英雄戦士プロトタイプ版:長定規のブレードはつかえない(前編)
はじめて喧嘩をしたのは小学五年生の九月であった。
それ以来、僕はまともに笑えてない。
僕たちの町に夏が襲来した。僕の嫌いな夏が。
夏のイヤなところは、暑いことを含めていろいろあるが、やはり一番は蒸しかえるようなキツさだろう。雨が明けた次の日の、あの立ちのぼる湯気を全身に浴びたような感じが、たまらなく気に入らないのだ。
七月半ばの教室は、窓側からの太陽光によって照りつけられ、その不快指数を最大限に高めていた。僕はやっとのことで許可の下りた夏服のワイシャツを、第三ボタンまで開けて、風を送り込むように何度も何度も引っぱり、少しでも清涼感を得ようと画策していた。試みはいくらか成功し、ワイシャツは引っ張りに合わせて大きく膨らみ、そしてしぼみ、僕は空気の循環を感じた。
「せくしー」
次に風をおこそうとノートに手をかけたとき、隣から舌足らずで頭の足りない声が聞こえてきた。
「せくしーに決まってるね、きょーいち。幸せそうで何よりだ」
声の方向に目を向けるとそこには少年がいた。
「せくしー?」
「胸元開かせて、かっちょえーってことだよ」
よく見るとそれは女の子だった。さらにいうと知り合いだった。
「……あつい。ただひたすらに暑いからなんだよ美月。そろそろウチの中学もクーラーなり扇風機なりを入れるべきなんだ。北山中は今年から教室も冷房完備になったって聞くのにウチの教員たちはなにをやっているんだよ。あと僕は全然幸せじゃない」
「偉そうだなぁ、きょーいちは。実に上から目線だよ。校長せんせーだって学長せんせーだってその上のせんせーだって、みんな涼しい教室をつくろうと頑張っているんだよ。だから北山の教室にはクーラーがくっついたんじゃん。あときょーいちは十分幸せだよ」
「うるせぇ」とぶっきらぼうに返したら、女の子は笑顔を見せてきやがった。変なやつだ。Mなのだろうか。Mなのだろう。
僕はゆっくりと眼前の少女に目を向ける。
美月瑞樹。
カタカナで書くとミヅキミズキ。ふざけた名前である。初めて聞いたとき僕は駄洒落かと思った。ちなみに今も思っている。
しかしそんな滑稽な名前の少女こそ、さっきから僕の前でぺちゃくちゃといろいろしゃべっている人物の正体であった。美月は僕の数少ない友人であり、小学高学年の頃にひょんなことから親しくなった。このごろ友人をつくらないキャンペーンをしている僕が唯一対象外にしているやつでもある。
「どしたー? ぼぉーっとして。そんなに冷房器具が恋しいのか?」
「…ん。ああ恋しいね。めっちゃ恋しい」
「おー家電萌えだね。きょーいち」
美月は実に女の子らしくない女の子だった。
まずは短く切りそろえられた黒髪。元が綺麗なくせに、面倒だからといって中学に上がってすぐに切ってしまった。あとちょっと切り込めばほとんど男の子と変わりないほどに短い。
次に悩みのなさそうな能天気顔。最近の女子中学生という生き物は、権謀術数に富んだ愛と友情と裏切りの世界を生きているのだと考えていたが、こいつの顔を見ているとそんなものは絵空事であると思わざるをえない。
そして小さいというか短い背格好。要するにチビであり、ミニマムサイズの彼女とスマートで背の高い僕ら学生の抱いている女性像とは真逆の生き物のように感じられる。
観察完了。こいつ実は女の子じゃないんじゃないか。
「なんだよーまさか僕に惚れたのか? 友達じゃ満足できない一線を越えちゃったのかー?」
それにボクっ娘だしな。ついでに僕の前にいることもそれを証明してるしな。
美月は伸びきった声で気持ち悪いことをいっている。僕は無視して顔を机に伏せた。
「ねんなー。ねるんじゃねぇ。どうせ普段、いっつも寝てんだろうから、せめているときぐらいは起きとけー」
うるせぇ、知るか。声がかしましく耳に響く。スルーしてそのまま本当に眠ってやろうかとするがいかんせん暑い。暑さで寝られない。照らし続ける太陽の光も、際限なくにじみでてくる汗も、熱気のこもった汚い教室の空気も、すべて僕の安眠を妨害してくる。もはや熱中症と日射病以外の方法で安眠することはほぼ不可能だ。これだから夏ってやつはよくない。
僕は仕方なく顔を上げた。
「お。起きたね起きたね。ようやく僕の話を聞く気になったのかな。まったくきょーいちはツンデレなんだから。こんな太陽ギラギラの日に居眠りすることなんてできるわけないし、できたとしても、頭クラクラで倒れちゃうゼ」
超ウゼェ……。しかし机にふさぎこんでいることもできないので、僕はため息を吐きながら美月に目線を合わせる。美月の手にはいつの間にか下敷きが装備されており、それをこちらに向かってぱたぱたと扇いでくれた。
「ぱたぱた」
「声に出すな」
なんだか悪いのでこちらもノートで風を送ってやることにする。カバンから先ほどの授業――五限に使った数学ノートを取り出して、美月の前で上下に動かす。
