第3話『見知らぬ悪魔の助け舟』
今、まさに最悪の状況だった。
レンリエッタはベリーと二人きり、ミシェンやメルキンは居らず…正真正銘ふたりきり。周囲の声も楽団の演奏も何ひとつとして助けになってくれそうにない。
ベリーの何か企んだ笑顔が非常に恐ろしかった。
「さぁてと…アンタのお守りを任されたからには楽しまなきゃねぇ?」
「い、嫌だよ…私もう問題は起こしたくない…絶対に!」
「あらあら心外な反応だこと…別にパレードを見に行きましょって提案しに来ただけなのに。」
「……それって本心から言ってるの?」
「もちろんよ!私だって一年に一度のパレードを楽しみたいんだから。」
だがベリーは直ぐに笑顔を解して真顔に戻るとパレードを見に行こうと提案した。もちろんレンリエッタは半信半疑だったが、この人混みじゃ滅多な事は出来ないだろうと考えて大人しく付いて行くことに。
どうせ拒否権も無いのだからぐずったところでどうにもならなかった。
人混みをかき分け、広場から少し歩くとパレードの行進が見える位置までやって来た。
三流街の門から一流街への門、そしてこの国の中央である旧クークラン城まで真っすぐ続くとても大きな道だ。車が何十台と横に並んで同時に走る事が出来るくらいの幅があり、普段は数少ない道路の一つであるが今日に限っては違う。
兵士たちが規則正しく並んでザッザッと小気味よい靴音を鳴らして歩いて行く様はまさに壮観であった。
「まぁ行進たってただの集団歩行よね。国の軍隊が揃いも揃って歩いてどうなるわけでもないし。」
「す、すごいなぁ…全員揃ってる…」
冷めたベリーとは裏腹にレンリエッタは初めて見る光景に目を輝かせた。何百という兵士が全員揃って一切の呼吸を乱す事なく歩いて行く様はまさに異様なのだ。
兵士たちの合間を走る装甲車や輸送トラックなども普段は目に出来ない存在なので夢中になって眺めた。
レンリエッタは初めて兵士たちが真面目に思えた。なにせ普段の彼等の仕事と言えば街中をトラックで走り回ったり、肩から銃を下げて偉そうに突っ立っているだけなのだから無理も無い。
三流街は知らないが、この二流街においてライフル銃を提げた兵士がうようよ居る中でわざわざ犯罪を起こすような愚か者はごく少数だったのだ。そしてその犯罪の大半が窃盗やら喧嘩騒ぎ等の大したものでも無いので兵士たちは犯罪者を銃床でボコボコにするのが仕事らしい仕事であった。(もちろん法的機関へと連行もするが大体は病院で目を覚ます事になる)
「すごいなぁ……も、もっと近くで見れないかな…」
「そんなに近くで見たいの?だったら連れてってあげるわよ、ほら…ほら!」
「ちょ、ちょっとそんなに押さないでよ!やめてよ!!」
レンリエッタがもっと近くで見てみたいと漏らしてしまったが為にニヤニヤと笑うベリーは彼女を押してパレードの列へと押し込もうとし始めた。おそらく広い場所に押し出して恥でもかかせるつもりなのだろう。
そんな事になれば年末まで作業場に閉じ込められてしまう事になるのでレンリエッタは必死に抵抗したがグイグイとパレードの音は鮮明に、大きくなって行く…
「わ、わぁあ!止めてってば!」
「親切にしてあげてるだけよ、もっと近くで見たいんでしょ?」
いよいよ観客の最前列が近くなって来た。人々の肩の間からそこを走る車両の姿見えている、とても大きなトラックが迫って来ている…いや、迫っているのはレンリエッタの方だ。
ベリーは「ちょっと通してくださいな」や「妹にパレードを見せてあげたいの」と言ってギャラリーを押しのける…もう目の前は大通りだ。遮る人達は居ない。
もうダメかと思われたその時、ゴツッ!と鈍い音と共に「アイタッ!?」というベリーの声が聞こえ、前進はどうにか止まった。
