玄洋アヴァンチュリエ(試し読み)
この先品は、2023年夏、コミックマーケット102にて頒布予定の小説『玄洋アヴァンチュリエ』の試し読みバージョンです。楽しんでくれたら嬉しいです。
良かったらC102で私のスペースに遊びに来てください。めちゃくちゃ喜びます。スペース情報など詳しくはツイッター・マストドンその他SNSで。
お話序盤の一部分を読み切りサイズに編集してありますので、本編と少しだけ異なる部分もありますがご了承下さい。
飛行機を降りてからは、まるで違う世界に来てしまったような気分だった。
都心から出たことがない、まさに井の中の蛙だった僕は、北九州にたどり着くまでに一日近くの時間を要した。
まさか東京で一日潰れるとは思わなかった。
紆余曲折あって福岡についたのは翌日だったが、過ぎてしまえば疲労以外、感じるものはもうない。
ネットで調べたとおりに地下鉄と鹿児島本線を乗り継いで揺られること数時間。
ここに来ることを選択してしまった消極的な後悔と脱力感を乗せた鈍行列車は、ガタガタと分岐を乗り越えながらついに終点のホームへと進入してゆく。
門司港駅。照りつける日差しを遮る駅のホームは、まるで過去に遡ったような感覚すら覚える独特の趣があった。
駅舎に降り立つと、教科書の中でしか見たことがなかった景色が、目の前に広がっている。
貼り付けられたモルタルで重厚な様式を示す駅舎を出ると、眼前にはただ青く高い空が広がっていた。
じわじわと照りつける真夏の太陽の下、駅前広場で行き交う人は少なくないが、東京と違う雰囲気で溢れていた。高層ビルに遮られない広い空と見渡す先々に点在する煉瓦造りの建物が「門司に来た」という感覚を後押しし、腹の底にある得体の知れぬ高揚感を掻き立てた。
びゅうと一時強く吹いた風に乗ってやってきた潮の香りは、視界を自ずと左側、海へと向けていた。
「すごい……」
駅からほんの少し歩いただけで、門司の港が現れた。ぽつりぽつりと停泊する大小の漁船と、長蛇の列を形成する観光客船の待機列。眼前にあるようにすら感じさせる巨大な構造物――関門橋だ。見渡せるほどの位置ではあるが確実に距離を感じさせる下関の対岸までかかる純白の鉄橋は、空や海に負けじとその存在を主張していた。
桟橋を歩きながら全身で海を感じる。いわゆる「海の匂い」というのは初めてだった。ほんのりと感じられるのは生魚のような鼻をつく異臭ではあるものの、どこか懐かしいような感覚、安心するかのような感覚すら覚える。体感したことはなかったが、これが海の匂いなのだと確信はできた。
桟橋に打ち付ける小さな波と、耳元をすり抜ける潮風。そよそよと揺れる広葉樹が少しだけ青い香りを乗せてきて、海の匂いとともに不思議な感覚をもたらした。
手元の地図をもう一度広げてみた。今いるのがこの桟橋だから、まずは桟橋から戻って駅を基準に考えよう。
しかしこの時代になって紙の地図を渡されるというのも驚きだ。場所を伝えるならスマホの地図アプリで転送してくれればいいのに。
そんな事を考えながら大きく広げた地図を畳むのに苦戦していると、一陣の風を受けたそれが帆船のごとく手元から激しく飛び出した。
「あっ!」
思わず叫んだときには、もう遅かった。手元を離れた紙面がばさばさと空を舞い、あっという間にその音も聞こえなくなる。伸ばす手がそれに届く気配は、ついに無かった。
一時高く舞い上がった紙は徐々に失速し、微風に流されるままに海面を目指す。
唯一の手がかりを失った僕は、呆然と立ち尽くした。次の瞬間までは。
