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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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8/17

第8話 月曜日の朝は、いつもより五分早い

土曜日と日曜日の間、俺は、ほとんど、自分の部屋から出なかった。


正確には、土曜の朝に一回、気分転換にコンビニまでサンドイッチを買いに行った。それ以外は、ずっと机の前にいた。

机の前にいて、ヘッドホンをして、DAWの画面を眺めて、ときどき指を動かして、ときどき指を止めた。


金曜日の夜に作った、まだ名前のついていないプロジェクトファイル。そのファイルのいちばん上のメモ欄に、自分が無意識に「学校一の、」と書きかけていたこと。


その「、」の続きを、土曜と日曜の二日間で、俺は、一度も書かなかった。

書かなかった代わりに、その「、」を見るたびに机に肘をついて、しばらく画面の白い余白を眺めていた。


それがたぶん、ここ二日間の、俺のいちばん長い「作業」だった。


——いままでなら、新曲のタイトルなんて、思いついた瞬間に、勢いで全部書いてしまっていた。書いてしまえば、もう後戻りはできない、というつもりで書いていた。


なのに、今回は書けなかった。


書けなかったのは、たぶんその続きを書いた瞬間、自分が「もう少しだけ、知ってもいいかもしれない」と決めた。あの金曜の夜の一行をちゃんと行動に移してしまうことになる。と、わかっていたからだ。


俺は土曜の夜と日曜の昼と日曜の深夜と合計で三回、「学校一の、」のあとにシャープペンを置きかけて置かなかった。三回目に置かなかったとき、ようやく自分は月曜日の朝のことを考え始めた。



月曜日の朝、俺は目覚ましの五分前に目が覚めた。


そんなこと、たぶん高校に入ってから一度もなかった。俺は基本的に目覚ましが三回鳴ってから、ようやく起きる人間だ。


起き抜けに天井を見上げながら、しばらく自分の心臓の音を聴いていた。

心臓は、いつもより少しだけ速かった。


——あ、これ、緊張してる。


二日ぶりに会う、ただのクラスメイトに。ただのクラスメイトに対して、人間はこんなに緊張するものか。

俺はもう一度、目を閉じて、深呼吸を一度吐いた。


それから起き上がって、いつもより五分、早く家を出た。




通学路の途中、コンビニの前を通り過ぎたあたりで、後ろから自転車のブレーキの音がした。


「藤宮」

「……黒澤」


凛だった。


黒い自転車の前カゴに、こげ茶色の通学カバンを乱暴に放り込んで、サドルから片足を地面につけている。短いボーイッシュな黒髪がヘルメットを脱いだ直後らしく、後頭部のあたりだけ、わずかに乱れていた。