レンリエッタは命が助かったと安心しつつも何があったのかと振り返ってみると、ベリーは肩を抑えて痛そうに唸っていた。
「つぅ~~!だ、誰よ!」
【余計な忠告かもしれませんが、それ以上近付くのは危険ですよ】
「(あ、悪魔だ…!大きい…)」
ベリーの横には大きな、本当に大きな悪魔が立っていた。背丈は確実に2メートル以上あり、手足も胴体もひょろりと細く、そして長かった。
顔は見えず、首までスーツと同じく白いシルクハットを被っていたので首が無いようにも見えた。だが何やら毛のはみ出す胸元の少し上、帽子との間から黄色い眼が二つ光っていた。
そしてその手にはベリーの肩を叩いたと思わしき杖が一本。かなり目立ちそうだが今の今まで二人ともその存在には全く気が付かなった。
レンリエッタは夢中になってその悪魔を見上げ、悪魔は落ち着いた声で丁寧にベリーへ忠告した。
【あまり妹様をいじめて差し上げない方がよろしいかと思いますが。】
「な!関係ないでしょ!アンタ…悪魔のくせして人間様を殴るなんていい度胸してるじゃない!衛兵に突き出してやるわ!」
【どうかそれはご勘弁を、私はここいらで退散いたしますので。】
「ちょっと!逃げるな!!待ちなさいって…!!」
ベリーは悪魔如きが自分を殴って来た事に腹を立てると夢中になってその悪魔を追い始めた。レンリエッタもその後を追うが、周りの人々はまるで気に留める事無くパレードに夢中になっていた。
しばらくの間ベリーと悪魔の追いかけっこが続いたが、観客の間を通り抜けて広場へと出る頃にはベリーもレンリエッタもその悪魔を悉く見失ってしまった。
ベリーは「くそッ!」と言って悔しそうに腹を立て、レンリエッタはその様を眺めて心の中が少しばかりスカッとした気分になった。今日はそれほど悪くない日なのかもしれない。
その後、パレードの観覧に戻る暇もなく広場へメルキンとミシェンが戻って来た。二人とも満足そうに笑っては「さすが貴族は品が違う」や「顔も声も上品だった」とベリーへ感想を聞かせた。
しかし不機嫌な彼女は感想など聞く耳も無く、ムッとした表情を浮かべるばかり。ミシェンはその様子を見るとなぜかキッとレンリエッタの方を睨んだ。
「レンリエッタ、問題は起こさないでって言ったわよね?」
「ち、違います…私じゃ無くて……悪魔が、悪魔がベリーを叩いて…」
「まぁ!なんですって!悪魔が!?」
「ええそうよ!ホントにムカつく!あのガリガリの蜘蛛野郎!私の肩を杖で叩いたのよ!」
ワケを聞いたミシェンは驚くと同時にベリーを慰め、その後ひどく怒った。こんなにも感情が激しいものだからレンリエッタは見るに飽きず、メルキンも少し面白そうに笑っていた。
「私の可愛いベリーを叩くなんて…許せないわ!衛兵に探させてもらいましょう!」
「けどさ、どうして姉さんは叩かれたの?その悪魔ってば、もしかして……青が嫌いだったのかしら?」
「そんなの…そんなの知らないわ!きっと無差別よ!」
無差別と言い張るベリーだが、もちろんレンリエッタはあの悪魔が自分を助けてくれたことを知っていた。クークランでは奴隷として扱われる悪魔達であるが、レンリエッタは彼等に対して差別的な感情を抱いた事はまるで無かった。
一般的な人々は悪魔を無視するし、悪魔も人々とは出来るだけ慣れ合わないものだ。しかしレンリエッタは昔から街に出ると悪魔に話し掛けられたりする事がやたら多かった。大体は「やぁどうも」というような他愛も無い挨拶だが、妙に馴れ馴れしい者達も居た。
そのせいか特にレンリエッタは悪魔を奴隷と思う事も無く今に至るのだ。
話を戻すがベリーが見知らぬ悪魔に叩かれたと聞いたミシェンは直ぐに近くの衛兵に所まで駆け付け、事情を説明した。その顔があまりにも恐ろしいせいか衛兵は顔を引きつらせていた。