刹那、僕の横を弾丸のように何かが駆け抜けた。思わず振り向いた視界に映ったのは、素足とセーラー服、そして一つに結った髪をなびかせる少女の後ろ姿だった。
その少女はコンクリートの桟橋から勢いよく踏み出し、その体を躊躇なく宙へ舞い上がらせた。
「ちょっと!」
考えるよりも先に、手が動いていた。あまりにも急な出来事に、「危ないよ」とは言えなかった。
飛び出した少女の腕を掴む。刹那、少女が振り向いた。可憐な顔立ちだった。驚いたように光る、ビー玉のように透き通るまん丸の瞳が、果てしない青空を映していた。
水に落ちる瞬間というものは、思わず目を瞑ってしまうものだ。どぼんというこもった音と全身に纏わりつく水と泡が、自分が水に落ちたということを実感させる。
水泳は、小学校の授業でやったきりだった。ゴーグルをつけずに水中で目を開けるのは、痛くて嫌だった。
でもとにかく水上に顔を出さなければ。両目をギュッと瞑りながら、片目をわずかに見開いた。僅かに感じた頭上の光を頼りに、手足を必死に動かした。
我ながら、みっともない動きだったと思う。手足がバラバラに動いているのが分かった。頭では分かっていても、教本通りの平泳ぎは叶わなかった。
ざばんという音と共に、ようやく頭が水面を突き抜けた。
こもった音が響き、直後、体温で温められた生温い海水が耳孔を流れ落ちた。
海水によって冷やされた体が肺を締め付け、呼吸が荒く、速くなる。どうやって岸に上がればいい?そうだ、一緒に落ちた女の子は?
もがきながらあたりを見回す。海面に少女の姿はなく、その視線は、岸壁の上から送られていた。どうして、なんてことを考えていると突如、足先に電流のような感覚が走った。
足がつった。突き刺すような痛みは、泳ぐ気力を容易く奪ってゆく。
気力もなくなり、力尽きかけた頭に、ばしゃんという音がもう一度響く。
体を担がれるような感触を得たのは、その直後だった。
「がはっ……ごほっ、ごほっ」
熱せられたコンクリートに膝と両手を付きながら、激しく咳き込んで荒い呼吸を繰り返した。
――死ぬかと思った。
びしょびしょになった全身などは既にどうでもよく、ただ体を楽にするために仰向けに寝返りを打った。体を大の字にして空を見上げる。冷やされた体に伝わるコンクリートの熱が心地よかった。
ようやく息も整ったころ、一つの影が空を遮った。
僕を見下ろすように仁王立ちする少女。しっとりと濡れた髪とビー玉のようなまん丸の瞳が不思議そうに僕を見る。濡れたスカートが少女の体にぴとりとはりつき、そこから伸びるすらりと細い脚の輪郭が浮き出ている様子に思わずドキッとした。
ごめん、ありがとう。そう言うため、口を開きかけた矢先、
「あんたもしかして泳げんと!?まったく、男なんに情けなかね!」
まったく可愛げのない言葉を吐きかけられた。方言だったが、何を言いたいかははっきり分かった。
「ごめん、悪かったよ」
純粋にそう思い、少女に伝える。それもそうだ。おそらくこの子は、飛ばされた僕の地図を取ろうとして飛び出した。それを思わず引き留めようとして海に落ち、あげく助けてまでもらったのだから当然だろう。
謝られた少女はぷいと、頬を膨らませてそっぽを向く。それから一枚の紙を差し出してきた。
飛ばされた地図だ。
「ありがとう」
渡された地図を眺め、もう一度少女の顔色を伺いながら、口を開いた。
「その、ところでこの場所なんだけど……」
そっぽを向いた少女は、ちらっとこちらを見るやいなや、地図を僕からぶんどった。少女は地図をじっと眺め、はあ、とため息をつく。そして何かを言うわけでもなく、地図を持ったまま歩き始めた。
