第5話 半年後
結局、湊と奏はマーズの家に住むことになった。簡単に言えば、居候である。
マーズは基本的に自給自足で生活している。家の隣にある畑で野菜をつくったりして、それを食べている。たまに、森に手製の罠を仕掛けて動物を捕まえて、肉を確保することもある。調味料などは森を抜けたところにある町で調達する。水は近くの川からバケツで汲み出して、家にある水溜めの容器に入れている。これは1日に何往復もする重労働。
1人だけでも大変な自給自足生活に、成長真っ盛りな2人の高校生が参加してくるのである。それぞれ役割分担をして、マーズの手伝いをすることになる。最初の頃は色々と問題が発生したが、半年も経てば問題も解消されていった。
マーズの家の構造は1階の1部屋と屋根裏だけだ。1階はキッチンなどがある普段の生活で過ごす場所で、屋根裏は睡眠を取るためのスペースとなっている。布団の数はが普段使用しているのが1枚と予備で1枚の合計2枚。必然的に桐宮兄妹は予備の方を使うことになる。
このことに、奏は一緒の布団に寝ることに満面の笑みを浮かべ、反対に湊は苦笑いだったという。
◇◆◇◆◇◆◇◆
異世界に来て半年後。
「はッ!」
「ッ!」
マーズの家の前に湊と奏はいた。
毎朝恒例となっているランニングを終え、元の世界では休みの日しかできない“組み手”をやっていた。
桐宮流武闘術。
特別な流派でもないが、桐宮家の祖先から伝わっている流派だ。戦闘向きの流派で、祖父が師を務める道場で鍛練する湊と奏は、はっきり言って強い。
湊は幼少の頃からやっていて、例え不良十数人に囲まれたとしても、素手で余裕で勝てるほどに強い。
奏は女の子ということもあって、護身用程度に基礎を固めて鍛練を止めてしまっていた。しかし『1年前の事件』から奏は再び鍛練を始めている。今では不良数人なら倒せるほどに強くなっている。
ところが、異世界に来てしまい質不足な鍛練になりがちになっている。場所は道場でもないし、2人の師である祖父もいない。だから、できるだけ腕が落ちないように気をつけて、毎日欠かさず鍛練をしている。休みの日しかできなかった組み手は毎日やるようにしていた。
ちなみに、異世界に来た初日に湊がマーズの突き出した棒を避けて反撃できたのは、これが理由だったりする。
「お、やっておるのう」
湊たちが互いに攻撃を繰り出しながら防御する組み手をやっている最中に、屋根裏から降りて来たマーズ。組み手をしている湊はマーズの方にちらりと見る。一方の奏はマーズが来たことに気付いていない。それだけ、組み手に集中していると言える。
そして、激しい攻防の末、湊の拳が奏の胸の前で止められる。拳を止めたのは、奏ではなく湊本人だった。所謂、寸止めというやつだ。
「とりあえずは、これくらいか」
「はぁ、はぁ………すいません、また兄さんの手を止められなくて」
湊の言葉に奏が肩を上下させながら答えた。奏が息切れしているのは仕方ない。湊は幼少の頃から鍛練を続けているため、湊と奏では力量が違ってきてしまう。そのため、組み手をするときは湊が手加減をしながら奏をやることになる。さらに、湊が幼少から鍛練を続けているため、体力が奏より遥か上というのも理由になる。
「謝らなくていいって。むしろ、よくついて来た方だと思うぞ。前に比べたら、長く出来るようになってるから、奏の腕が上達している証拠だ」
「ありがとうございます。でも、まだまだです。兄さんには遠くに及びませんし、何よりこれは兄さんの鍛練になっていませんし」
これほど奏が息切れしている鍛練でも、湊にとっては準備運動に過ぎない。
「俺と奏では、鍛練に費やしている時間も熟練度は違うわけだからな。それは仕方ない」
「なら、私は兄さんを目標に鍛練するのみです」
奏が腰を低くして構えた。
「ほどほどにな。妹に抜かれた日には、兄としてのプライドがズタボロになっちまう」
奏の言葉に苦笑いしながら返すと、湊も奏と同じように構える。
これから湊たちがやろうとするのは、超能力を使った鍛練。
そう。2人は超能力者だ。何の因果かは分からないが、異世界に来て1週間で超能力が発現したのである。それから半年の間、超能力の制御や応用に時間を費やした。最初の頃は四苦八苦しながらだったが、今では完全に超能力を制御下に置いている。
「いつも通りにやるから、ちゃんと受け止めろよ」
「はい」
奏の返事した直後に湊の姿が掻き消えた。突如、奏の周りの砂塵が吹き荒れ始める。やがて、奏を中心に小さな竜巻とも呼べる代物ができる。その中心にいる奏は構え始めてからピクリとも動かずに、この竜巻をつくる兄からのサインを“肌で感じる”べく全身の神経を研ぎ澄ましていた。
「……ッ!」
姿が視認できないほどの速さで自分の周囲を走り回る湊からのサインを感じ取った奏は身体の向きをサインが発せられた方向に変える。同時に両手で前に突き出して衝撃を受け止めるような態勢を取る。その一瞬後に両手に衝撃が来るのを感じた。彼女が超能力を使っていなければとても耐えられない衝撃を顔色一つ変えず受け止める。その直後に、またサインが別方向から発せられる。それに応じて奏も身体の向きを変える。
そんなやり取りが5分間ぶっ通しで続けられた。最後は体力が無くなった奏がサインを感じるも、直後に襲いかかる衝撃に身体の向きを変える動作が間に合わず両手ではなく身体で受け止める形で終わった。超能力を使っているため、衝撃で吹っ飛ぶことはない。
