第1話 いつもの朝
朝5時。
桐宮湊は自分のベッドの上で目を覚ました。
まだ完全に目を覚ましていない身体を起こすために、両手を上に上げてぐぐっと背を大きく反らす。
寝巻からランニングウェアと短パンに着替えて部屋を出た。
「あ、兄さん、おはようございます」
声がした方を見れば、湊と同じタイミングで部屋を出たのか、1つ歳下の妹の奏がいた。奏もランニングウェアと短パンを着ている。
「奏、おはよう」
それだけの言葉を交わすと、階段を降りて玄関に向かった。
靴紐を結び、地面につま先をとんとんと叩いて靴を履いた。
まだ太陽が昇ったばかりの外に出て、いつものランニングコースを走り始める。
「今日は風が気持ちいいですね」
そう言う奏の長い黒髪が後ろに流れる。
「ああ、そうだな」
その後の2人は黙って走り始めた。
途中で、朝のランニングをする女性とすれ違う。
いつも通りの兄妹のランニング。
ランニングコースを走り終わった2人は家に着く。
「今日は1人もすれ違わなかったな」
「そうですね。本当によかったです」
ランニング後のこの会話もいつもの日常。
◇◆◇◆◇◆◇◆
湊はランニングでかいた汗をシャワーで落とし、制服を着てリビングに向かう。先に浴びている奏と寝癖なのか髪がはねている母親が朝食をつくっている。
女性2人が料理をつくっていては、男の出る幕はないので、食器棚から箸やコップなどを出して席につく。
10分後くらいには、テーブルの上には和食が並んだ。
湊と奏はそれらを手早く食べて、学校の支度を始めた。とは言っても、荷物を確認するだけなのだが。
電車の時間には充分に間に合う時間に玄関にいるの2人はそれぞれ荷物を持つ。
母親は寝癖ではねた髪と格闘中。
「それじゃあ、兄さん。行きましょうか」
「そうだな。今の時間なら電車には間に合う」
「そ、それで……あの………いいですか?」
普通なら訳のわからない日本語だが、生憎とその言葉を向けられている湊は奏の言いたいことと顔を赤くしている理由がわかっていた。
湊は小さく微笑むと、右手を差し出す。
「はぅ……っ」
その微笑みだけで顔を真っ赤にしてしまうのに、さらにその右腕を出す意味で、奏の顔はもう噴火寸前だった。
しかし、間違ってはいけないのは、湊が出したのは右手であって右腕ではないということ。
我慢し切れないといった感じで奏が湊の右腕に飛びつく。
飛びつかれた湊は、右腕じゃなくて右手なんだが………、と思っているが右腕にピタリと身体を張り付ける奏を今更どうすることもできない。
「奏、いつかは慣れてくれよ。いつまでもこういうことはできないんだから」
「無理ですよ。『アレ』は私の天敵なんですから」
「そんなんじゃ、社会で生きていけないぞ。ホントに真剣な意味で」
「じゃあ『アレ』が絶対に関わらない仕事に就きます」
「奏が言う『アレ』がいない職場なんてそうそうないと思うんだが」
「うっ………あ、ありますよ……」
「例えば?」
「そ、それは………とにかく世界のどこかにはあるはずです!」
「そんな夢のような仕事が見つかるといいな。無理だと思うけど」
「うう〜じゃあ、仕事しません。私は専業主婦になります………はうっ」
自分で口走った言葉から何を想像したのか、奏の顔が赤くなる。
ここで「誰の専業主婦なんだ?」なんて野暮な質問はしない。返って来る答えは1つに決まっている。
それに、
「も、もちろんに、兄さんの専業主婦という意味ですよ」
質問する前に答えが返って来るからだ。
顔を真っ赤にしながら告白する奏に、湊は小さくため息をついた。
「俺以外の専業主婦になるつもりはないのか?」
「ありません。兄さん以外の専業主婦なんて有り得ませんよ」
「……一応、言っとくが、俺は『アレ』なんだぞ?」
「兄さんは例外です」
にっこり笑顔で言う奏。
これをされてしまっては、湊に返せる言葉はない。
その後、2人はドアを開けて外に出た。
◇◆◇◆◇◆◇◆
端から見れば、湊と奏が歩く姿は恋人同士のように見える。女性の方が男性の右腕に抱き着くようにしているのだから当たり前である。
朝っぱらから見せつける2人は周囲から少なからず視線を集めるだろう。
しかし、お化け屋敷の中を歩くように、彼女の方が恐怖で顔を歪ませながら歩いていたらどうだろうか?