「ちょっと」
予想外の動きをした少女に出足がつかず、小走りのように追いかける。つんと胸を張った少女はすたすたと足が早く、そこから言葉を発することはほとんどなかった。
少女の後ろを歩くこと数分。少女が立ち止まったのは、辺り一帯でひときわ存在感を放つ、立派な屋敷だった。
日本家屋のような屋根を持つが、門構えは洋風だ。門司港の駅舎のように、近代の欧州の影響を受けた建築なのだろう。
少女はそのまま大きな門を開き、屋敷の中へ入ってゆく。まさか。その予感は的中した。
「アキラ!」
男の怒号が聞こえた。思わず身をすくませる。束の間を置いて現れたのは、紋付袴に身を包んだ大柄な男だった。短く切りそろえた髪、蓄えられた髭、そして氷のような鋭い目つきに、思わず萎縮した。
「っとすまん、客人か。どんな御用で」
鋭い目つきの大男は、先程までの恐ろしい顔先から一変、目元を緩ませて問いかけた。
「あ、えっと」
緊張して声がうまく出ない。不貞腐れた表情で、先程の少女が突き出すように地図を男に押し付けた。
それを気にも留めることなく男は地図を眺め、
「おお、君が凪くんか!よう来た!遠かったろう」
大きな声だが、先程の怒号とは真逆に暖かみすらある声で男が話し始めた。
「当主の佐一郎だ。勇、君の父さんから話は聞いとうばい。まあ上がりんしゃい」
「お世話になります……」
すくんだ肩をもどせずに、佐一郎さんに小さく礼をした。めちゃくちゃ緊張する。この人にあったことあるのか?いや、こんなに怖かったら覚えているだろう。
なんてことを考えながら大きな玄関に入ろうとすると、
「アキラ!挨拶ぐらいせんね!」
佐一郎は少女に怒号を浴びせ、その少女もまた頬を膨らませてやってきた。
「……暁」
目も合わさずにぐいっとお辞儀をした少女は、屋敷の奥に走り去っていく。
「アキラ!何ばしようと!お客さんに失礼じゃなかとか!」
「い、いえ、気にしてませんので」
「すまんなあ、凪くん。暁は俺ん娘や。見てん通り、人見知りでな。まったく、誰に似たんだか。気難しいやつだが、どうか仲良うしてやってくれ」
佐一郎は深く頭を下げた。つられるように、こちらも深く頭を下げる。
彼の娘、港で僕を助けてくれた少女の名は暁というらしい。
まさかあの子と同じ家で暮らすことになるとは思ってもみなかった。うまくやっていけるだろうか。そんなことを考えると、少しばかり憂鬱になる。
佐一郎に感づかれぬよう、小さくため息を漏らした。
そんな憂鬱に構ってる暇もなく、眠れば朝が訪れる。普段と違う布団と枕で眠るのには少し抵抗があったが、目覚める頃には気にならなくなっていた。
結論から言うと、九州での暮らしは思った以上に心地よかった。なんというか、適度なストレスと開放感がバランスよく存在し、経験することもほとんどが新鮮だった。
それには大きな理由が一つある。夏休みだからといって、この家での暮らしは遊んでいられるわけではなかったからだ。
「凪くんも客人とはいえ、家におる以上は家族として扱う。大人として君ば守るし、何かありゃあ親のように頼って良か。だがそれ以上に、俺たちは商人家系や。施すもんがありゃあ、納めるもんもある」
佐一郎から聞いた話だが、父と佐一郎は従兄弟の関係だそうだ。そういった話を殆ど聞かなかったので険悪な仲だと思ったが、そうでもないらしい。
厳密には、お互いの先代が会社の経営方針で意見衝突したのちに佐一郎の先代である本家の方に事業が吸収されて、とか生々しい話があったそうだが、父の代ではまったくそういうことは無いようだ。
