十三話 牛人
第十三話です。
昭和50年代頃は、何処の家でも庭の端に簡素な小屋を建てて数匹の豚や牛を飼っていました。
普通の家なら2、3匹。ちょっと『ハマった』家では小屋の基礎や餌台をコンクリで作って10匹くらい飼っている家もありました。
当時、豚の子供は一匹3,000円くらいで買え、2年育ててデカくなった豚は一匹8,000円で屠殺屋が買い取りに来てくれたので、ちょっとした小遣い稼ぎに『飼ってもいい』動物でした。
これには高く売れるという目的より何より、残飯でも野菜クズでも何でも食ってくれる『生ゴミ処理機』としての役割が大きく、何年か『使ったら』元より高く売れるっていうので飼っていた家がほとんどというか、わざわざ畑まで生ゴミを持って行かなくても庭先の豚小屋に投げ入れればクリーンに処理出来るっていう目的も大いにありました。そのうちには『ウチは毎日捨てるほど食い物余ってっからよぉ』みたいな見栄っ張りで5匹も6匹も豚を飼って見せてる家もありましたが、そんな家は今では後取りも無く年寄りの一人暮らしになっているのが常です。
ただ、田舎の大家族や農家が豚や牛を飼っているのが当たり前だったかと云うと、そうでもないんじゃないかと思います。
この地域には、今から100年も前から先にも少し触れた『屠殺』を生業とする人達が暮らす大規模な『地域』がありました。所謂、差別部落というものです。
これはホントに社会問題で、まだ私が小学生だった頃には毎週二時限『道徳』という授業があって、ほんとに毎回毎回この差別部落との付き合い方についての話し合い授業が行われていました。なんか知らんけど授業中に泣き出したり怒り出したりする先生が多くて内容は頭に入って来ないし、なんだか『嫌な科目だな』としか覚えていません。まあ、今はその地域一帯は大手の半導体メーカーなど訳の分からない巨大な工場が並ぶ工業団地になってしまったので『どうでもいい』のですが。
いくら昔の農家とはいえ、飼っていた豚や牛が死んでしまった際、最後はそれを食ってしまおうなんて思う人は流石にいないので、近くに高値で買い取ってくれる屠殺屋があったからこその流行った生活スタイルだったんだと思います。
そんな中、近所の集落に『牛キチげ』と呼ばれた一軒の家がありました。
その家は元々は牛も豚も飼っていない所謂普通の米農家だったのですが、流行に乗ってたまたま飼ってみた食肉用の黒い牛が二年で5万円にも売れたそうで、それをきっかけに畑を均して4棟もの長い牛小屋を建てて何十匹もの牛を飼い始めた新手の牛屋でした。
その牛屋は元々が楽天家だったそうで、大酒も呑むし金に糸目も付けないような人だったそうですが、ただ、そんな人だったので面白いのは確かだったそうで、地元の人たちから『スター』と呼ばれていた有名人でもあったそうです。
そんなスターも40歳を過ぎてから初婚で太った嫁を娶ったのですが、結婚の翌年に生まれた子どもは『ひどい知恵遅れ』(今で云う重度知的障害、猫鳴き症あたりか?)だったそうで、スターの牛屋もその子どもが産まれて半年くらいはみんなに子どもをお披露目していたものの、半年を過ぎた辺りからその子どもを誰にも見せなくなったそうです。
その後、何年経ってもその子どもの姿を見た者が誰一人いなかったため、流石に同じ集落で市役所に勤めていた人が警察署に通報というか告げ口したそうで、ある日、スーツを着た警察の人数名が抜き打ちでスターの家に一斉に家宅捜索に押し入った事がありました。
しかし、そこに子どもがいる様子は全く無く、しかし、スター夫婦は顔面蒼白。やがて、嫁が泣き出し『ごめんなさい、勘弁してくろ』と連呼し始め、スターが『きゃずはウチん中にゃ居ね。こっちにいんだよ。』と言って警官達を牛小屋の方へと連れていきました。
するとある一棟の牛小屋の一番奥が板の柵で仕切ってあり、スターがその板を何枚か上に引き抜くと、その奥の畳二畳ほどのスペースに全裸の子どもが膝を抱えて座っているのが見えました。
スター夫婦は障害のある子どもを人目の付かない牛小屋の奥に隠しながら育てていたのです。しかも、スターが元来ポジティブ思考だったせいもあり、最初は子どもに障害があっても笑い飛ばして明るく乗り切ろうとその子どもに『珍宝(珍しい宝の意)』というあだ名を付け、当然、その真意は『名前がチ○ポだったらそれだけでみんな笑って楽しくなるだろ』という安易な発想で付けた呼び名。
いくらコンプライアンスなんて言葉すら無かった時代とはいえ、この事件発覚当時はこの話題で持ちきりとなり、下妻産の牛肉はもう二度と売らない買わない食べさせないという変な標語みたいなのが流行りました。それ以来、下妻市内で肉牛やってる牛屋って未だに無いと思います。
ただ私、この珍宝君のその後の行方を知っています。
スターの牛屋は当然すぐに廃業になってスター夫婦は姿を消しましたが、珍宝君は保護されて15年近く岩井の精神病院に入院していました。牛と共に暮らしてきたせいか、かなり重い知的障害があるせいか、珍宝君は『もー』という発語しか出来ず、一日中絶え間なく『もー』という声出しを続けています。
以下の私の考え方が倫理的に間違っていると承知の上で率直に言うならば、
彼に人間としての心を押し付けるのは如何なものか? 牛として自覚しているならば、空調の整った部屋で清潔なシーツの敷かれたベッドで眠り、丁寧に作られた飯を食い、排泄物もすぐに洗い流される、これほどの生活を送っている牛がいたならどれほどの幸福度を感じているだろうか。
人が贅沢を想像すれば当に天井無しだろう。ましてや病院や施設での生活など、幸福な生活とは言い難い。
10点満点の10点と100点満点の10点とでは意味が全く違うでしょう。
第十三話




