女であったのだろう。
結城小夜子の幽霊は、いやいまや八幡さまの御使いとなった結城小夜子は突然ふわりと飛び上がり、どこかよそに飛んでいった。それを見て、誰も変に思わないのはさすが八幡さまのお膝元、屋台町の人々である。私は彼女を見失わないよう顔を上に向けながら、屋台と屋台の間の人でごった返した狭い道を歩くという非常に困難な問題に直面した。だが、それもじきに解決した。結城小夜子を見失ったからだ。
しかし、私は焦らなかった。どうせ境内か鎮守の杜か屋台町にいるのだ。そして、結城小夜子は食いしん坊。おそらく、まだ屋台町にいるだろう。私は結城小夜子を探して、屋台巡礼をすることになった。
ラーメン屋が、
「巫女の格好をした女の子? うちで一杯食べてから出て行ったよ。次は焼きそばを食べに行くって言ってたなあ」
と、言ったので、焼きそば屋に行くと、
「塩焼きそばを一皿食べてった。次はお好み焼きが食べたいって言っていたよ」
と、言ったので、広島風お好み焼き屋に行くと、
「うん、来たわよ、巫女さん。サイコロステーキ食べたいって言いながら飛んでいっちゃった」
と言うので、サイコロステーキ屋に行くと、
「さっきまでいたよ。皿うどんを食べに行くって言ってた」
と、言った。そして、皿うどん屋は、
「つい十秒前までここにいたよ。何でも屋ぶらは揚げ豆腐で始まり揚げ豆腐で終わるって」
私が屋ぶらって何ですか、と問うと、皿うどん屋いわく、屋台町をぶらぶらすることをそう略しているらしい。
こうしてたらいまわしの末、私は豆腐料理屋に戻った。ところが、肝心の結城小夜子はいなかった。
「巫女さん? 一度食べに来たよ」
と、店主が言った。
「もう一度来ませんでしたか?」
「いやあ来てないねえ」
今度こそ結城小夜子に追いつけると思ったが、肝心の結城小夜子は心変わりしたのか、豆腐料理屋にはいなかった。結城小夜子は空を飛べるのだから、私より先にここにいてしかるべきなのに、いないということは類稀なる食いしん坊の結城小夜子はもうお腹もいっぱいになり、境内に帰ってしまったのかもしれない。今の私に人で混雑した屋台町を横断して八幡宮まで行く体力は残っていなかった。そもそも結城小夜子と出会って何を話すつもりだったのか。私は今日素晴らしい夕焼けを見た。こんな日は幽霊に出会えるに違いない。そう思って、屋台町にやってきて、結城小夜子に会った。それでよしとしておけばよかったのだ。
そもそも行っていたことが徒労だった、そう思ったとき、私のお腹がグーッと鳴った。
「すいません。揚げ豆腐一丁」
「はいよ」
屋台の隣にある四人用のテーブルにつき、通学カバンを机の脚に立てかけて、尻を青いプラスチック製の腰掛けに乗せて、揚げ豆腐を待った。疲れていた。うつらうつらした。首がかくんかくんと舟を漕ぐたびに体の力が抜けていくのを感じた。私はこの夢か現か分からぬまどろみを存分に堪能したいという怠惰な感情でヒタヒタになっていた。
ところが、黄色い声が、
「おじさん、揚げ豆腐一丁」
と、注文した。その声で泥沼に沈みつつあった私の意識がはっきりと舞い戻ってきた。ちょうど海の深いところで逆さに押さえつけていたバケツが空気の浮力でいきおいよく上がっていくような速さでだ。
さっきまで五トンの重さがあった瞼をパチンと見開くと、私の目の前に結城小夜子が座っていた。学校指定の夏服姿をしていたからだろう。私は生前の彼女によくしていたように、
「やあ」
と、軽く挨拶できた。生まれて初めての幽霊との会話だった。それに対する彼女の返礼は、
「やっほー」
で、あった。生前となんにも変わっていない。
いろいろ聞いてみたいことがあった。死ぬというのはどんな感じなのか、八幡さまと契りを交わすとどんな仕事があるのか等々。だが、私が実際にたずねたのは、
「巫女さんの格好じゃないの?」
ごく瑣末なものだった。だが、彼女は律儀に答えた。
「タレが飛んで汚れちゃうといけないから、食べるときだけは服を変えるの」
幽霊も頑固な油汚れを気にするのか、そう思ったが口には出さなかった。先に私の揚げ豆腐がやってきた。煉瓦くらいに大きな木綿豆腐ににんにく醤油と七味唐辛子、切ったニラが散っていた。
私は先に食べ始めた。熱々の揚げ豆腐はこの上なく美味しかった。豆腐を食べるたびに胃袋に満足感がズシンと落っこちてきた。私の揚げ豆腐が半分なくなったころに、彼女の揚げ豆腐がやってきた。二人は会話を忘れて、揚げ豆腐を食べた。本当に美味しいものと出会ったら、会話などしていられない。
私のほうがはやく食べ始めたのにもかかわらず、私と彼女は同じタイミングで揚げ豆腐を食べ終わった。さすが食いしん坊といったところ。彼女は夏服のまま、私と歩いた。それが意味するところは分からなかったが、私は彼女としばらく一緒に何を食べるわけでもなく屋台町を歩いた。屋台町は歩いているだけで気持ちが高ぶってくる町なのだ。そういえば彼女が病で亡くなる前もこんなふうに二人で歩いたものだった。生前の彼女は屋台町が大好きだった。喉にチューブを入れられて、食事ではなく、点滴でしか栄養を取れなくなってからも、私は彼女に頼まれて屋台町の話をしてあげた。
さすがに午後八時半になると、家に着くのが九時になってしまう。それでは私の両親の心証も悪かろうと思って、私は屋台町を出ることにした。
屋台が切れるまで彼女は私についてきた。そして、屋台と普通の街が始まる境目でピタリと足を止めた。私が普通の街へと一歩足を踏み出して振り向くと、彼女はバイバイと手を振って、ひゅうっと消えてしまった。
それを悲しいとは思わない。私には分かっていた。薔薇色の素晴らしい夕焼けが胸に余韻を残した夜ならいつだって彼女に会えるのだ。