「まあ難しいこと考えんで、うちん手伝いばしてくれって話や」
佐一郎は豪快に笑った。
僕もつられて笑う。この人の人柄には、何か引き込まれるような、カリスマ。一言でいうと、そういったものがある気がした。
佐一郎は勤務先の会社の仕事があり、僕たちが手伝うのは「初代」が創業した商店の仕事らしい。佐一郎の奥さんである部長の「景子さん」から指示をもらっていた。
一口に手伝いと言っても、まさに仕事と言って差し支えなかった。
一日目。門司の地図を覚える。町名、番地、どこに誰が住んでいるか。漢字も読み仮名も覚える。暗記は得意だったのですぐに出来たが、実際の地形と地図を結びつけるのに少し苦労した。
二日目からは早くも躓きが訪れた。挨拶回りをしてこいと言うのだ。朝から夕方まで、その日決めた地図の区画の住民ほぼ全てに挨拶をしに行った。とんでもなく胃が痛かったが、想像していたより門司の人たちは暖かかった。
知らない人の家を訪ねても、悪質勧誘対策が行き届いている東京では誰も出てくることはないだろうし、理由もなくお菓子をくれたり麦茶を飲ませてくれたりはしないだろう。
そういうのは、なんだかとても嬉しかった。
おおよそ三日程度、あいさつ回りを繰り返してから、初めて仕事を任された。
「よ、よろしく」
髪を結んだ少女、暁はまた、ぷいっとそっぽを向いた。
(やりづらい……)
ひきつった顔のまま、心の底で呟いた。
今日の仕事は配達だ。景子さんから受け取った荷物を、指定された家や会社、お店、事務所まで届けに行く。
まずは暁と一緒に行動し、一連の作業を見て学ぶ。無料で渡すもの、代金を受け取るもの、追加で注文を取るもの。
町の人々に対しての暁の口ぶりは、普段のぶっきらぼうな態度からは感じられないほど達者だった。なんというか、地元の皆に愛されているような印象があり、ぎこちなく挨拶をするだけの自分が少し情けなかった。
そして「独り立ち」初日。悔しいので仕事の効率で対抗することにした。配達のリストと地図を照らし合わせ、拠点であるこの家から一筆書きのルートで最短距離で配達を遂行する。「巡回セールスマン問題」。数学教師が余った授業時間を活用して紹介していた難問だ。一筆書きのように一見単純な作業に見えても最適解を導き出すのはコンピューターですら困難というオチだったが、誤差や多少のロスを許容して考え方だけ捉えるのであれば問題ないはず。完璧な作戦だ。
「遅すぎ!どんだけ時間かけると!」
暁が僕に声をかける時は、決まって文句だった。
結論から言えば、巡回セールスマン作戦は大失敗だった。暁はむやみに非効率なルートを通っていたわけではなかった。時間帯により不在の家があるということは見事に計算外だった。
「次は絶対勝つ!」
気づけば僕も、暁に対してムキになっていた。だが、僕の挑戦をあざ笑うかのように、次の日もその次の日も負け続けた。そして、
「よし!今日は僕の方が早いだろ!」
タッチの差だが、初めて暁より早く帰ってこれた。しかし、
「ふーん、それで?あんた、今日はいくら稼いだと?」
「は?」
暁は、じゃりじゃりと小銭の音を鳴らす巾着袋を見せつけてきた。
聞くところによると、言われたことだけをこなして配達するだけでなく、お客さんが必要そうなものを売り込んで買ってもらったりすることで出した儲けは、会社の最低限の取り分を引いたら小遣いにできるらしい。
――なんだその制度は。
「まあうちより早う帰ってくることは出来たわけやし、どうしてもって言うならうちがわたしんお金で奢っちゃってもよかよ?」
ツンとした表情で自慢気に言う暁。こいつ、本当に可愛げがない!
