01 『ミケ』
十二歳を迎える直前、私は現世を去りました。
細く短くとも、恵まれた人生だったと思っています。
周りの人たちはみんな優しかったし。
ご飯は(全部じゃないけど)おいしかったし。
友だちのような恋人のような、そんな素敵な人にも出会えたし。
痛みや苦悩を抱える暇もない、あっという間の幸福な日々。
私の生涯は、恵まれたものでした。
それでもただひとつ、心残りがあるとすれば……あるとすれば? 言葉にするのは恥ずかしいので、お察しいただけるとありがたいのです。
やっぱり、気になってしまうもので……。
私の短い生涯で、出会えたのはその人だけで、特別に思えたのはその人だけで。私が居なくなった後の世界で、その人はどうなっていくんだろう。その人にとって、私はどういう存在になっていくんだろう。
そんなことばかりが気になって、生前はもうちょっと元気な女の子だったはずなのですが、(まあ、ずっと病院で死にかけてましたが)こちらに来てからずっとモヤモヤしていて、ウジウジしていて、何にもする気が起きないのです。
それでもいいよと、偉い人(?)は言って下さいました。
もう何年も甘えて腐って、今日も今日とてモヤモヤ、ウジウジ。
こっちの世界の集団生活に馴染めず、ひとりで静かな場所に入り浸り、井戸の底の水面を覗いているのでした。
モヤモヤ、ウジウジ、ますますです。
そんな私は生前の、彼に出会う前の、病院の窓から外を眺める私とそっくりなのでした。死んでも変わらぬおバカさんとは、どうやら私のことのようです。
「ミケちゃん……ミぃ~ケちゃ~ん!」
頭の耳がぴょこんと起きました。
長い尻尾がくるり、ふとももに巻き付きます。
井戸の縁からほっぺを持ち上げ、振り返ると、呆れ顔のクロちゃんがそこにいました。
「ま~た覗き見してる。今日は何が見えるの?」
クロちゃんが背中に抱き付き、私の頭に顎を乗せて井戸の底を覗き見ます。
「病院にいるわたしが見える」
「昨日もそうじゃなかった?」
「昨日も一昨日もその前も……ず~っとそう」
こちらの世界はフシギなことばかりですが、その中でもこの井戸は特にフシギで、見るべき者が見れば、別の世界が見えるのだそうです。
私はどうやら「見るべき者」に含まれているようなのですが、どれだけ覗いても、病院で一人寂しくしている私が見えるばかりなのでした。
時たま彼の姿が映ることもあって、その時は嬉しいのですが、本当に見たいのは、違うのです。私の記憶の中にある思い出じゃなくて、その先にいる、私が居なくなった後の世界の、彼の姿が見たい。
こちらの世界に来てから、ずぅ~っとこの井戸に通い詰めているのですが、一度も見えたことがありません。
「乙女だねぇミケちゃんは……」
クロちゃんが悪戯っぽく笑いながら、尻尾で首筋をコチョコチョしてきます。
この世界には同世代っぽい女の子がたくさんいるのですが、すでにお話したように、私はお友だち経験がたいへん不足しているため、たくさんの中でどうふるまっていいか、まったくわからずおびえてばかりでした。
その中でもクロちゃんは、ウジウジの私にかまってくれる数少ない(むしろ唯一の)お友だちです。
なので、多少イタズラされても仕返しができません。
ほっぺをむっつりさせて、井戸の底に視線を戻します。
「この井戸、クロちゃんには何が見える?」
「何も見えないよ。ぷっくり顔のミケちゃんが見える。かわいいねぇ」
クロちゃんの腕がキュっと身体に巻き付き、耳ごと頭をナデナデされます。
かまってくれるのはうれしくもあるのですが、いつものお説教に流れる気配を感じました。
だだっ子のように身体をブンブンして振り払い、そのまま井戸の脇に寝そべって、万全の聞かざる体勢に入ります。
「そんなところに寝転んだら、着物が汚れるよ?」
「だいじょうぶだもん」
暖かい春の日差しの下、厚い白詰草の群生が絨毯のようで、手足を伸ばして腹ばいになると、最高にきもちいい。ここから動きたくないです。
「ああもう、だらしない。ほら、帯が緩んでる」
今日も今日とてそんな私を、クロちゃんは見捨ててくれないようです。
「今日から『おもてなし』の稽古だよ、いっしょに行こ?」
「えぇ~~……ヤダ」
プイッとクロちゃんから顔を背け、ゴロリと寝返り。
「いつまでも見習い未満のままでいいの?」
「いいもん。わたし、お客さまのお相手なんてできないもん」
「稽古して、できるようになるんだよ」
「いぃ~~やぁぁ~~~」
両脇をグイと持ち上げられ、そのままズルズルと引きずられます。
この流れ、ここ最近で十回目くらい。
いつもクロちゃんに引っ張られては、この場に逃げ帰ってくるのです。
遠ざかる井戸を見ながら思います。
生前……短い命を終える前、幼い私にもっと時間があったら。勇気があったら。機会があったら。
ちゃんと彼に「さよなら」って言えてれば、もっと違う私になれてたのかな?
クロちゃんに世話を焼かれない、ちゃんとした女の子になれてたのかな?
やり直せるなら、どんなことだってやるでしょう。でもそれは叶わないのです。
せめてこっちの世界で、前向きになれたらいいんだけどな。
そんなことを思いながら、後ろ向きのままズルズルと引っぱられていきます。