小林秀雄の一文を考えてみる
小林秀雄は難解だという人が多いようだ。また、小林秀雄信者の中にも、小林を理解せず、単なる伝統主義者、保守主義の線で片付けようとする人がいる。私は、小林秀雄の可能性はそことは違うところにあると思うので、この小文ではそれについて触れてみたい。
今回はできるだけ短いテキストを考えてみる事にした。以下のようなものだ。
『人々は日常視るところをことごとく言葉に翻訳して、蓄積する。人々は言う。「言葉ではそうだろうが、実際はそんなもんじゃない」、と。では実際とは何物か。実は彼らは次の通りに言ったのだ。「その言葉は簡単だ、もっと複雑な言葉もある」、と。』
(「アシルと亀の子 Ⅳ」より)
文章自体はこれだけである。これだけ引用して、文章の意味がわかる人はほとんどいないだろう。
細かい部分を端折ると、小林秀雄は「言葉とは何か」について議論している。その際、言葉がいかにして現実を捉えるか、が問題になっている。言葉が複雑な現実を捉える際に、どういう形を取るのか、それが問題だ。
「言葉ではそうだろうが、実際はそんなもんじゃない」という言葉に着目してみよう。これは日常生活でよく言われる台詞だ。「それは理屈だけの話だ。現実は理屈通りじゃないさ」もまた、似たような言葉として考えられる。
ここで普通の人が言おうとしているのは、言葉という道具では捉えられない複雑、多様な現実があるという事だ。ここまでは簡単だろう。
しかし、小林はその意味をあえて転換する。彼は次のように翻訳する。「その言葉は簡単だ、もっと複雑な言葉もある」と。実際には、普通人は決してこういう言葉は吐かない。しかし、小林はあえてそういう風に言い換えている。
何故小林秀雄はそんな風に言い換えたのだろうか? おそらくはそれは、小林には「文学」という言語が見えていたからだろう。文学は、複雑な言語である。それは現実の多様性を捉えた複雑な言語である。だから、小林が「もっと複雑な言葉もある」と言う時には、現実の複雑さに対応したある言語集積(文学)を想起していたのだ。
(もしかしたら哲学も含むかもしれないが、ここでは「文学」で考えていく)
しかし、一般の普通の人は文学のような、複雑で深淵な言語は知らない。彼らが現実に対応した複雑な理屈ーー哲学を知らないように。だから、彼らは「言葉ではそうだろうが、実際はそんなもんじゃない」と言うのである。その時、普通人は決して、文学を頭に浮かべていない。彼らは日常生活の中に耽溺しており、言葉は単なる符丁として使っている。
普通人にとって、言葉というのが現実に比べて貧しいものだとしても、彼らは一向に困らない。彼らは文学を読んで身を切られるような経験をした事はないし、文学に自身が助けられたという経験もない。彼らは文学がなくても、困らない。だから、彼らは言葉の複雑さを認めようとしない。「それはただの理屈さ」という言葉で、理屈一般を一蹴しても、複雑な理屈に全てを賭ける学者ではないから、別に困らない。彼らにとっては日常生活の複雑さだけで十分なのだ。彼らはそれを感じて、その中で生きている。そしてそれらが彼らの一切だ。
しかし、文学に生き、文学に死のうとしている若き批評家、小林秀雄にとってはそうではない。複雑な現実に対応し、複雑な現実を越えていこうとする言葉を彼は知っている。例えばセルバンテスの「ドン・キホーテ」のような。そうした言語を小林は知っているから、上記の言葉をあえて言い換えているのである。「もっと複雑な言葉もある」と。
ここに小林秀雄の哲学がある、と言ってもいい。それは、この「複雑な言葉」を追いかけ、解読していくという事だ。(何だ、小林秀雄ってそれだけの人か)と思われるかもしれないが、それだけだ。だが、「それだけ」を実際に自分の足で歩むとは果たしてどういう事だろうか? ここに疑問がある。
言葉よりも現実が複雑である、というのは事実だろう。しかし、我々が言葉を通じて現実を捉えなければならない以上、現実を把握するより複雑で高次な言語形態を作り上げた人を我々は、尊敬せずにはいられないのである。「小林秀雄なんてどうだっていいさ、くだらない」と言うのはもちろん、一つの意見として許される。しかし小林秀雄が何を求めて歩いたのかという事そのものは、人間が言語という論理を使って世界を理解しようとする以上、その道程にはやはり意味があると考えないわけにはいかない。
そしてその言語の複雑な形態が一つの世界を開くという事は、実際には、ただあるがままの世界、あるがままの認識、与えられた価値観だけでは良しとせずに、その先に、世界の奥に進んでいこうとする小林秀雄という一人の人間の意志があったからこそできた事だ。
小林秀雄のやろうとした事、やった事はある意味で単純である。彼は文学を愛し、文学を自分の言葉に置き換えようとした。それだけだ。しかし「それだけ」が何を意味するのか、と深く考えた時、この世界が段々当たり前のものには見えなくなってくるだろう。
あらゆるものを言葉という概念で括るのは簡単だ。単純な言葉で括って、ゴミ箱に放り込むのなら誰にでもできる。「小林秀雄なんて今ではもう時代遅れさ」。確かに、そうかもしれない。だが小林秀雄が時代遅れだと言い切る為には、小林秀雄が何を求め、何をしたかを知っていなければならないし、時代遅れとはどういう意味かもわかっていなければならない。
我々は、与えられたステレオタイプな言語では世界を、自分を理解できないと知った時、より深淵な言語に惹かれていく。そして小林秀雄はそういう道を辿ったのだ。だからこそ小林秀雄は普通人の言葉をあえて言い換えた。「もっと複雑な言葉もある」と。というのは、小林秀雄自身が「複雑な言葉」を希求した人だったからだ。