でも今までにないほど彼女が言葉をかけてくれている。打ち解けられず、気まずいまま過ごすよりは良いだろう。
「ああ負けたよ。暑いしアイスが食べたい。あと僕からもお願いなんだけど」
「なん?」
「教えてほしいんだ。……暁の、仕事のコツ」
思い切って彼女の名前を呼ぶ。暁は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにそっぽを向いてしまった。
そこから少しだけ、ふたり無言で歩いた。海岸沿いを歩く二人を、何台もの自動車が追い越した。空から照りつけるじわじわとした日差しがアスファルトから照り返し、目線の先を陽炎がゆらゆらと揺らしていた。
「ん」
「ありがとう」
コンビニから出てきた暁は、突きつけるようにビニール袋を差し出してきた。
ビニールの包装を剥がすと、大きなソーダバーが純白の冷気を伴って現れた。
しゃくり、と。遠慮なくその氷塊にかぶりつく。
美味しい。甘く芳醇な氷が舌の上でじゅわっと溶け、つるりと喉を通って体を内側から冷やしてゆく。
この上ない贅沢だった。隣で同じアイスバーを食べる暁も、小さな口で一生懸命氷を削っている姿は小動物のようで、性格に似合わず可愛らしかった。
「東京ってさ」
そんな中まじまじとその横顔を見つめていると、前を向いたまま、暁がおもむろに口を開いた。
「東京って、どげんところと?何があると?」
「そうだな、退屈なところ、かも。なんでもありそうで、なんにもない」
前を向き直し、力なく答える。
「ふーん」
暁はまた一口、アイスをかじった。
「――凪は、さ。学校行くん、好いとー?」
「うーん。たぶん、好きじゃない、と思う」
「ふーん」
アイスを食べ終えるまで、それ以上の会話はなかった。それでも、暁が僕のことを名前で呼んでくれたことは嬉しかった。
あとから気づいたが、暁に仕事のコツを教わるのを完全に忘れていた。それでも、暁が少しだけ心を開いてくれた気がして、不満はなかった。
でも、その日以降、暁と特別会話が増えたわけではなかった。変化といえば、かかった時間だけではなく、稼いだ金額でも勝負するようになったということだ。
無論、勝てたことは一度も無かった。
ある日の昼下がり、普段より長めに任された午前の仕事を切り上げて屋敷に戻ってくると、パチパチと弾ける炭火の音が聞こえてきた。
「おーい、凪!飯にするけん、暁ば呼んできてくれ!」
「はい!」
庭でグリルの設営をする佐一郎の呼びかけに威勢良く返事すると、屋内に入って階段を上がる。
今日からしばらく、「仕事」は休みだ。夏季休暇だそうだ。
「一週間しかお休みしないんですか?」
「大人って大変なんよ」
夏休みといえば一ヶ月くらい、という考えを持っていた僕の問いかけに、景子さんは髪をかきあげながら嫌な顔ひとつせずに答えた。
「暁?いないのか?今日バーベキューだって」
呼びかけるも、暁の返事が聞こえない。
「暁、おーい」
普段なら、呼びかけに対して「せからしい!」とか言いながら部屋から飛び出してくるものだが、今日だけは違った。
「いないのか?開けるよ」
初めて見る同居人の部屋は、少女というよりまるで少年のそれだった。
片付けられた六畳間に置かれた小さなベッドと机と椅子。窓際に置かれた地球儀の下で小さなサボテンがひっそりと佇み、肩の高さくらいの本棚には、海外作家によるハードカバーの冒険譚がカラフルに揃えられていた。
その本と本の隙間。端がよれて折りたたまれた紙のようなものが挟まっていた。他の本の間には同じようなものは見当たらず、何故か無性に目についた。
後ろめたさもあり、思わずもう一度周りを見た。
音もなく風にゆれる窓のカーテン、開いたままの扉。
そしてコチコチと音を立てる振り子時計以外に、見えるものはなかった。
ぱさりと紙を広げる。その古びた様子とは裏腹に、埃っぽさは感じなかった。
昔の地図だろうか。書いてある文字は古く、読み取れない。記号や文字として見えるのは、博多や大島、それから、宗……これは読めない単語か。おそらく地名を表した文字と、港を現す錨の記号、神社の鳥居、そして潮の流れを現すような、渦巻きのような記号。
その物珍しさに見入っており、すぐそばに近づく気配に気づかなかった。
「ああいや、違くて、これは――」
顔を真っ赤にし、わかりやすいほどにぷんぷんと頬を膨らませた暁が、目の前に立っていた。彼女はまるで唸り声を上げて我慢の限界を超えた猛犬のように飛びついてきた。
「なん人のもん勝手に見よーとか!見んな!返せ!」
「うわあっ!ごめん!ごめんって!」
「許さん!絶対に許さん!返せ!早く!」
思わず地図を高く上げた手の方に持ってしまったばかりに、それを取り返そうと少女の体がぴょんぴょんと飛び上がった。今までにないくらい怒らせてしまったかもしれない。
「わ、悪かった!返す、返すから!――あっ!」
思わず後ずさった足をもつれさせ、尻餅をつく。時を同じくしてバランスを崩した暁が覆いかぶさるように倒れ込んできた。
「――ったた……その、ゴメン」
すぐに僕の上からどいた暁はいつものように僕の手から地図をぶんどると、大切そうに抱えてみせた。
「その、本当にごめん。そんなに大切なものだと思わなくて」
「……」
暁は黙って俯いた。
「ごめん。珍しくて本当に気になっただけなんだ。悪かったよ」
一生懸命弁明を試みるが、暁はまったく動かない。一か八か、内容に触れてみるか……?