「早いね、今日」

「……たまたま」

「たまたまの顔じゃない」

「黒澤の判定、いつもキビしいな」

「正確って言ってよ」


凛は自転車を降りずに片足だけ地面につけたまま。俺の隣をゆっくり並走するように、ペダルに軽く足を乗せた。


朝の住宅街は、月曜日特有の少し疲れた色をしていた。家を出るのが面倒な大人と家を出るのが面倒な学生の両方の足音が、まばらに混ざっている。


「土日、籠もってたでしょ」

「……まあ」

「新曲?」

「……書きかけ」

「書きかけ?」

「タイトルだけ、決まりかけてる」

「ふうん」


凛は、それ以上聞かなかった。


聞かなかったのは、たぶんいつもみたいに「タイトル、なに?」と聞いたら、俺がすぐに答えないだろうと、わかっていたからだ。


代わりに彼女は、別のことを聞いてきた。


「七瀬さんとは土日、なんかあった?」

「……ない」

「ほんとに?」

「会ってない、連絡先も知らない、向こうから来た接触もない」

「丁寧に否定するね」

「うるさい」

「丁寧に否定したいときって、だいたい自分の中で、なにか動いてるときだよ、藤宮」


凛はペダルを軽く、一回踏み込んだ。

自転車のタイヤが、ゆっくり半メートルだけ前に出る。


そして、半メートルだけ前に出たところで、彼女は、振り返らずにこう言った。


「藤宮」

「……ん」

「今日たぶん、七瀬さん、お前のこと待ってるよ」

「……なんで」

「金曜の最後のあれ、女子のほうが、ぜったい引きずってる」

「……『ハンカチ、落としてなかった?』」

「うん。あれ、向こうのほうが絶対に土日の間、頭抱えてる」

「……」

「だから今日の朝、絶対にいつもよりこっち見てくる」

「……根拠は」

「黒澤凛、藤宮陽人観察員兼、七瀬ひかり観察員」

「いつのまに兼任した」

「先週の金曜から」


凛は、ようやく肩越しに振り返った。

朝の白い光の中で彼女の短い髪の毛先が、ちょっとだけ笑っているみたいに跳ねていた。


「で、藤宮」

「……」

「お前は今日、向こうにこっち見られたら、どうすんの?」


——どうするんだろう。


俺は、答えなかった。

答えなかったのを、凛は、たぶん、ちゃんと見ていた。


見ていて、何も言わずに自転車のペダルをもう一度、踏み込んで先に行ってしまった。


「先、行ってる」

「……ああ」

「『誰にも知られなくていい』の前提、まだ、生きてんのか、死んでんのか、今日、はっきりさせとけよ」


そう置いていって、凛は朝の住宅街のゆるい坂道の向こうに消えていった。


俺は、彼女のいなくなった坂道の途中で、しばらく立ち止まっていた。

立ち止まって、ポケットのスマホを取り出した。


取り出して、ヨルのアカウントの、フォロー欄を開いた。


@yoru_no_hikariは、まだ、そこにいた。

プロフィールには、金曜日の夜に追記されたあの一文が土日の間に消えることなく、ずっと残っていた。


————

「ヨルさんは、わたしの夜を、終わらせてくれた人。」

————


土曜と日曜の二日間で、何回このプロフィールを開いたか、もう覚えていない。

開いて、見て、閉じて、また開いて。

そのたびに、この一文は消えなかった。


消えないことを確認するために開いていたのか、消えていてほしくて開いていたのか、自分でも、わからない。


——わからないまま、月曜日が来た。


俺はスマホをポケットに戻して、坂道をまた歩き始めた。

いつもより五分早く家を出たはずなのに、心臓の鼓動だけが、いつもの月曜の朝より二段階くらい早かった。



教室に着いたとき、教室にはまだ半分くらいしか人が来ていなかった。


俺は、いつも通りいちばん後ろ、エアコンの真下、廊下側の自分の席にゆっくり座った。


カバンを机の横にかけ、ペンケースを出し、ノートを出し、教科書を机の中の決まった位置にしまった。


それから、なにげなく教室の前のほうへ、視線を滑らせた。


窓側から三番目、いちばん明るい場所。


——七瀬ひかりは、もう、来ていた。


来ていたけれど。


いつもの七瀬ひかりとは、何かが違っていた。


「違っていた」と、すぐに言葉にできるくらい、はっきりと違っていた。


まず、髪型がいつもと違った。

普段、栗色のセミロングを下ろしている彼女が、今日は、低い位置で、ゆるくひとつに結んでいた。

うなじが、見えていた。