「わ、分かりました奥様…我々は悪魔探しに尽力いたしますので…」
「そうしてくださいな、そして見つけたらもうそれは酷い目に遭わせて差し上げなさい。」
「了解いたしました。では私は情報を伝えて来ますので…(あー!恐ろしかった!)」
「これで平気よ、あとは衛兵さんに任せましょう。」
「流石お母さん!やっぱり頼りになるわ!」
ふふんっとミシェンは鼻を高くしてみせた。一方でレンリエッタは衛兵を気の毒に思いつつも、あの悪魔が上手く逃げてくれれば良いなと思うのだった。
さて、その後四人は適当に広場を見て回り、時間を潰してからカフェで軽食を摂った。カフェは客で満ちており、外の席に座るのがやっとだった。
ミシェンとベリーとメルキンはそれぞれケーキと飲み物を注文し、レンリエッタは何もいらないと言ったが店員が心底嫌そうな顔をしたので仕方なく一番安いレモンジュースを注文させてくれた。甘酸っぱいレモンジュースはとびきり美味しく、全身に酸味が走るような味がした。
とどのつまり今日日はレンリエッタにとって最高と言っても差し支えない日であった。パレードは見れたし、ベリーは杖で叩かれ、レモンジュースは美味しかった上にメルキンが一口食べて残したケーキにもあり付けた。
パレードの演奏も『クーセイルクラウン賛歌』に変わり、とても優雅な一日を過ごす事が出来た。
今日という日が一生続けば良いのにな、と思ってもそれは実現する事の無い夢。時間は過ぎて行き、太陽は真上へを通って徐々に下降し始め、気が付けば夕方になっていた。
「あぁ~!疲れた……もう歩けない~」
「いたたた…でも結局あのクソ悪魔は見つからなかったわね…」
「大丈夫よベリー、きっと見つかるわ。クークランの兵士は決して生易しく無いのよ、お父さんがいい例でしょう。」
レンリエッタ、ミシェン、ベリー、メルキンの四人は我が家である仕立屋に帰宅した。ペンスーンは恐らく夜中まで元同僚たちと楽しくやっている事だろう。
レンリエッタは「この調子なら明日は休みかも」と考えながら、自室へと戻って素早く着替えた。祭りの気分は消え、いつもの地味な色の服だ…だが安心できる。
その安心感のせいか、それとも滅多に出掛けていなかったせいかレンリエッタは一息つくなりどっと疲れが押し寄せてくるような感覚に陥った。今日は良い事もあったが扱き使われた事も多かった、荷物持ちの仕事はしばらくの間休業した方が良さそうだ。
「(だけど……今日会ったあの人、とても不思議な人だったなぁ…)」
レンリエッタはベッドへ仰向けになり、天井を眺めながら今日であった二人の悪魔の事を考えていた。ひとりは空から降り注ぐ光を集めていた老婆、もうひとりは自分の窮地を助けてくれた細身の悪魔。
老婆とは後日出会う約束をしたのでまた話が出来るが…後者に関してはどこか言い表せないような感情を抱いていた。と言うのも……どこかずっと昔にあの悪魔とは出会った様な気がしたからだ。
「(前に会ったら覚えてると思うし…あの見た目、絶対忘れないと思う…)」
悪魔というのは種族があり、似たような姿を持つ個体が多いが結局は千差万別なのだ。人間とまるで違わない者も居れば、獣そのものと言った感じからその中間の獣人まで幅広く悪魔は存在する。
レンリエッタは一度出会った悪魔の事は忘れなかったのだがアレに関してはどうにも引っ掛かってしまう。やはり出会った事があるのだろうか…
「(でも…う~ん、どこかで…)ふぁぁあ~…ぅ~ん…」
そんな風に考えていると…疲れを感じたレンリエッタは瞼を閉じ、いつの間にか寝息を立てて寝始めてしまった。
結局、疑問なんてものは睡魔には勝てないのである。だが疲れのせいで早々に眠り込んでしまったのは彼女のみではなく、ベリーもメルキンも着替えて少し話してから各々の部屋で寝てしまった。