「兄さん………」
両目に涙を潤ませた奏が上目使いで自分の兄を見る。
世の中の男性ならくらっとくるような攻撃だが、毎朝それをやられている湊は既に耐性ができている。
「我慢だ。耐えるんだ、奏」
「む、無理です………うきゃうっ!?ににに、兄さん!!後ろから『アレ』がこっちを見ましたよ!!確実に見ました!!背筋がゾォッと寒気が走りました!!」
恐怖で泣き叫ぶ寸前の奏が密着している身体をさらに右腕に密着させた。
右腕から2つの膨らみが押し付けられる感覚が伝わってくるが、これも毎朝のことで湊には耐性ができている。
湊としては、やんわりとそのことを指摘して、奏を引き離したいが、そういうわけにはいかない。引き離したら引き離したで、状況は悪化するだけ。
「もうすぐで駅だ。駅に着いたら舞もいるから、それまで我慢しよう。駅まで我慢したら記録更新だ」
「ははは、はい………!」
湊の声援に少しだけ落ち着きを取り戻す奏は絶対に放すもんかとぎゅっと右腕を強く抱き締める。
もう、ミシミシ、という静かな音が右腕から鳴っていうほどに。
人が命の危険になるときに発揮する力は通常の何倍にもなる。今の奏もその例に含まれる。
一方、自分の右腕から危険信号が発せられていることに気付いた湊は、どうすることもできずに冷や汗を垂らすだけだった。
本当なら奏に言って、右腕の危険を取り除きたいが、当の本人が、1つのゴールである駅から視線を外さないで「私は大丈夫、私には兄さんがいる、私は………」と呪文のように呟き続けてやっと平静を保っている。もし、声をかけて、その平静を崩したときには、大惨事になることが予想できる。
だから、今の湊は日々鍛えている自分の右腕の耐久力を信じるしかなかった。
そんな状態が続くこと50メートル。
いよいよ、湊の右腕から、ミシミシミシミシ、と鳴る音が大きくなってきた。
自身の右腕のあと僅かな寿命を感じた湊は冷や汗を垂らす。対して、奏は相変わらず呪文のように呟き続けて自身の平静を保っている。
そんな時。
100メートル先にいた『アレ』が何気なしに後ろを振り向いた。
しかも、偶然なのか不幸なのか『アレ』は奏の視線上にいた。
次の瞬間、奏の身体を恐怖が支配した。
もちろん、奏を隣を歩く湊が100メートル先にいる『アレ』が後ろを振り向く姿など見えるわけがなかった。普通の人間ならまず見えない。
奏は『アレ』が後ろを振り向いたことを本能的に感じ取ったのだ。
そして、恐怖に身体を支配された奏が次の行動するのは簡単だった。
兄の胸に飛び込んで泣く。
「う、う……うっ……うっ………」
歩みを止めて、自分の胸で涙を流す奏の頭の上に手を乗せた湊は左右に手を動かして慰める。
今では泣いているが、これでもマシな方だ。1年前は失神までしていたのだから、充分に成長したと言える。
「今日もよく頑張った。駅に着くまでこのままでいいからな」
「はい………」
その言葉に安心したのか、奏は両腕を湊の身体に回してぎゅっと抱き締める。自身の体重も預けた。
抱きつかれた湊は奏のサラサラの長い髪を何度も撫でて安心させる。
これもいつもの日課。
だから、周囲の人間から、湊は周りから彼女を泣かせた彼氏、というレッテルを毎朝貼られている。
「いやー相変わらず恋人気分満喫の2人ですねー」
駅に着くと、2人の前に奏の同じくらい背で短い茶髪をした女の子が現れた。
「舞か」
「おはようございます、先輩」
三条舞は、奏と同じ高校1年生で同じクラスメート。
ちなみに、湊は高校3年生、奏は高校1年生だ。
「あ……舞」
ここで兄の胸から顔を離した奏が舞の存在に気付いた。
「奏、大丈夫?」
舞が心配そうに奏に聞いた。
「まだ胸がドキドキしてるけど、なんとか大丈夫です。兄さんのおかげでだいぶ落ち着きましたし」
「ふ〜ん、その胸のドキドキは『アレ』のせいでのドキドキなのか、先輩に引っ付いてのドキドキなのか、どっちなんだろうね?」
「そ、それは………」
両手を前でもじもじしながら、ちらっと横目で湊の方を見る。
「うん?」
ちらっと視線を向けただけなのに、奏と湊の目があった。
「はう……っ」
瞬時に顔を真っ赤にする奏。
舞はそんな様子を見て、やれやれと手を広げて左右に首を振る。
「はいはい、ごちそうさま。奏がどれだけ自分の兄のことを好きなのかがよくわかるよ」
舞の言葉に奏がまた顔が赤くなる。
「さて、そろそろホームに行きましょう。もうすぐ電車が来るはずです」
舞を先頭に3人は改札口を抜けた。
これが桐宮兄妹のいつもの朝である。