第一話
「う……」
俺は身じろぎした。寒い。地面が固い。
あくびを噛み殺しながら身を起こす。その際、体を支える手のひらや指がざらざらとした冷たい感触を伝えてきた。
眼をしょぼしょぼさせながら開く。やけに眩しい。まるで部屋で寝てるんじゃなくて、直射日光でも当たってるんじゃないかってくらいに……
「……は?」
眼を開いた俺から間抜けな声が出た。今俺のことを見ている奴がいたら、そいつは俺の間抜けな声を聞くだけでなく、間抜けな面まで見ることになっただろう。
でも間抜けな面になっても仕方ないだろう。誰も、少なくとも俺はこの光景を起き抜けに見ることになるとは想像できなかった。
俺の目の前には、風が流れることでさらさらという音を立てる草原が広がっていた。
「いや……、んー……と?」
寝ぼけているのかと思った。しかし、それにしては感覚がはっきりしている。土のざらざらさ、草の冷たさ、息を吸うと青いにおいが鼻を通った。
可笑しい。いくらなんでもこんなところで寝るような趣味は俺にはなかったはずだ。例え居酒屋で酒を飲んで帰ったとして、こんなところは通りかからなかったはずだ。俺はこんな景色をテレビはまだしも、実際に見たことはなかったはずだ。
ずだずだずだ、と考えながらぐるりと見渡してみる。そうだ、俺はこんな地平線が見えるような草原なんて知らない。ついでに言えばそこにいる茶色と灰色が混じった毛色をした狼なんて見たことも――――――――
……犬だよな?
そう思えばシベリアンハスキー的な犬種な気がする。そもそも日本に狼はもういないしこんな五匹も狼が放し飼いになってるはずがないしたぶん狼なんて日本で飼おうとしたら条約的な何かに引っかかって飼えるはずが……
「グルルルゥゥ」
「ひっ!?」
あれは狼ですわ。あの迫力は犬っころじゃだせねぇわ。むりむりかたつむりだわ。
オーケーわかった。現実を見よう。ここは俺の家じゃないし、俺が来たことがある場所じゃないし、目の前のあれは狼だ。ついでにTシャツジーパンで靴は履いてて財布もポケットにある。足元には……アスファルトの欠片? 財布があるならよかった。どうにかなりそうだ。
……なるわけねーだろ!
どう見ても今必要なのはいつも日本で出かけるときに必要としていたものじゃない。もっとこう、純粋な暴力的な力だ。金をいくら払ったところで目の前で唸っている畜生どもは引いてくれるとは思えない。
逃げるか?
なるべく狼を警戒しつつちらりと後ろを見る。目の前はどこまでも広がる草原だが、後ろは少し離れたところに森があった。
逃げられはしないだろう。走ったところであっちのほうがずっと速いはずだ。
ならどうする?
……狼たちが近づいてきている。半円を描くように散開しながら、だ。
どう見ても獲物を狩ろうとしているこの状況。
狩るのはお前で、狩られるのは俺だ。
アホなことを考えていても状況は変わらない。むしろ時間をかけるだけ悪くなる。狼との距離的な意味で。
狼を見ながらゆっくりと立ち上がる。警戒を解くとその瞬間に襲い掛かってくるように思えて怖いのだ。
今の距離は十五メートルもないくらいだろうか。
「死にたくないです助けてください」
とりあえずお願いしてみる。怖いから声は大きくない。
しかしきっと聞こえただろう。イヌ科は耳がいいはずだし。
……聞こえたところで逃す気なんてなさそうだけれど。今も唸りながらだんだんと近づいてきてるし。
「仕方ないか」
俺は少しでも恐怖をまぎらわせるために独り言をつぶやく。普段は独り言なんてしないが。
そして俺は後ろに向かって全速前進した。
つまり逃げた。じっとしているより、狼につっこむより、あいつらから逃げたほうがいいと、これが一番生き残れそうだと思ったから。
後ろにあった森に向かってダッシュする。俺が逃げた瞬間に、狼どもも走って追いかけてくるのがわかった。
後ろは見てない。吠え声と気配的にたぶんあいつらもダッシュしてる。
目の前に森が迫る迫る。狼の気配近くなる近くなる。
すぐ後ろに気配がある。怖い。
恐怖に負けて森の手前で後ろを振り返った。狼が飛びかかってくるのが目に入る。
「うわぁぁぁぁあああ!?」
叫び声とともに左腕を払う。
それに狼が噛みついてきた。
「ぃぎああぁ!?」
狼とともに倒れこむ。痛い。どくんどくんいってる。痛いってか辛い。
「はなっ、はなっせ、よ!」
「ギャゥン!?」
狼の鼻を正面からぶん殴ってやった。ざまあみろ。ぐちっという感触が拳に伝わると同時に、狼が飛び跳ねて腕から離れた。
左腕からはじくじくとした痛みが伝わってくる。しかしよくよく見てみると、そこまで深く噛まれていない。皮膚は裂かれているが、筋肉になるあたりまでで止まっているようなくらいの深さだ。ちゃんと指も動く。
俺が倒れたことで今にも飛びかかってこようとしていた狼たちだったが、腕に張り付いていた狼が殴られたことで警戒したらしい。俺の周りを囲んでうろちょろしだした。
そのまま数に任せてごり押ししてしまえばいいのに、と相手のことながら思う。そうすれば俺なんてすぐに殺せるだろうに、と。
狼たちは警戒しているように俺の周りをうろつく。俺も立ち上がって狼に警戒しながらきょろきょろする。
「ガッ」
短い声がした。今までは唸り声しか上げていなかったはずの狼たちの一匹からだ。
見てみると棒のようなものが狼の近くにある。というか刺さってる?
木の枝でも落ちてきたんだろうかと馬鹿なことを考えるがすぐに振り払う。
見えたからだ。
矢羽がついている。つまりあれは矢だ。
「おおーい! 手助けはいるかー?」
森の中から人の声が聞こえた。俺はその音に希望を見出し――――――
「助けてください! お願いします!」
全力で叫んだ。