最後まで起きていたのは真夜中に帰って来たペンスーンを出迎えたミシェンのみであった。その晩、ペンスーンはよほど楽しかったのか、いつもより酒が深かったらしい。
パレードが終了してからの数日間、それはもうレンリエッタは大忙しだった。
と言うのも盛大にパーティーをしていた人達から大量の修繕依頼がやって来たからだ。ちょっとほつれた程度のズボンから喧嘩でもしたのかズタズタになった上着まで色々な注文が殺到。
そして忙しかったのはレンリエッタのみならず、新しいスーツやドレスの注文がやって来たのでペンスーンもミシェンも休まる暇がまるで無かった。パレードで羽振りが良くなった影響なのか、修繕を依頼するより新しく仕立てようと考える者が意外と多かったのだ。
なのでレンリエッタがゆっくりと落ち着いて物事を考えられるようになった頃には一週間などあっという間に過ぎ去っていた。
「(今日はアイツに会いませんように…)」
さて、ある日の朝…レンリエッタは作業場や自室ではなく、街の広場へと来ていた。パレードの余損はすっかり消え去り、人々が穏やかに朝の時間を過ごしている。
なぜ此処へ来ているのかと言えば今日は学校の解放日だからだ。レンリエッタはベリーやメルキンと違い、普段から学校に通わせてもらえなかったので近所の『ストンハイツ校』が不自由な子供たちのために月に何度か開く無料の授業を受ける事で読み書き等を習っていたのだ。店を離れられる少ない機会であるが、当然の如く問題はあった。
まず、ストンハイツ校は決して綺麗な所では無い。灰色の壁はひび割れ、廊下のタイルは何枚か剥げており、天井と壁の隙間からは気味の悪い液体が滴り落ちている…ハッキリ言って不潔極まりない。誰かが捨てた菓子の袋に虫が集っているのを見れば尚更気分が悪くなる。
ベリー達の通う『クイーンエイド女学園』とは大きく違い、まるで刑務所の様だった。レンリエッタはどうにも此処が好きそうになれない…
「(うぇえ~…相変わらず気持ち悪いなぁ…)」
次にこの学校に通う生徒たちだが、レンリエッタの様に大人しい生徒ばかりではなかった。生徒の大半は不真面目と言うべきか、どう頑張っても人並みに振舞えない者ばかりだった。
現に教室へと向かおうとするレンリエッタの前方には自分より遥かに年下で背丈の低い子供から財布を奪い取る二人の男子生徒が居た。酷いニキビ面のブリスとその腰巾着のサックだ。
「や、やめてよ!返してよ…!それが無いと薬が…」
「ほーら!取ってみろよ!チビ助!!取れたら返してやるよ!」
「おい見ろよこいつ!泣いてやがるぜ!情けねぇなぁ?」
「(最ッ低!……けど、関わるとマズいし…)」
レンリエッタは以前の経験から面倒事など関わるだけ無駄だと考え、そそくさとその横を通ろうとした。しかしその白髪はあまりにも目立っていた為、二人の目に留まらないハズがなかった。
ブリスは直ぐに標的を変え、レンリエッタへとわざとらしい口調で話し掛けた。
「おいおい、こいつは誰かと思えば…白髪のレンリエッタじゃねぇか?お前、まだ生きてたのかよ!」
「とっくの昔に老衰で死んじまったかと思ったぜ!ババアがこんな所でなにしてやがる?」
「……そりゃどうも、お年寄りの言う事を聞く気があるならほっといて。ついでにそのお金も返してあげて。」
「なんだと?お前、女だからって調子に乗ってると殺すぞ?」
「(今日は会って10秒もしないで言うなんて…新記録かも)」
ブリスはこれでもかと彼女を睨みつけ、殺すぞと凄んでみせたがまるで効果が無い。レンリエッタはひどく冷めた表情で彼の顔を見つめ、スキンケアをしないのかと疑問にすら思っていた。