教室の蛍光灯の白い光のなかで、その細い首筋が、なぜか、いつもより、ずっと、白く、見えた。


次に、表情が、違った。

いつもなら、教室に入った瞬間に、女子三人と笑い合っているはずの彼女が、今日は、自分の席でひとり、ぼんやり、机の上の何もないところを、見つめていた。


口元は、笑っていなかった。

かといって、悲しそうでも、なかった。

ただ、「教室の七瀬ひかり」を起動する前の、スイッチを入れ忘れた電化製品のような、まっさらな顔だった。


たぶん、その顔は、誰にも見せていない顔だった。たまたま、誰もまだ、彼女の周りに来ていなかったから、消し忘れているだけの、顔。


俺は、息を、軽く吐いた。


吐いた瞬間、ひかりが、ふっ、と視線を上げた。


そして、教室の対角線のいちばん端まで、その視線を、まっすぐに、伸ばした。


俺と、目が、合った。


合った瞬間、ひかりは、ぱっ、と、いつもの八十パーセントの笑顔を、起動しようとした。しようとして、たぶん、起動しきれなかった。


口角は、上がりかけて、途中で、止まった。

そのまま、彼女は、ほんの一瞬、自分の口元のほうに、軽く、左手を、添えた。


それは、教室の七瀬ひかりが、こちらに見せる仕草では、たぶん、なかった。


ひかりの口元を覆った、左手の指先のあたりが、ほんの一瞬だけ、震えたように、見えた。


——「やべ」って、思っただろ、いま。


俺は、心の中で、彼女に、小さく、語りかけた。語りかけながら、自分でも気づいた。


たぶん、いま、俺も、同じ顔を、している。「やべ」って、思った顔。

土日のあいだ、ずっと、「学校一の、」のあとを書けなかった顔。


教室の七瀬ひかりと、いちばん暗い席の藤宮陽人の二人が、月曜日の朝、教室の対角線のいちばん端と端で、互いに、まったく同じ顔を、していた。


それを、たぶん、ふたりとも、相手に、気づかれてしまっていた。


ひかりは、もう一度慌てたように、視線を自分のノートのほうへ落とした。落としたノートの上で、彼女のシャープペンが、なにかを書こうとして、結局、なにも書かずに、止まった。


俺は、自分の机のスマホをポケットにしまった。しまわなくても、今は画面を開きたくなかった。

ヨルの通知を、見たくなかった。


なぜなら、いま、教室の対角線の向こうにいる、あのうなじの白い女の子は、たぶん、ヨルのフォロワー十二万人のうちの、一人、なんかじゃ、なかった。


その十二万人を、ひとり、ひとり、別の名前で呼ぶ必要があるとしたら、彼女はたぶん、いちばん最初に、別の名前で呼ぶべき一人だった。


——そして、それを、本当に、認めてしまったら。俺は、もう、たぶん、「別に、誰にも知られなくていい」とは、二度と言えなくなる。


教室の朝のチャイムが鳴った。


担任が、教室の前の扉を、開けた。


「おはようございます」

教室が、立ち上がる。


俺も立ち上がった。

立ち上がる、その動作の途中で、もう一度だけひかりのほうを見た。


ひかりは、立ち上がりながら教室の前を見ていた。ただ彼女のスカートの後ろのポケットの上に、左手の指先が軽く添えられていた。


そこに、なにかが、入っていた。


イヤホンケースではない。

ケースよりも、もっと薄くて軽くて、四角いなにか。


俺は、その「なにか」の正体を、たぶん、教室全体で、いちばん最初に、わかってしまった。


——折り畳まれた、ハンカチ。


ひかりは月曜日の朝、わざわざいつもの場所とは違う、スカートのポケットにハンカチを忍ばせて登校してきていた。


なんのために。


たぶん、月曜の朝、教室のどこかで、「落とす」ために。


——馬鹿だな。


俺は自分の口の端が、ほんの少しだけ上がるのを感じた。それはたぶん、ヨルが土日の間、一度も書けなかったメロディの最初のひと音目を、ようやく置けたときの笑い方と同じだった。


「礼」

「おはようございます」


教室の声が、一斉に揃った。


そのなかに、たぶん、ひかりの声も俺の声も混ざっていた。混ざっていたけれど、たぶん、ふたりの声だけは、いつもよりほんの半トーン、ずれていた。


ずれた半トーン分だけ、月曜日の朝の教室の対角線がもう一段、こちら側に近づいた。


第二章「通知音は、世界を壊す」の、いちばん最初のチャイムが、たぶん、もう鳴り始めていた。

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