ぱたぱた。ぱたぱた。ぱたぱた。ぱたぱた。
ぱたぱた。ぱたぱた。ぱたぱた。ぱたぱた。
……よくわからないが、翼の生えた緑亀が見えてきた。この夏空のどこかにも呪われた羽根を持つ緑亀がいるのだろうか。
「ふぅー」
「あうー」
結局、お互いがお互いを扇ぐという何だかユニークな構図になってしまった。
「あぁ……あーあーあー……ん。あーあああーああ。ん……あぁあ」
風を受け取った美月は、目を細めて気持ちよさそうに身を涼風にゆだね、喘ぎ声を上げている。しかし不思議とその様子には官能的な要素が見られず(要するにエロくないということだ)、僕には小動物を愛でるときような妙な優しさが湧いてくるだけであった。
「……ぁあ。こーやって助け合って涼しくなるとねー。癒されてなんだかいい気持ちになれるんだよー……ん」美月がとろんとした目でいってくる。「優しさってーのは押し付けた者勝ちだからねぇー。与えた方も与えられたほうも大体幸せになれるからね……んん」
だそうだ。美月は土台基本が馬鹿なのに、どこかしら達観しているところもある。それ故に僕の理解を大きく超えていくのだ。
「んーだけどな。僕、最近は友達を作らないようにしてるしな」
「んぁ……っと。えーっと、友達ゼロ人計画だっけ?」
「いや別にゼロってわけじゃないけどな……」
友人をつくらないキャンペーン。目標は友人をつくらないこと。目的は特になし。動機や理由を聞かれるなんてのは警察の取調べや国語の問題で十分だ。
「しっかし、ネゲティブな企画だねぇ。それ。僕が含まれていないようなのは心嬉しい限りだけどさ」
美月は「ネガティブ」を苦虫を噛み潰したような感じに発音した。美月は英語が苦手だ。しかし美月自身は国際人になりたがっている。つまりは難儀な話ということだ。
「ふん。どうせお前は僕が嫌がったところで勝手に話しかけてくるだろ。だからいいんだよ。別にお前は対象者にいれなくても」
「ふふっ、やっぱ僕は規格外な生き物だからねー」
両腕をくるくると回し満面の笑みを見せる。「それともやっぱあれかな? 僕は常識になんか捉われない人物だって事なのかな?」いい顔してやがる。どうしてこんな顔ができるんだ。
「はぁ……どっちにしろ僕の価値基準からは超越された生き物だよ。お前は」
僕は呆れたようにため息を吐く。息が生ぬるい。冬に温かくなる息は何で夏には冷たくならないのだろう。
「むぅ。どうしたのさ、きょーいち。こんないい天気なのにだらーんとした感じになって」
「別に……」
……いい天気ねえ。
真夏の陽光は惜しむことなく教室を熱し続ける。熱せられた教室はサウナどころでなく、もはやまるでオーブンレンジの中のようだ。大気中の水蒸気は太陽熱をどんどん取り込み、教室をスチームオーブンへと変貌させる。
そして僕は、太陽のせいでボイルになったクラスメイトたちの姿を思い浮かべる。妄想する。
そこではクラスメイトたちはみんな苦しそうにうめき声を上げて床に倒れていた。最新のスチームオーブンは高温の加熱水蒸気を使って無駄のない焼き上げが可能なのだ。崩れ落ちるように倒れる倒れるクラスメイトたち。何かに救いを求めているのか手だけは天井に向けて高く伸ばされている。しかし救いはこない。絶対にこない。床に全身をつけた人たちは少しだけラクそうな顔をしていた。床はひんやりしているから幸せなのだ。しかし僕はその床がそこ抜けになっていて、床に密着していたみんなが落下してしまうことを想像してしまう。だらだらとクラスメイトたちが壊れたフィギュアみたいに落ちていく光景が脳の網膜に生まれる。クラスメイトたちの顔と形は見えない。何だかぼやけてホントに人形みたいだ。
そしてそこには僕と美月の姿はなかった。
「元気だしなよ、きょーいち。いっつもテンションが低いきょーいちだけど、今日はまた一段とアンニョイな気分みたいだよ」
「アンニョイ」
「え?」
僕はアンニュイの誤謬を繰り返した。美月は横文字を多用する傾向がある。そして同じくらいスペリングミスをする。
「えっ。あ、あああー。アン。アンアン……アン?」
「アンニョイ」
再び僕は繰り返した。
ちなみにアンニュイとは:【ennui フランス】心が晴れず、けだるいこと。倦怠。
――広辞苑第六版より引用である。ニュアンス通り英語ではないのだ。
「あ、あーあーあーあん。アンニョ………あん。あん……にょ。ニョ。ニョン。ニョ。ニョロ――」
「にょろーん?」
「ニョ? む。んんんんん?」
何だか馬鹿ぽかった。しかし混乱している美月を見ていると何だか和む。胸の奥の嫌な部分がすぅーと消えて、爽やか気分になって、夏の不快感が少しは薄れた気がした。どうせ日射しから来る暑さは変わらないのだろうけれど、暑さから生まれたあの気持ちの悪いしめっぽさはなくなってきたように感じた。
あれ。もしかして癒されてる? 美月に?