そんなレンリエッタにブリスは余計にムカつき、ガッと彼女の胸元を掴んで持ち上げた。ブリスは図体ばかりは大きかったので力もその分強かったのだ。
「学校にすらまともに通えねぇ奴が調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
「そういうアンタは毎日来てるみたいだけど全然頭良くなさそうだよね。」
「な、なんだとッ!!てめぇ…!」
「(い、今だ…!)ふんッ!!」
「あぁ!!か、金が!!」
その時、レンリエッタは一瞬の隙を突いてブリスの手から金をぶん取り、後ろの生徒へと投げ渡した。金を巻き上げられた生徒はそれを受け取るなりバタバタと走り去り、逃げ遂せてしまった。
ブリスはさらに怒り、その後ろでサックが指をボキボキと鳴らした。我ながら馬鹿な事をしたと思うレンリエッタだったが、後悔は無かった…
「どうなるか…分かってんだろうな!!」
「さ、さぁ?出来ればあなたが紳士らしく振舞うのを期待したいけど…」
「やってやるよ、紳士らしくな…!」
数分後、レンリエッタは無事に教室へと到着した。
その右目には立派な青あざができ、髪の毛はボサボサに乱れていたが授業が始まるギリギリに到着したのだった。そんな彼女の姿を見て、煙を吹かす教師は一言。
「不気味な奴だな、さっさと席に座れ。」
「はい、すみません……はぁ…」
レンリエッタはまばらに空いた席の一番後ろに座り込んだ。生徒が数人、彼女の顔を見るために振り返るとクスクスと笑う声が教室の至るところから聞こえた。
自業自得であるが我ながら立派な事をしてみせたとレンリエッタは自分に言い聞かせつつ、文字が薄く浮かび上がる黒板に書かれた『歴史』という文字に従ってノートと教科書を開いた。
さて、教室に来れば問題は無いと思いがちだが…ここにもちゃんと問題はあった。もちろん教師である。
「よーし、9時キッカリ…今から授業を始めるぞ。だがその前によく聞けよ、俺はなぁ…お前等みたいな社会の底辺に授業を教えるのはうんざりしてるんだ。本当ならまともな学校で一人前の脳みそを持った人間の生徒に人間らしい授業を受けさせるのが俺の仕事なんだ、お前等のような将来に何の価値も見出せない不良品に無駄な知識を教え込むのは極めて不愉快だ……つまり、少しでも癇に障るような事をやってみろ…殺してやるからな…」
相変わらずのジメジメとした早口で教師は生徒たちに不満をぶつけた。
この男、ジンペルはストンハイツ校の教師の一人なのだが無料教室での教師という座にうんざりしているらしい。彼が普通の教室に割り当てられなかった理由は明白だが、レンリエッタはいつも「道徳の授業は必修にするべきだ」と思っている。他の生徒もそう思っていた。
「まともに読み書きも出来ないお前等でも知っているだろうが、この国はかつてクークラン王国と呼ばれていた。現在ではクーセイルクラウンという一族が仕切ってるが、奴らは王家の血筋だ。言わば生まれついての勝ち組、お前たちとは真逆に位置する偉い人達さ。…ったく、クソみてぇな社会だよな…」
「(歴史なんて覚えても役に立ちそうにないけどなぁ…)」
授業が始まって早々にレンリエッタは上の空だった。
文字の書き取りや読み取りではそれなりに真面目な素振りも見せるのだが、どうにも歴史というのは好かない。どうせ社会に出ても歴史で習った事が役に立つとは思えないからだ。
既にレンリエッタは針と糸が恋しくなっており、それと同時に今日は老婆と話す事が楽しみで仕方がない。学校なんて直ぐにでも逃げ出して一日中自由を謳歌してみたいが残念な事に『出席シート』という厄介極まりない存在が邪魔をしてくれる。