「昔の地図、みたいだな。古いけど、なんだか不思議な感じで。お、お宝が隠されていたりして!……なんてな、はは」
くるっ、と少女の顔がこちらを向いた。地雷だったか?結論は否だった。
「やっぱあんたもそう思うと?」
「え、いやまあ、確かに?」
先程までの不機嫌が吹き飛んだような表情を見せた暁は、勉強机の引き出しから何やらノートのようなものを取り出してきた。
開かれたノートには、新聞記事の切り抜きと文献や写真のコピーがびっしりと貼り付けられ、説明や考察を記す少女の文字が大小様々に点在していた。
「これ全部宝島んことが書いてあると。年代も出典もまちまち。ばってん、ずっと特集され続けとー」
ぺたんと座り込んだ暁は床に広げたノートの記事をぱらぱらとめくり、集中するような目つきで語り始めた。
「学校ん同級生は、誰も宝島ん事ば信じん。じゃあなんで記事がこげんあると?存在せんていう証拠は?」
暁が向けた純真な瞳が、少し痛かった。
無理もない。ノートにまとめられた記事を流し読みすると、その出典のほとんどが個人の証言と、古い文書を解釈した現代語訳の一説。加えて、その記事は、大手のオカルト系雑誌より引用されている。
正直、信憑性は薄いだろう。
「根拠が薄かー、なんて反論はいくつも受けてきた。ばってん、そんじゃあこげん一致する証言は何?」
静かに語気を強めた暁は、曇のない眼差しで見つめてきた。確かに暁の言うとおりだ。噂自体が根拠のないものだとすれば、定期的に特集される伝説としては取るに足りないものであろう。
「確かにそうかもしれないけど、この地図と関係はあるのか?」
我ながら鋭いところを突いたつもりだった。この地図はおそらく古い時代のものであることは間違いないが、宝の在処を記すような文字や記号は見当たらない。
そんな思いで暁の方に視線を送ってみたが、当の本人は想定内といった表情で引き出しからまた小道具を取り出した。
木製の大きな三角定規と、大型のコンパスだろうか、しかし鉛筆はついておらず、尖った両端とも針のような形状をしていた。
「これは……コンパス、じゃないよな」
「ディバイダーっていう航海用ん道具。距離ば測ったりするのに使うと」
「へえ、何だか本格的だ」
思わず感心した。
暁は、床に広げた地図に片手でディバイダ―をあてがい、既につけられている印をもう片方の手で指し示した。
暁が言うには、複数の文献で示されている記述どおりに船の進路を取ると、全く同じ場所に行き着くという。それが一体何を示しているかを聞く前に、結論は佐一郎の声によって遮られた。
「なんばしようとか。飯やて言うたろう」
佐一郎は廊下から暁の部屋を覗き込みながら、はじめ強く凄ませた語気を僕を見るやいなや尻すぼみに丸めた。
「す、すみません!」
「ああいや、良かばい。ともかく、ふたりとも手ば洗うて出てきんしゃい」
ふと暁の方を見る。暁はぺたりと座り込んだまま、頬を膨らませて俯いていた。
「あー、後でさ、また聞かせてよ!僕もお腹空いちゃったし」
暁はそのまま、こくりと小さく頷いた。
お読みいただきありがとうございます。
フルバージョンの投稿は9月以降を予定しておりますので、少々お待ち下さい。