わからない。まあそれでもいいか。
気分をよくした僕は、そろそろ美月の話を聞いてやろうと、いまだ「アンニュイ」の言葉探しを続ける馬鹿に視線を向ける。
「おい美月。今日は何か用事があってきたんだろ。そろそろ本題に入れよ」
「にゅ?」
「どこの萌キャラだよてめぇは……」
僕は拳を強く固める。
「うーん、残念ながら僕は萌キャラではないね。しいてあげるならば燃えキャラ……かな?」
美月は僕のつっこみを気にすることなく、どこからか取り出した長定規で素振りをする。長定規は長定規であるくせに風の如く軽やかに、縦一閃に切り込みをいれる。長定規は空を切り、鋭い音をたてる。
「どうだい、きょーいち。カッコよかったかい?」
こちらを振り向く美月のいい顔。しかたなしに僕は首だけ動かし頷いておいた。美月はそれだけで満足だったらしく冬の日射しのような笑顔を見せる。
「さてさて。それにしても凄いね、きょーいちは。僕が何かしらの用件をもってここまで来たことを、すでに予測しているんだなんて」
「ふん。いくらなんでもお前みたいなやつが、わざわざこの場所までやってくるのなら何か相応の理由があると考えて当然だろ」
「ははぁ。それもそうだね」
そうだよ。いくらなんでも、こんなむせかえるような場所にお前は似つかわしくない。
生徒たちの汗が蒸発し、その匂いが充満して密集して凝り固まったような、そんな空間に居るべきじゃない。
さっき横を通ったクラスメイトが不審そうな目で美月の学ランを見ていた。
学ランを訝しんだのか、それとも美月にのことに勘付いたのか、おそらくそのどちらかだろう。僕が他人と話しているという光景も十分怪しがる理由にはなるが、流石に僕自身の名誉というか、なけなしのプライドのために候補に挙げるのは止めておく。
さて、どちらにしろ長居は無用だ。――帰るか。
「それじゃあ、さっさと帰るぞ。案件は帰り道で聞く。いいよな?」
「さー。いえっさー」
美月の敬礼に合わせるようにして、それから美月を隠しつつ校内を歩き、外に出て校門を目指す。
外は日射しが強いが、蒸したキツさは存在しない。そこが一番の救いだ。
斜め後ろからひょこひょこついてきている美月の黒頭を見て、やはり早めに出てきて正解だと僕は思う。あの教室に残りすぎないでよかった。確かにこれは自意識過剰な思い込みというか、ある種エゴに近いものかもしれない。――いや。もやはエゴ以外の何物でもないのだろう。自己満足の自己療養。自分勝手で、独善的で、独りよがりの無頼な行動であるといえる。
けれど。それでも僕の教室から美月を連れ出したのはある意味、そうすべき正しいことだったのではないかと考える。然るべき者は然るべき所へ。だって、そうだろ。やっぱ道徳的にも倫理的にもまずいじゃんか。美月がいくらボクっ娘だからって。黒髪ショートだからって。
――男子中学に女の子を居させ続けるってのは。
「ん? どーしたの?」
「いや……」
どうして美月はわざわざ僕の学校にまで訪問してきたのだろうか。しかも、こんな教室に突然現れる形で。
友達を作らないことを信条に掲げている僕が、本当に交友関係を遮断していることをわざわざ確かめにきたのか。ただ単純に何となく気の向くままに僕のとこへ遊びに来たのか。――本当に大切な用事があるのか。
「んん? どーしたのさ?」
「……いや」
やめよう。別にいいじゃないか。この帰り道ゆっくりと聞けばいいさ。そうしよう。
僕たちは校門の前をくぐる。ここでは夏の太陽も、汚らしい教室にいた時と異なり、燦然と輝いている。暑くはあり日射しは強くて目がかすむが、そこまで悪いわけではない。酷くはない。好きにはなれないけど。好きではないだけだ。
もうすぐ僕たちは門をくぐりきる。横には美月がいる。出たらとりあえずまずは美月の着ている暑そうな学ランを脱がせることから始めよう。もう夏服の時期だというのにこの馬鹿は。まったく。もう。
僕たちは門をくぐりきった。
そして僕の嫌いなものが一つ減った。