なので少しばかり真面目に授業を受けるしか無かった。レンリエッタが窓から暖かそうな春の外を眺めている間、教師はクーセイルクラウン家の不満をグチグチと黒板に書き綴っていた…
約二時間後…退屈な授業は終わり、文句を聞かされつつも出席シートにサインを貰ったレンリエッタは自由を手に入れた。そしてまず向かうはもちろん広場。
悪いと思いながらもミシェンとペンスーンには授業の時刻をわざと遅く知らせていたので長ったらしく喋る時間はあった。だが好奇心のせいでどうにも落ち着けない。全速力で学校から走り去って行くレンリエッタだったが……その背を眺める者が居た…
「えーっと…たしか……そうだ!あそこだ!!」
広場に到着したレンリエッタはこの前の路地裏を見つけるとすぐに走り寄った。予想では路地の陰に隠れた老婆が視界に入るかと思われたがそこに佇んでいたのはゴミの塊くらいであり、彼女の姿は見当たらない。
場所を移してしまったのかと周囲を色々と探し回ってみたが、やはりどこにもあの老婆の姿は無かった。あまりにもキョロキョロしていたせいか衛兵から「探し物ですかな?」と声を掛けられてしまったレンリエッタは咄嗟に「猫です、黒い猫」と答えて難を逃れた。
「そんなぁ……きっと遅すぎたんだ…あぁもう、私の馬鹿…途中で抜け出してればよかったのに…」
そうして、ひとしきり周囲を探し終えたレンリエッタは約束に遅すぎたと解釈して絶望し始めた。光について聞ける数少ない機会だったと言うのに、全て無駄にしてしまった。
こうなるくらいだったら店を途中で抜け出して来れば良かったとすら思っていた。好奇心にあふれていた心が一気にしぼんた様な気がする、酷く憂鬱になった…
だが、その感情を後押しするようにある者が現れた。その声は今朝に聞き覚えがあり、なおかつ聞くだけでゾッとするような声…
「よう!レンリエッタ、奇遇…だよなぁ?」
「こんな汚ねぇ路地裏で何してやがんだ?自分の死に場所でも探してたのかい?」
「ヒィッ…ブリス、サック……と、それなに!?」
【グゥアルルルルグゥヴ…!】
レンリエッタが振り返ると、広場を背にして立っていたのはブリスとサックの二人組。それに加えてブリスの足元にはダラダラと涎を撒き散らす四つ足の怪物が唸っていた。
それは犬だった……が、ただの犬では無い。全身の体毛が古びた絨毯の様に灰色で瞳は霧のように白く濁っており、常にガタガタした牙の間から荒々しく息を吐いて唸るそれは明らかに健康とは言えなかった。
レンリエッタはその恐ろしい怪物に対してギョッと恐怖を露わにした。ブリスはとても満足そうだ。
「それ呼ばわりとは感心しないな?俺んちの愛犬のフレンジーだよ。」
「愛犬!?い、犬?犬なのそれ…」
「あぁ、だけど先月あたりに外国の猿に噛まれてから様子がおかしいんだ…だがこっちの方が百倍クールなんだぜ!なんたってよぉ…なんにでも噛み付こうとするんだぜ!!」
【グゥアアウッ!!グォオウッ!!】
「うわぁ!!そ、そんなの近付けないでって…!」
フレンジーはまさにレンリエッタに対して襲い掛かろうとしていた。目の前の存在を今すぐにでも引き裂いてしまいそうなほどの声を上げ、何度も何度も空気を噛み殺すように顎をバクバクと動かした。その都度、大量の涎が地面にビチャビチャと降りかかる…
こんな生物に噛まれてしまえば良くて穴だらけ、最悪の場合(と言うかおそらく)死ぬだろう。
ブリスはニタニタと笑みを浮かべながら握る紐を緩め、少しずつレンリエッタへ犬を近付けた。サックは惨劇を予知してか直ぐにでも目を瞑れるように構えていた。
「おいレンリエッタ!俺がこの紐を手放したらお前はおしまいだぜ!」
「な、何が望みなの!?なんでこんな事するのさ!?」
「誓え!二度と学校に近付かないってな!!さもないとお前はズタズタの肉ミンチだぞ!!」