「はぁ……はぁ……はぁ………」
今ので息も絶え絶えになった奏はその場で座り込んでしまう。そして、いつの間にか消え去っていた竜巻の代わりに、先程姿が消えた湊が姿を現していた。座り込んでしまった奏を心配するように、湊も腰を下ろして奏の状態を伺う。
「大丈夫か?ここの後始末は俺がやっとくから、川に行って汗を洗い流してきた方がいい」
湊たちの周りの地面は踏み込みなどで抉れてしまい、凹凸が激しくなっている。鍛練した後は毎回こんな惨状になり、前々からマーズから元に戻すように言われている。
「はぁ……はぁ……はぁ………はい、分かりました」
了解した奏は立ち上がろうとするが、足がガクガクの状態で立つことすらままならない。それを見湊が奏の手を引っ張り、フワリとその身体を空中に浮き上がらせて自由落下で落ちてくる奏を両手で柔らかく受け止めた。湊にお姫様抱っこをされた奏は鍛練で火照った顔を別の意味で真っ赤にさせる。
「な、ななな………っ!」
「その足で滝まで歩くのは大変だろ。川まで送ってやるよ。婆さん、ちょっと行ってくる」
前半は奏に向けた言葉で、後半は端から鍛練を見ていたマーズに向けた言葉だ。
「了解した。早く帰って来るんじゃぞ。いつまでも地面をこのままにされるのは迷惑じゃからのう」
「分かった」
湊はマーズに了解を得ると、自分の能力を使って地面を蹴った。一瞬のうちにしてマーズの前から姿が消えるが、
「もっと地面を抉ってどうする。困るのはお前じゃぞ」
湊たちが去った跡に鍛練のときより大きく抉れている。それを見たマーズが誰の耳に届くわけもなく呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
奏をお姫様抱っこしている湊は近くの川に向かっていた。その川は腰くらいまでの水深しかなく流れは緩やか。大雨などで川の水の量が増えない限り、人が流されることはない。
毎日の鍛練で汗をかく湊と奏はこの川で身体をを洗い流していた。理由は、マーズの家に水道もガスも電気も通っていないからだ。調理は火を起こしてやる。
そんなことはさておき。
今の奏は酷く焦っている。大好きな兄にお姫様抱っこをしてもらいながら森の中を颯爽と駆け抜ける。奏にとっては夢心地のような状況だ。
自分が汗くさくなければの話だが。
鍛練をした後は必ず汗をかいてしまうため、奏はいち早く汗を流すようにしている。湊に嗅がせないためだ。しかし、今日は足が歩けないほどまで疲労が激しいために、湊に運んでもらっているわけだ。もちろん、奏が汗くさくても湊が性格上何も言わなし、嫌な顔をしないのは知っている。
それでも、汗くさい姿を知られたくない、というのは乙女心というやつだった。
と、奏はここまで考えてみるが、現状は何も変わらない。ここで意地を張って「降ろして」と言っても、湊が聞き入れるはずがないし、自分が望んでないのは分かっていた。
結論、何も考えずこのまま夢心地の気分に浸ろう、ということになった。
「どうした、奏?急に顔がニヤけて」
「な、何でもありません!」
思考することを止めたために、感情が顔に出たのだろう。
顔がさらに赤くなるのが分かる。
そして、夢心地に浸ること数分。
川に着いた湊は川岸まで行き、足だけが川に浸かる形で奏の身体を降ろした。
この時の奏は名残惜しそうな顔をしていた。
「それじゃ、俺は片付けをしてくるから」
「はい、兄さん、ありがとうございます」
奏は素直に礼を言った。
湊はそれを聞くと、来た道を跳んで戻って行った。
「さてと………」
奏は川に浸かっている足から水の冷たさを感じながら、汗が染み込んでいる服や下着もその場で脱ぎ始める。
服はマーズが町で買ってきてくれたものだ。世界が違えど服というのは同じものだった。異世界初日に着ていた制服は綺麗に風呂敷包みされて屋根裏に置かれている。
服と下着を脱ぎ終わり、奏は裸体の姿になる。その姿は可憐で美しいと言える。白い肌は後ろを流れる長い黒髪でいっそう引き立てられ、出るところは出ている。
つまるところ、美少女だ。
ただ、奏はこの身体を恨めしくも思っている。この身体のせいで大嫌いな『アレ』がいやらしい目で見てくるからである。その度に、背筋に悪寒を走らせる。いっそのこと性転換の手術をすれば、いやらしい目も無くなるのでは、と考えていたこともあった。その考えは一瞬で打ち消されたが。自分が『アレ』と一緒になるのは嫌だった。そして何より、大好きな兄が自分を『女』として見てくれなくなるから。性転換して『その道』に走らせる手段もあるが、それはそれで嫌だった。
「ふぅ………」
川の真ん中まで足を進めた奏はパシャバシャと手で水を掬いながら身体にかけて汗を流す。いきなり、冷たい水の中に入ると風邪を引いてしまう。
今では習慣になっているが、最初の頃は大自然の中で裸になるのに抵抗があった。誰も見ていないとは言え、羞恥心が半端なくあった。しかし、その羞恥心を捨てないと身体の汚れも落とせないので、自分の中で割り切ることにしている。
だいたいの汗が流れ落ちたところで奏は川から上がることにした。川岸に奏の濡れた髪から水の雫が滴り落ちる。
上半身を川岸に上がらせたところで、ある重大なことに気付いた。
「着替えがない………」
奏は絶望しきった声でそう呟いた。