十一話 虚無僧
第十一話です。
私の住んでいる田舎の過疎集落には、昔から2年に一度づつ、毎回6月の始め頃に一人の若い旅の僧侶が集落を通り抜けて行きました。
別にここは遍路道ではありませんし、近くに大きな寺があったり花祭りがあったりする訳でもありませんが、その僧侶は毎回南から来て、北の山に続く道へと歩き抜けて行ったのでした。
毎回同じ時期に来るので集落の各家でも、「そろそろ若い坊さんが来る頃だな」って分かっていて待ち構えている人もいて、僧侶が来ると施しをした後に「せっかくだから」と言って家に上げて仏壇にお経をあげて貰っている家も何軒かありました。普段は近隣の寺の檀家なのに、2年に1回この若い僧侶にお経をあげさせて「たまには違うお経もいいもんだなや」なんて言っていたので年寄りは気楽なもんです。
ただ、この時点で幾つも不思議な点もあり、中でも、集落の年寄り達が若かった頃には既にこの若い僧侶は隔年で集落を通り抜けていたそうなのですが、何故今でも『若い』のか? 実は何代か代替わりしているのかもしれませんが、代々なんでこの集落を通り抜けるような目的不明な行脚を受け継いでいるのか? とにかくこの僧侶が無口で、読経以外の声を殆ど発せず錫杖とお鈴の音で返事をしているような僧侶のため謎が多過ぎたのです。
昭和末期か平成に変わった頃か、その頃、テレビで上岡龍太郎が都市伝説系の番組をやっていて、集落の一人の若い男がその番組に出たいと思ってちょうどその僧侶が通る時期を前に、この『謎の若い僧侶』の噂を番組に投稿した事がありました。
すると、その投稿は見事に番組の検証企画に採用されて、テレビカメラを担いだ撮影クルーが何台もの車に乗ってこの集落に押し寄せて来た事がありました。
撮影クルーは隣町の旅館に泊まり込み、毎日この集落に通って住民に聞き込み取材などしていましたが、4日ほど経ったある日、遂にその若い僧侶が集落に現れ、その姿を見た撮影隊は一斉に僧侶に駆け寄り、まるで囲み取材のように僧侶にカメラを向けリポーターがマイクを差し出したりして質問を投げ掛け続けました。
しかし若い僧侶は、まるでそんな撮影隊が見えていないかのようにいつも通り集落の家々を廻り、集落の年寄り達もテレビの撮影など気にする様子もなくいつも通り僧侶におにぎりや味噌や梅干しなどの施しをして、何軒かの家では僧侶を家に上げて仏壇にお経をあげてもらっていたりしていました。
そんな状況に都会のステータスを全無視されて腹を立てたテレビ撮影隊の人達は、半ば意地になって僧侶の後を追い続け、やがて村を抜けて山道に入って行った僧侶のあとに付いてみんなでゾロゾロと山に入って行ったのです。
集落の一人の年寄りがそれを見て「おい、兄ちゃんら、やめどげ。そんなカッコで山さ入ったら死んちまーど。」と止めたのですが、意地になっていた撮影隊の一人が「ウッセーな、プロの取材屋ナメんじゃねーよ。」などと粋がってましたが、撮影隊の一行は山中で僧侶を見失い、その日の夜10時過ぎに息絶え絶えの状態で山から降りて来ました。結局、この取材はボツになったのかなんなのかテレビで放送される事はありませんでした。
その後も隔年6月の初旬に、欠かさずにこの若い僧侶は集落を通り抜けて行ったのですが、2009年に集落に来た際、恐らく初めて読経以外の言葉を集落の人に発しました。
「今回で最後になるでしょう。私の力で出来る事はそろそろ限界なのです。申し訳ありません。覚えておいてほしい事があります。どの山にも必ず頂上があり、どの谷にも必ず谷底があります。それぞれ越えればどちらも平地に向かいます。永遠に登る山は無ければ、底の無い谷もありません。この世には山もあり谷もあり、しかし、それを越えれば必ず平坦な場所へと向かうように出来ています。」
その2年後、若い僧侶は集落に来ませんでした。2011年、東日本大震災があった年以降、若い僧侶は集落に来ていません。
若い僧侶は地震を予知していたのか。そもそも、何者だったのか。今となっては分かりません。
第十一話