「誓うわけないでしょそんなバカげたことッ!!」
ブリスの目的はレンリエッタが二度と学校へ近付かない様にすること。もちろんそんなバカげた交渉に乗る気など無いレンリエッタは一蹴したが、この場において誰よりもドジを踏んだ事は間違いない。
ブリスはまさに握った紐を手放そうとしていた。サックは内心で「マジでやるのかよ!?」と困惑しながら直ぐに両手で顔を覆った。
恐ろしい怪物がレンリエッタを襲おうとしたその時……たったひとつの言葉がその場にいた全員を凍らせた。
【やめなさい。】
「なッ!?だ、誰だよお前!?いつの間に…悪魔か!?」
「え!?悪魔?……あぁ!!あ、あの時の…!」
レンリエッタが薄々目を開けると、ブリスの後ろにはいつの間にか悪魔が立っていた。その姿にはもちろん見覚えがある、ひょろりと長く、白いスーツに同じく白いシルクハット。
そして光る琥珀色の眼と手に持つステッキ……数日前、パレードで助けてくれた悪魔その人である。
突如として現れた存在にブリスは酷く驚き、レンリエッタも驚愕する反面、どこからか安心感を感じていた。
【グゥアルルル……グゥオ゛ウ゛!!】
【やめろと言っているんだ!!立ち去れ!!】
【クァウッ!?ゥ~ン……】
「あ!!お、おいフレンジー!!何処に行くんだよ!!」
悪魔はこの世の物とは思えない声で唸るフレンジーに一喝すると瞬く間に犬は恐れをなして逃げて行ってしまった。その逃げっぷりと言ったら情けないことこの上なく、首輪をスポンと外して街の中へと消えて行ってしまったのだ。
飼い犬に逃げられたブリスは悪魔に対して突っかかったが…
「おい!テメェ!!悪魔のクセして邪魔すんじゃねぇよ!!衛兵呼ぶぞ!」
【おっと…これはこれはご立腹ですね、うぅ~む…きみ、どうでしょうか?私の手品に興味はありませんかね?】
「はぁ?舐めてんじゃねぇぞ…!!」
【舐めるだなんてそんな…私、こう見えてもマジシャンなんですよ。】
先ほどの怒号は何処へやら、悪魔は少し愉快な口調でブリスの相手をした。その声のトーンと言えば正しくサーカスのピエロか、あるいはマジシャンか…どちらにせよその声は彼を存分に苛つかせた。
レンリエッタはボーッと眺める事しか出来ず、サックに関してはもうその場に居なかった。
そして悪魔は杖を細い腕に掛けると帽子を取ってその中をまさぐり始めた。帽子を取った姿は本当に不気味で首無しに見えたが、首元(人間なら鎖骨のあたり)にモグラのような小さな鼻と綺麗な黄色い眼が見えた。
【何が出ますかなぁ~?……おぉっと!出ましたッ!可愛いウサギちゃんです!】
「わぁ!う、うさぎだ!」
「くっ…!こんの…!」
【おやおやぁ?お坊ちゃんの方はお気に召しませんでしたかな?それは大変失礼いたしました、何か別のものを出してあげましょう!】
悪魔は帽子の中から真っ白なウサギを出して見せたがブリスはさらにイライラを露わとした。一方でレンリエッタはその様子を夢中で眺めた。
手品など見た事が無いので不思議でしょうがない。
【次はすごいですよ、なんたって真っ白な…】
「もういい!!衛兵ッ!来てくれッ!!このポンキチ悪魔を撃ち殺してくれ!!」
【おやまぁ、それはなんと悲しき宣告……では弔いにハトを出してあげましょう!そぅれ!!】
「うわぁ!!こ、今度はハトが出てきた…!」
ブリスは衛兵を呼んだがそれに構うことなく悪魔は帽子の中から眩しいくらいに白いハトを二羽出した。ハトはバサバサと羽ばたき、そして……ブリスへ襲い掛かった。
「うわぁあああ!!な、なんだ!?ハトのくせに襲って…うわぁあ!!」
【覚えておいてくださいね、ハトは意外と凶暴なんですよ。なんたってゴミを漁るのが得意なんですから。】
