05 『ミケの呪い』
物心ついた時から、お父さんの病院で暮らしていました。
お父さんはお医者さんで、お母さんは見たことありません。何度か理由を尋ねましたが、その度にお父さんは困った顔をして、別の話を始めました。
たぶん、居なかったのだと思います。
幼い私に言い辛い、何らかの事情で。
寂しいとは思いませんでした。
病院の看護師さんや、他の入院患者のお爺さん、お婆さん、お見舞いに来る人達。毎日のように顔を合わせる人達を、皆まとめて家族だと思ってました。
もちろん、退院して会えなくなってしまう人もいましたし、命を終えて会えなくなってしまう人もいました。
そんな時はやっぱり寂しかったけど、ほんの数人だったので、その度に耐えることができました。私自身の生涯が短すぎたのです。
はっきりと記憶に残っているのは、7歳くらいからです。
小学校、私のような子供が通って、勉強したり遊んだりする施設があるのだと知っていましたが、行きたいとせがむこともできませんでした。
お勉強は、お父さんや看護師さんや、お爺さんたちが教えてくれました。
それが精一杯だって、自分で分かっていたんです。
私は病院の外に出たら、死んでしまう。
生まれてから6年間はたぶん、ずっとベッドに寝転んでいたのだと思います。それ以後も、丸々1年か2年、生死をさまよった時期もありました。
だから、12歳を迎える直前まで生きましたが、実際に「生きる」ことができたのは、ほんの5年か、6年。病院の中でだけ。
それが私の生涯でした。
恵まれていたと思っています。
それと同時に、恵まれなかったことも、事実でした。
多くの人が、生き続けることで抱えるような、苦悩や痛みとは無縁でした。
けれど、それを乗り越えることで手に入れることができる、力とか、才能のようなもの。なにより、色とりどりの思い出の数々。そういったものとも、私は無縁だったのです。
だから私には、何の力もありません。
細く、小さく、たやすく折れてしまいそうな竹製の耳かきでさえ、もったいなく思えてしまうのでした。
「……せめて」
みんなが寝静まった夜。
私はまた猫鳴館の裏にある、猫鳴神社の井戸を覗いていました。
別の世界、言うなれば現世が見える「はず」の井戸。
せめて、見せてくれたらいいのに。
祈りながら、月明かりを頼りに水面を覗きます。
映って見えたのは、11歳の私が見ていた光景。
同い年の男の子の、かわいい寝顔でした。
そういえば、そんなこともありました。
二人で病院の中庭に出て、お昼寝をしたことがあるんです。
私が一番元気だった時期に入院して来た男の子でした。
同い年の入院患者は初めてで、うれしくって、舞い上がって、今では考えられないほど明るく、積極的にふるまって、強引にお友だちになりました。
病院の人達はみんな家族、だから寂しくないよって、自分に言い聞かせていましたが、やっぱりみんな大人かご老人だったので、同い年の子供は別格だったのです。
しかも、異性。
絵本や漫画の主人公になったような気分でした。
毎日その子に会いに行って、二人で遊びました。
折り紙をしたり、トランプをしたり、たくさんおしゃべりしたり。
これはもう、お友だちから恋人になって、二人で色んな物語を紡いでゆくに違いない。
幼い私は、そんな短い夢に酔いしれていました。本当に、短かったけど、楽しかった。
私に何かがあるとすれば、この男の子と過ごした思い出だけです。
100日あったかどうかの、短すぎる思い出。
「ああ、そっか……」
井戸に別の光景が映ります。
最後に見た彼の姿。
いつも通り「またね」と言って、それぞれの病室へ戻った時の記憶です。
この時、私は間違えました。
いつもと変えて、「さよなら」と、そう言うべきだったし、言うつもりだったのです。
お父さんからも警告されてましたし、この日が限界だと、自分でもなんとなく分かっていましたから。ちゃんとお別れを言うべきだったんです。
でも、言えなかった。
また明日、会えると思いたかった。
でもこの翌日、私の命の蝋燭は倒れ、そのまま燃え尽きました。
約束を破って、急に会いに来なくなった私を、彼はどう思っているのだろう。
気がかりは長い尾を引き、ず~んと重たくのしかかる、「呪い」のようなものになって、今のダメダメな私をかたどっています。
ほんの少しでも、この先を見せてくれたら。
私が居なくなった後の彼の姿を少しでも見せてくれたら、心が軽くなるかも知れないのに、井戸は私の記憶にある部分しか見せてくれません。
それでも、新しく分かったことがありました。
「わたし、怖がってるんだ? そうでしょ?」
井戸の水面は月明かりを受け、今の私の顔を映していました。
そうだよ、と、井戸の中の私が答えます。
新しくお友だちを作って、また突然、お別れすることになったら?
その時にまた、お別れが言えなかったら?
ず~んと重い心の呪いが、もっと重くなって、私自身を潰してしまうでしょう。
それが怖いから、お友だちをつくるのを、怖がってるんだ。
そうでしょう?
そうだよ。
気付くも一人。
認めるも一人。
春の夜の冷たい風が、寝間着の裾から入って、脚を撫でました。
ペルシャちゃんは、寝る時も洋服なのかな?
クロちゃんは明日も私にかまってくれるかな?
井戸に背中を預け、お月さまをぼんやり見上げます。
この世界のお月さまは、とてもきれいに輝いています。
病院の窓から見上げていたお月さまより、ずっときれいです。