「クソッ!!こっちに来るなぁ!!やめろ!!いててて!!」
「………す、すごい…まるで魔法みたい…」
【なんとありがたき…お褒めの言葉、大変嬉しゅうございます。】
ハトは爪で何度もブリスの髪の毛やら顔を引っ掻き回し、堪らず彼はその場から逃げ去ってしまった。
そしてレンリエッタが素の言葉を漏らすと悪魔は帽子を被ってから深々とお辞儀をしてみせた。今目の前で起こった事全てが非現実的であり、白昼夢の様だった。
だがレンリエッタは直ぐにハッとすると彼へ話しかけた。
「あ、あの…!あなた…前にも助けてくれましたよね!パレードの日に!」
【ええ、お姉様から良くない雰囲気を感じたのでつい手が出てしまいました。】
「それで…変かと思うかもしれませんが……私!ずっと昔にあなたと会ったような気がして…でもよく分かんなくて…あなた、誰なんですか…?」
【……今は名乗るほどではありません。】
レンリエッタの質問に対して彼は答えなかった。それでも色々と聞きたい事がどんどん頭に思い浮かんでしょうがない…なぜ助けてくれたのか、前にも何度か会った事があるのか、首はあるのか無いのか等…
だが彼はたった一言伝えた。
【レンリエッタ様……でよろしいですね?】
「は、はい…!」
【…ひとつだけ伝えておきたい事があります】
「なんですか…?」
【荷物をまとめておいてください。そう…出来れば14の階段を昇る前に…】
「荷物を…?14の階段…?」
悪魔の意味深な発言にレンリエッタは困惑したが14の階段という言葉の意味が分かった瞬間、もう彼は広場に向けて歩き出していた。
まだ駄目だ、色々と聞きたい事があるのに…と彼の後ろを追おうとしたレンリエッタだったが…
「あぁ待ってください!ちょっと……あれ?何処に…」
彼の後を追って広場に出てみれば、もう既にその姿は何処にも見当たらなかった。まるで霧のようにスーッと消えていた…音も無く、本当に消えたのだ。
取り残されたレンリエッタはまるで化かされた様な感覚に陥ったが14の階段という言葉は強く心に刻まれている。14の階段……それは間違いなく14歳の誕生日だ。それはもう明後日に迫っている…
「(14歳の誕生日…荷物を纏める……まさか迎えに…!?)」
レンリエッタは荷物を纏めるという言葉から『14歳の誕生日に迎えが来る』と解釈した。彼女の頭ではもうそれくらいの事しか考えられなかった。
そうなると居ても立っても居られず、レンリエッタは駆け足でテーラーへと戻って行った……
ちなみに、数分後…広場にて黒猫を抱えた衛兵は必死にレンリエッタの姿を探したが彼女を見つける事が出来ず、とても落ち込んだ。
つづく…
今回のワンポイント
【隷属三原則について】
著:サイムン・ハンドーツ(奴隷賛成派専属弁護士、31歳)
『悪魔が善良なるクークラン国民の奴隷として活動する際に心得ておくこと、それが隷属三原則である。まず第一に『奴隷は主人の命令であっても人に逆らってはならない』…命令されたとしても犯罪行為を行った奴隷はただちに処刑され、その主人に当たる人間にも極めて重い罪が課せられる。第二に『奴隷は子供を設けてはならない』…奴隷は常にその数を厳重に管理される立場のため、たとえ主人が了承しても子供を成した場合、全員処刑とする。第三に『奴隷は自身の立場を弁えなくてはならない。』…奴隷は人としての地位を持たず、独自の立場で自身を守る必要がある。この三原則は前転歴290年、当時の公国労働部門大臣であるアルデロサ・グラインハイスによって考案されたものだ。しかしこの三原則が正式に設立されたのはその30年後である前生歴2年であり、既にグラインハイス氏は亡くなっていた。この三原則の言葉は一流街の噴水広場に建つ『富と労の泉』に彼の名前と共に刻まれている。』